慈悲(じひ)

仏教において慈悲(じひ)とは、他の生命に対してを与え、を取り除くこと(抜苦与楽)を望む心の働きをいう。一般的な日本語としては、目下の相手に対する「あわれみ、憐憫、慈しみ」(mercy) の気持ちを表現する場合に用いられる。

慈悲は元来、4つある四無量心四梵住)の徳目」(じ・ひ・き・しゃ)の内、最初の2つをひとまとめにした用語・概念であり、本来は慈(いつくしみ)、悲(あわれみ)と、別々の用語・概念である。

・慈はサンスクリット語の「マイトリー (maitrī)」に由来し、「ミトラ (mitra)」から造られた抽象名詞で[注 1]、本来は「衆生に楽を与えたいという心」の意味である。

・悲はサンスクリット語の「カルナー」に由来し、「人々の苦を抜きたいと願う心」の意味である。大乗仏教においては、この他者の苦しみを救いたいと願う「悲」の心を特に重視し、「大悲」(mahā-karunā)と称する。

これはキリスト教などのいう、優しさや憐憫の想いではない。仏教においては一切の生命は平等である。楽も苦も含め、すべての現象は縁起の法則で生じる中立的なものであるというのが、仏教の中核概念であるからである。

楽(らく)

仏教における(らく、: sukha)とは幸福、安楽を意味する。楽(sukha)の対義語は(duḥkha)であり、ヴェーダの宗教の基本的概念とされた。苦の滅尽は初期仏教のメインテーマであった。Monier-Williams (1964)によれば、スカの語源は su ['good'] + kha ['aperture']とされ、良い車輪の穴を持っているということであり、リグ・ヴェーダにおいては「軽やかに走る」という文意である。

苦しみ

仏教における(く、: dukkha、: दुःख, duḥkha、: sdug pa)とは、苦しみや悩み[1]、精神や肉体を悩ませる状態を指す。対義語は。仏教は無常、苦、無我の3つで三相を形成する。四諦の4つすべては苦に関する真理である。仏教は、この苦の滅尽をめざす学問体系である。「ドゥッカ」の「ドゥッ」(duḥ = dus)は、「悪い」という意味、「カ」(kha) は「空間」、「」の意味である。ウィンスロップ・サージェント(Winthrop Sargeant)によれば、「ドゥッカ」という言葉は車軸が真ん中を通っておらず、乗り心地の悪い様に由来するという。サージェントによれば、ドゥッカとは、もともと「悪い車軸の穴」というような意味をもち、転じて「不快」を意味した。

般若(はんにゃ)

仏教用語般若(はんにゃ)とは、サンスクリット語: प्रज्ञा, prajñā(プラジュニャー)、パーリ語: पञ्ञा, paññā(パンニャー)に由来し、全ての事物や道理を明らかに見抜く深い智慧のこと。仏教瞑想の文脈では、すべての物事の特性(三相)、すなわち無常、 無我を理解する力であるとしている。大乗仏教においては、それは(シューニヤ)の理解であるとしている。

三学のひとつ(戒、定、慧)[3]

五根のひとつ(信、精進、念、定、慧)

六波羅蜜菩薩悟りに達するために修める)のひとつ(般若波羅蜜)。他の五波羅蜜を成り立たせる根拠として最も重要な位置を占める。

無明(むみょう)

無明(むみょう、: avidyā)とは、仏教用語で、無知のこと。とくに仏教の説く(真理)に暗いことをいう。この概念は、形而上学的な世界の性質、とりわけ世界が無常および無我であることの教義についての無知を指す。無明は苦の根源であり、最初の因縁の輪に結びつき、繰り返す転生の始まりとなる。無明は仏教の教えの中で、様々な文脈での無知・誤解として取り上げられている。

四諦についての無知

十二因縁における最初の輪

大乗仏教における三毒のひとつ

・大乗仏教アビダルマにおける6つの煩悩心所のひとつ

上座部仏教における十結のひとつ

・上座部仏教アビダルマにおける(moha)に相当