念処経

  • パーリ:The Majjhima-nikāya Vol. I, 10, ed. V. Trenckner, London: Pāli Text Society, Text Series No. 60, 1988.
  • 漢訳:中阿含『念処経』(大正1、no. 26)
  • 和訳:及川真介(訳)「第一〇経 思念を発す―念処経」(及川真介・羽矢辰夫・平木光二『原始仏典第4巻 中部経典I』(春秋社、2004年)、pp. 135-153

【和訳】

このようにわたしは聞いている。あるとき、世尊はクルの人々のなかに住んでおられる。カンマーッサダンマというクルの人々の町がある。そこで、なるほど世尊は比丘達に語りかけた。

「比丘達よ」

「尊師様」

と、かれら比丘達は世尊に応答した。世尊はこう述べた。

〔思念を発せ〕

「比丘達よ。ここに一本道がある。有情達を浄化し、もろもろの憂い悲しみをのり越え、もろもろの苦しみ・悩みを終らせ、正しい道(真理)を証得し、涅槃を作証するためのものである。すなわち、それは四つの思念を発すことである。四つとはなにか。ここに比丘達よ。比丘は世間の貪欲による心の悩みを調伏して、〔一〕身体について身体を観察し、熱心に正しく知り、思念をもって住する。〔二〕世間の貪欲による心の悩みを調伏して、感受について感受を観察し、熱心に、正しく知り、思念をもって住する。〔三〕世間の貪欲による心の悩みを調伏して、心について心を観察し、熱心に、正しく知り、思念をもって住する。〔四〕世間の貪欲による心の悩みを調伏して、法について法を観察し、熱心に、正しく知り、思念をもって住する」

〔身体の観察、入息・出息を通して観察する〕

「では比丘達よ。どのようにして比丘は身体について身体を観察して住するのか。

ここに比丘達よ。比丘は森に行き、あるいは樹のもとに行き、あるいは空屋に行き、脚を組んで坐り、身体を真直にして面前に思念を生起させて坐る。かれは思念をそなえたまま入息し、思念をそなえて出息する。あるいは長く入息しつつ『わたしは長く入息している』と知り、あるいは長く出息しつつ『わたしは長く出息している』と知る。あるいは短く入息しつつ『わたしは短く入息している』と知り、あるいは短く出息しつつ『わたしは短く出息している』と知る。『身体全体で感受しつつわたしは入息するだろう』と学ぶ。『身体全体で感受しつつわたしは出息するだろう』と学ぶ。『身体の行(なにかを作りなそうとする意志)を鎮めつつわたしは入息するだろう』と学び、『身体の行を鎮めつつわたしは出息するだろう』と学ぶ。

たとえば、比丘達よ。巧みな轆轤工や轆轤工の内弟子は、長く轆轤を廻しながら『わたしは長く廻している』と知り、あるいは短く廻しつつ『わたしは短く廻している』と知る。まさに同じように、いいかね、比丘達よ。比丘は長く息を入息しつつ『わたしは長く入息している』と知り、あるいは外部に身体について身体を観察して住し、あるいは内部と外部から身体について身体を観察して住する。身体において生起の法を観察して住し、あるいは身体において衰滅の方を観察して住し、あるいは身体において生起と衰滅の方を観察して住する。あるいはまた、知った分量だけ、記憶した分量だけ『身体はこのようなものである』という思念がかれに現われ起こる。そして『身体の行を鎮めつつわたしは出息するだろう』と学ぶ。

このように内部に身体について身体を観察して住し、あるいは外部に身体について身体を観察して住し、あるいは、内部と外部から身体について身体を観察して住する。身体において生起の法を観察して住し、あるいは身体において衰滅の法を観察して住し、あるいは身体において生起と衰滅の法を観察して住する。あるいはまた、知った分量だけ、記憶した分量だけ『身体はこのようなものである』という思念がかれに現われ起こる。そしてかれは依存せずに住し、世間のなにものをも執取しない。このようにも、比丘達よ。比丘は身体について身体を観察して住する。

〔行住坐臥を通して身体を観察する〕

「さらにまた、比丘達よ。比丘は行きつつ『わたしは行く』と知る。あるいは立っていて『わたしは立っている』と知る。あるいは坐っていて『わたしは坐っている』と知る。あるいは寝ていて『わたしは寝ている』と知る。あるいはまた、かれの身体がそれぞれ置かれているその通りに、それぞれのそれを知る。

このように内部に身体について身体を観察して住し、あるいは外部に身体について身体を観察して住し、あるいは内部と外部から身体について身体を観察して住する。身体において生起の法を観察し、あるいは身体において衰滅の法を観察して住し、あるいは身体において生起と衰滅の法を観察して住する。

あるいはまた、知った分量だけ、記憶した分量だけ『身体はこのようなものである』という思念がかれに現われ起こる。そしてかれは依存せずに住し、世間のなにものをも執取しない。このようにも、比丘達よ。比丘は身体について身体を観察して住する」

〔正しく知る〕

「そしてまたさらに、比丘達よ。比丘は前に進むにも、後に退くにも正しく知る者である。前を視たときも正しく知る者である。[身を]曲げたときも、伸ばしたときも正しく知る者である。大衣・鉢・衣を携えるときも正しく知る者である。食べたとき、飲んだとき、噛んで食べたとき、味わったときも正しく知る者である。大小便をするときも正しく知る者である。行き、立ち、坐り、眠り、不眠を行ない、しゃべり、黙っているときも正しく知る者である。このように内部に身体について身体を観察して住し、あるいは外部に身体について身体を観察して住し、内部と外部から身体について身体を観察して住する。身体において生起の法を観察して住し、あるいは身体において衰滅の法を観察して住し、あるいは身体において生起と衰滅の法を観察して住する。あるいはまた、知った分量だけ、記憶した分量だけ『身体はこのようなものである』という思念がかれに現われ起こる。そしてかれは依存せずに住し、世間のなにものをも執取しない。このようにも、比丘達よ。比丘は身体について身体を観察して住する」

〔身体を不浄物として観察する〕

「そしてまたさらに、比丘達よ。比丘は同じこの身体が、足の裏から上に、毛髪の先から下に、皮膚の境い目まで、種々の類の不浄物で満ちているのを観察する。

『この身体には頭髪、毛、爪、歯、皮膚、肉、筋、骨、骨髄、腎臓、心臓、肝臓、肋膜、脾臓、肺、腸、腸間膜、胃、大便、胆汁、痰、膿、血液、汗、脂、涙、脂肪、唾液、鼻水、関節滑液、小便がある』と。

たとえば、比丘達よ。両方に口のある袋があって、種々につめられた穀物で満ちている。すなわち、それは米、稲、豆、そら豆、胡麻、米粒であるが、それを具眼の人はばらばらにして観察するだろう。『これらは米、これらは稲、これらは豆、これらはそら豆、これらは胡麻、これらは米粒である』と。まさにこのように、比丘達よ。なるほど、比丘は、同じこの身体が、足の裏の上に、頭髪の先から下に、皮膚の境い目まで、種々の類の不浄物で満ちているのを観察する。『この身体には頭髪、毛、爪、歯、皮膚、肉、筋、骨、骨髄、腎臓、心臓、肝臓、肋膜、脾臓、肺、腸、腸間膜、胃、大便、胆汁、痰、膿、血液、汗、脂、涙、脂肪、唾液、鼻水、関節滑液、小便がある』と、このように、内部に身体について身体を観察して住し、あるいは外部に身体について身体を観察して住し、あるいは内部と外部から身体について身体を観察して住する。身体において生起の法を観察して住し、あるいは身体において衰滅の法を観察して住し、あるいは身体において生起と衰滅の法を観察して住する。あるいはまた、知った分量だけ、記憶した分量だけ『身体はこのようなものである』という思念がかれに現われ起こる。そして、かれは依存せずに住し、世間のなにものをも執取しない。このようにも、比丘達よ。比丘は身体について身体を観察して住する」

〔身体を構成要素から観察する〕

「そしてまたさらに、比丘達よ。同じこの身体を、存在している通りに、置かれている通りに構成要素(界)から観察する。

『この身体には地の要素、水の要素、火の要素、風の要素がある』と。たとえば、比丘達よ。熟練した牛の屠殺人、あるいは牛の屠殺人の内弟子は牡牛を殺して、肉片に分けて、大道の四つ辻に坐っているであろう。まさに同じように、ね、比丘達よ。比丘はこの同じ身体を、存在している通りに、置かれている通りに構成要素から観察する。『この身体には地の要素、水の要素、火の要素、風の要素がある』と。このように、内部に身体について身体を観察して住し、あるいは外部に身体について身体を観察して住し、あるいは内部と外部から身体について身体を観察して住する。身体において生起の法を観察して住し、あるいは身体において衰滅の法を観察して住し、あるいは身体において生起と衰滅の法を観察して住する。

あるいはまた、知った分量だけ、記憶した分量だけ『身体はこのようなものである』という思念がかれに現われ起こる。そして、かれは依存せずに住し、世間のなにものをも執取しない。このようにも、比丘達よ。比丘は身体について身体を観察して住する」

〔死体の観察〕

「そしてまたさらに、比丘達よ。たとえば比丘が、遺体が墓地に捨てられて、死後一日、あるいは死後二日、あるいは死後三日たち、脹れ、青脹れて、膿みただれたものになったのを見るとしよう。かれは同じこの身体と比較してみる。『なるほど、この身体もこのような性質のものであり、このような状態になり、これは避けられない』と。このように、内部に身体について身体を観察して住し、あるいは外部に身体について身体を観察して住し、あるいは内部と外部から身体について身体を観察して住する。身体において生起の法を観察して住し、あるいは身体において衰滅の法を観察して住し、あるいは身体において生起と衰滅の法を観察して住する。あるいはまた、知った分量だけ、記憶した分量だけ『身体はこのようなものである』という思念がかれに現われ起こる。そしてかれは依存せずに住し、世間のなにものをも執取しない。このようにも、比丘達よ。比丘は身体について身体を観察して住する。

そしてまたさらに、比丘達よ。たとえば比丘が、遺体が墓地に捨てられて、カラスどもに食べられ、あるいは禿鷹どもに食べられ、あるいは鷲どもに食べられ、あるいは犬どもに食べられ、あるいはジャッカルどもに食べられ、あるいは種々の虫の類に食べられているのを見るとしよう。かれは同じこの身と死体を比較してみる。『なるほど、この身体もこのような性質のものであり、このような状態になり、これは避けられない』と。このように、内部に身体について身体を観察して住し、あるいは外部に身体について身体を観察して住し、あるいは内部と外部から身体について身体を観察して住する。身体において生起の法を観察して住し、あるいは身体において衰滅の法を観察して住し、あるいは身体において生起と衰滅の法を観察して住する。あるいはまた、知った分量だけ、記憶した分量だけ『身体はこのようなものである』という思念がかれに現われ起こる。そしてかれは依存せずに住し、世間のなにものをも執取しない。このようにも、比丘達よ。比丘は身体について身体を観察して住する。

そしてまたさらに、比丘達よ。たとえば比丘が、遺体が墓地に捨てられて、骨が鎖のようにつながり、そこに肉と血が付着し、筋が結び付いているのを見る。遺体が墓地に捨てられて、骨が鎖のようにつながり、肉はなく、血にまみれて、筋が結び付いているのを見る。遺体が墓地に捨てられて、骨が鎖のようにつながり、肉・血がなくなって、筋が結び付いているのを見る。遺体が墓地に捨てられて、骨が筋との結び付きがなくなり、方々に散乱し、手の骨、足の骨、脛の骨、腿の骨、腰の骨、背骨、頭蓋骨がそれぞれ別々になっているのを見るとしよう。かれは同じこの身をそれと比較してみる。『なるほど、この身体もこのような性質のものであり、このような状態になり、これは避けられない』と。このように、内部に身体について身体を観察して住し、あるいは外部に身体について身体を観察して住し、あるいは内部と外部から身体について身体を観察して住する。身体において生起の法を観察して住し、あるいは身体において衰滅の法を観察して住し、あるいは身体において生起と衰滅の法を観察して住する。あるいはまた、知った分量だけ、記憶した分量だけ『身体はこのようなものである』という思念がかれに現われ起こる。そしてかれは依存せずに住し、世間のなにものをも執取しない。このようにも、比丘達よ。比丘は身体について身体を観察して住する。

そしてまたさらに、比丘達よ。たとえば比丘が、遺体が墓地に捨てられて、骨が白く螺貝の色に似ているのを見る。遺体が墓地に捨てられて、骨が山となって年を経ているのを見る。遺体が墓地に捨てられて、骨が腐って粉々になっているのを見るとしよう。かれは同じこの身体をそれと比較してみる。『なるほど、この身体もこのような性質のものであり、このような状態になり、これは避けられない』と。このように、内部に身体について身体を観察して住し、あるいは外部に身体について身体を観察して住し、あるいは内部と外部から身体について身体を観察して住する。身体において生起の法を観察して住し、あるいは身体において衰滅の法を観察して住し、あるいは身体において生起と衰滅の法を観察して住する。あるいはまた、知った分量だけ、記憶した分量だけ『身体はこのようなものである』という思念がかれに現われ起こる。そしてかれは依存せずに住し、世間のなにものをも執取しない。このようにも、比丘達よ。比丘は身体について身体を観察して住する。」

〔感受を観察する〕

「では、比丘達よ。どのようにして比丘はもろもろの感受について感受を観察して住するのか。ここに、比丘達よ。比丘は楽(快感)の感受を感受しつつ『楽の感受をわたしは感受する』と知る。苦(苦痛)の感受を感受しつつ『苦の感受をわたしは感受する』と知る。苦でなく楽でない感受を感受しつつ『苦でなく楽でない感受をわたしは感受する』と知る。あるいは五官の快味をともなう楽の感受を感受しつつ『わたしは五官の快味をともなう楽の感受を感受する』と知る。あるいは五官の快味のない楽の感受を感受しつつ『わたしは五官の快味のない楽の感受を感受する』と知る。あるいは五官の快味をともなう苦の感受を感受しつつ『わたしは五官の快味をともなう苦の感受を感受する』と知る。あるいは五官の快味のない苦の感受を感受しつつ『わたしは五官の快味のない苦の感受を感受する』と知る。あるいは五官の快味をともなう不苦不楽の感受を感受しつつ『わたしは五官の快味をともなう不苦不楽の感受を感受する』と知る。あるいは五官の快味のない不苦不楽の感受を感受しつつ『わたしは五官の快味のない不苦不楽の感受を感受する』と知る。

このように、内部にもろもろの感受について感受を観察して住し、あるいは外部にもろもろの感受について感受を観察して住し、あるいは内部と外部からもろもろの感受について感受を観察して住する。あるいはもろもろの感受について生起の法を観察して住し、あるいはもろもろの感受について衰滅の法を観察して住し、あるいはもろもろの感受について生起と衰滅の法を観察して住する。そしてまた、知った分量だけ、記憶した分量だけ『感受はこのようなものである』という思念がかれに現われ起こる。そしてかれは依存せずに住し、世間のなにものをも執取しない。このようにも、なるほど、比丘達よ、比丘はもろもろの感受について感受を観察して住する」

〔心を観察して住する〕

「では、比丘達よ。どのようにして比丘は心について心を観察して住するのか。ここに、比丘達よ。比丘は貪欲ある心を『心は貪欲をもっている』と知り、あるいは貪欲を離れた心を『心は貪欲を離れている』と知る。瞋りをもった心を『心は瞋りをもっている』と知り、あるいは瞋りを離れた心を『心は瞋りを離れている』と知る。癡かさをもった心を『心は癡かさをもっている』と知り、あるいは癡かさを離れた心を『心は癡かさを離れている』と知る。統一された心を『心は統一されている』と知り、あるいは散乱した心を『心は散乱している』と知る。広大な心を『心は広大である』と知り、あるいは広大でない心を『心は広大ではない』と知る。まだ上がある心を『心はまだ上がある』と知り、あるいは無上の心を『心は無上である』と知る。定められた心を『心は定められている』と知り、あるいは定められていない心を『心は定められていない』と知る。解脱した心を『心は解脱している』と知り、あるいは解脱していない心を『心は解脱していない』と知る。

このように、内部に心について心を観察して住し、あるいは外部に心について心を観察して住し、あるいは内部と外部に心について心を観察して住する。心における生起の法を観察して住し、あるいは心における衰滅の法を観察して住し、あるいは心における生起と衰滅の法を観察して住する。そしてまた、知った分量だけ、記憶した分量だけ『心はこのようなものである』という思念がかれに現われ起こる。そしてかれは依存せずに住し、世間のなにものをも執取しない。このようにも、なるほど、比丘達よ。比丘は心について心を観察して住する」

〔五つの心の障害を観察する〕

「では、比丘達よ。どのようにして比丘はもろもろの法について法を観察して住するのか。ここに、比丘達よ。比丘は五つの障害(蓋)の法について法を観察して住する。では、比丘達よ。どのようにして比丘は五つの障害の法について法を観察して住するのか。ここに、比丘達よ。比丘は内部に欲望志向があるとき、『わたしの内部に欲望志向がある』と知る。内部に欲望志向がないとき、『わたしの内部に欲望志向はない』と知る。また、まだ生じていなかった欲望志向が生じると、それをその通りに知る。また、すでに生じている欲望志向が捨てられると、それをその通りに知る。また、捨てられた欲望志向が将来に生じないとき、それをその通りに知る。

あるいは、内部に瞋りがあるとき、『わたしの内部に瞋りがある』と知る。内部に瞋りがないとき、『わたしの内部に瞋りはない』と知る。また、まだ生じていなかった瞋りが生じると、それをその通りに知る。また、すでに生じている瞋りが捨てられると、それをその通りに知る。また、捨てられた瞋りが将来に生じないとき、それをその通りに知る。あるいは、内部にうつ気と眠気があるとき、『わたしの内部にうつ気と眠気がある』と知る。内部にうつ気と眠気がないとき、『わたしの内部にうつ気と眠気はない』と知る。また、まだ生じていなかったうつ気と眠気が生じると、それをその通りに知る。また、すでに生じているうつ気と眠気が捨てられると、それをその通りに知る。また、捨てられたうつ気と眠気が将来に生じないとき、それをその通りに知る。あるいは、内部に心の浮つきと後悔があるとき、『わたしの内部に心の浮つきと後悔がある』と知る。内部に心の浮つきと後悔がないとき、『わたしの内部に心の浮つきと後悔はない』と知る。また、まだ生じていなかった心の浮つきと後悔が生じると、それをその通りに知る。また、すでに生じている心の浮つきと後悔が捨てられると、それをその通りに知る。また、捨てられた心の浮つきと後悔が将来に生じないとき、それをその通りに知る。あるいは、内部に疑いがあるとき、『わたしの内部に疑いがある』と知る。内部に疑いがないとき、『わたしの内部に疑いはない』と知る。また、まだ生じていなかった疑いが生じると、それをその通りに知る。また、すでに生じている疑いが捨てられると、それをその通りに知る。また、捨てられた疑いが将来に生じないとき、それをその通りに知る。

このように、内部にもろもろの法について法を観察して住し、あるいは外部にもろもろの法について法を観察して住し、あるいは内部と外部にもろもろの法について法を観察して住する。もろもろの法(障害する法)の生起の法を観察して住する。あるいは、もろもろの法の衰滅の法を観察して住する。あるいはもろもろの法の生起と衰滅の法を観察して住する。そしてまた、知った分量だけ、記憶した分量だけ『障害するもろもろの法がある』という思念がかれに現われ起こる。そしてかれは依存しないで住し、また世間のなにものをも執取しない。このように、なるほど、比丘達よ。比丘は五つの障害の法について法を観察して住する」

〔五取蘊を観察する〕

「そしてまたさらに、比丘達よ。比丘はもろもろの法について、すなわち五取蘊(取著の集まり)について法を観察して住する。では、どのようにして、比丘達よ。比丘は、もろもろの法について、すなわち五取蘊について法を観察して住するのか。ここに、比丘達よ。比丘は、

『このように色形(色)がある』『このように色形あるものの生起がある』『このように色形あるものの消滅がある』

『このように感受(受)がある』『このように感受の生起がある』『このように感受の消滅がある』

『このように想念(想)がある』『このように想念の生起がある』『このように想念の消滅がある』

『このようにもろもろの作りなそうとする意志(行)がある』『このようにもろもろの作りなそうとする意志の生起がある』『このようにもろもろの作りなそうとする意志の消滅がある』

『このように識別知(識)がある』『このように識別知の生起がある』『このように識別知の消滅がある』と。

このように内部にもろもろの法について、すなわち五取蘊(取著の要件である五つのもの)について、法を観察して住し、あるいは、外部にもろもろの法について法を観察して住し、あるいは、内部外部に法について法を観察して住する。もろもろの法(五取蘊)の生起の法を観察して住する。あるいは、もろもろの法の衰滅の法を観察して住する。あるいはもろもろの法の生起と衰滅の法を観察して住する。そしてまた、知った分量だけ、記憶した分量だけ『もろもろの法がある』という思念がかれに現われ起こる。そしてかれは依存せずに住し、世間のなにものをも執取しない。このように、なるほど、比丘達よ。比丘はもろもろの法について、すなわち、取著の要件である五つのもの(五取蘊)について法を観察して住する」

〔感知の場を観察する〕

「そしてまたさらに、比丘達よ。比丘はもろもろの法について、つまり六つの内部と外部の感知の場(十二処)について法を観察して住する。では、どのようにして、比丘達よ。比丘は、もろもろの法について、すなわち六つの内部と外部の感知の場について法を観察して住するのか。

ここに、比丘達よ。比丘は眼を知り、またもろもろの色形あるもの(色)を知る。また、およそその両方によって生ずるその結びつきを知る。また、まだ生起していない結びつきが生起すると、それをその通りに知る。また、生起している結びつきが捨てられると、それをその通りに知る。また、捨てられた結びつきが将来に生起しないときには、それをその通りに知る。

また、耳を知り、そして音を知る。また、およそその両方によって生ずるその結びつきを知る。また、まだ生起していない結びつきが生起すると、それをその通りに知る。また、生起している結びつきが捨てられると、それをその通りに知る。また、捨てられた結びつきが将来に生起しないときには、それをその通りに知る。

また、鼻を知り、そして臭いを知る。また、およそその両方によって生ずるその結びつきを知る。また、まだ生起していない結びつきが生起すると、それをその通りに知る。また、生起している結びつきが捨てられると、それをその通りに知る。また、捨てられた結びつきが将来に生起しないときには、それをその通りに知る。

また、舌を知り、そして味を知る。また、およそその両方によって生ずるその結びつきを知る。また、まだ生起していない結びつきが生起すると、それをその通りに知る。また、生起している結びつきが捨てられると、それをその通りに知る。また、捨てられた結びつきが将来に生起しないときには、それをその通りに知る。

また、身体を知り、そして触れられるものを知る。また、およそその両方によって生ずるその結びつきを知る。また、まだ生起していない結びつきが生起すると、それをその通りに知る。また、生起している結びつきが捨てられると、それをその通りに知る。また、捨てられた結びつきが将来に生起しないときには、それをその通りに知る。

また、意を知り、そしてもろもろの法(意を向けるものごと)を知る。また、およそその両方によって生ずるその結びつきを知る。また、まだ生起していない結びつきが生起すると、それをその通りに知る。また、生起している結びつきが捨てられると、それをその通りに知る。また、捨てられた結びつきが将来に生起しないときには、それをその通りに知る。このように内部にもろもろの法(感知の場、六入)について、法を観察して住し・・・世間のなにものをも執取しない。このように、なるほど、比丘達よ。比丘はもろもろの法について、つまり六つの内部と外部の感知の場について法を観察して住する」

〔七つの覚りの要目を観察する〕

「そしてまたさらに、比丘達よ。比丘はもろもろの法について、つまり七つの覚りの要目(七覚支)について法を観察して住する。では、どのようにして、比丘達よ。比丘はもろもろの法について、すなわち七つの覚りの要目について法を観察して住するのか。

ここに、比丘達よ。比丘は、内部に思念という覚りの要目(念覚支)があるとき、『わたしの内部に思念という覚りの要目がある』と知る。あるいは内部に思念という覚りの要目がないとき、『わたしの内部に思念という覚りの要目はない』と知る。また、まだ生じていない思念という覚りの要目が生じたとき、それをその通りに知る。また、生じた思念という覚りの要目の修習が完成したとき、それをその通りに知る。

あるいは、内部に法を識別(選別)して知るという覚りの要目(択法覚支)があるとき、『わたしの内部に識別して知るという覚りの要目がある』と知る。あるいは内部に識別して知るという覚りの要目がないとき、『わたしの内部に識別して知るという覚りの要目はない』と知る。また、まだ生じていない識別して知るという覚りの要目が生じたとき、それをその通りに知る。また、生じた識別して知るという覚りの要目の修習が完成したとき、それをその通りに知る。

あるいは、内部に精進という覚りの要目(精進覚支)があるとき、『わたしの内部に精進という覚りの要目がある』と知る。あるいは内部に精進という覚りの要目がないとき、『わたしの内部に精進という覚りの要目はない』と知る。また、まだ生じていない精進という覚りの要目が生じたとき、それをその通りに知る。また、生じた精進という覚りの要目の修習が完成したとき、それをその通りに知る。

あるいは、内部に喜びという覚りの要目(喜覚支)があるとき、『わたしの内部に喜びという覚りの要目がある』と知る。あるいは内部に喜びという覚りの要目がないとき、『わたしの内部に喜びという覚りの要目はない』と知る。また、まだ生じていない喜びという覚りの要目が生じたとき、それをその通りに知る。また、生じた喜びという覚りの要目の修習が完成したとき、それをその通りに知る。

あるいは、内部に安らぎ(軽安)という覚りの要目(軽安覚支)があるとき、『わたしの内部に安らぎという覚りの要目がある』と知る。あるいは内部に安らぎという覚りの要目がないとき、『わたしの内部に安らぎという覚りの要目がない』と知る。また、まだ生じていない安らぎという覚りの要目が生じたとき、それをその通りに知る。また、生じた安らぎという覚りの要目の修習が完成したとき、それをその通りに知る。

あるいは、内部に精神統一(定)という覚りの要目(禅定覚支)があるとき、『わたしの内部に精神統一という覚りの要目がある』と知る。あるいは内部に精神統一という覚りの要目がないとき、『わたしの内部に精神統一という覚りの要目はない』と知る。また、まだ生じていない精神統一という覚りの要目が生じたとき、それをその通りに知る。また、生じた精神統一という覚りの要目の修習が完成したとき、それをその通りに知る。

あるいは、内部に無関心(捨)という覚りの要目(捨覚支)があるとき、『わたしの内部に無関心という覚りの要目がある』と知る。あるいは、内部に無関心という覚りの要目がないとき、『わたしの内部に無関心という覚りの要目はない』と知る。また、まだ生じていない無関心という覚りの要目が生じたとき、それをその通りに知る。また、生起した無関心という覚りの要目の修習が完成したとき、それをその通りに知る。このように内部にもろもろの法について法を観察して住し・・・世間のなにものをも執取しない。このように、なるほど、比丘達よ。比丘はもろもろの法、つまり七つの覚りの要目について法を観察して住する」

〔四つの聖なる真理を観察する〕

「そしてまたさらに、比丘達よ。比丘はもろもろの法について、つまり四つの聖なる真理(四聖諦)について法を観察して住する。では、どのように、比丘達よ。比丘はもろもろの法について、つまり四つの聖なる真理について法を観察して住するのか。

ここに、比丘達よ。比丘は、『これは苦である』と如実に知る。『これは苦の生起(因)である』と如実に知る。『これは苦の消滅である』と如実に知る。『これは苦の消滅におもむく実践修行である』と如実に知る。このように、内部にもろもろの法(四聖諦)において、法を観察して住する。あるいは、外部にもろもろの法において法を観察して住する。あるいは、内部と外部にもろもろの法において法を観察して住する。あるいはもろもろの法において生起の法を観察して住する。あるいはもろもろの法において衰滅の法を観察して住する。あるいはもろもろの法において生起と衰滅の法を観察して住する。すると、知った分量だけ、記憶した分量だけ『もろもろの法はこのようなものである』という思念がかれに現われ起こる。そしてかれは依存せずに住し、世間のなにものをも執取しない。このように、なるほど、比丘達よ。比丘はもろもろの法について、つまり四つの聖なる真理について法を観察して住する」

〔思念を発せば果報がある〕

「誰でも、必ず、比丘達よ。これらの四つの思念を発すこと(念処・念住)をこのように七年間修習すると、かれには二つの果報のうちの一つの果報が期待される。すなわち、現世にいるままで全知を得ることが期待され、あるいは、有余依であれば不還者の境地が期待される。比丘達よ。七年間はさて措き、誰でも必ず、比丘達よ。これらの四つの思念を発すことを、このように六年間、五年、四年、三年、二年、一年間修習すると、…乃至…比丘達よ。一年間はさて措き、誰でも必ず、比丘達よ。これらの四つの思念を発すことを、このように七カ月間修習すると、かれには二つの果報のうちの一つの果報が期待される。すなわち、現世にいるままで全知を得ることが期待され、あるいは、有余依であれば不還者の境地が期待される。

比丘達よ。七カ月はさて措き、誰でも必ず、比丘達よ。これらの四つの思念を発すことをこのように六カ月間、五カ月、四カ月、三カ月、二カ月、一カ月、半月修習すると、…乃至…比丘達よ。半月間はさて措き、誰でも必ず、比丘達よ。これらの四つの思念を発すことをこのように七日間修習すると、かれには二つの果報のうちの一つの果報が期待される。すなわち、現世にいるままで全知を得ることが期待され、あるいは、有余依であれば不還者の境地が期待される。

比丘達よ。この一本道は有情達を浄化し、もろもろの憂い悲しみを乗り越え、もろもろの苦しみ、悩みを終わらせ、真理を証得し、涅槃を作証するためのものである。すなわち、それがこの四つの思念を発すことである、と。このように、ここで説かれたことは、この上述の大目的によって説かれているのである、と。

このように世尊は述べた。意を得たかれ等比丘達は、世尊が述べたことに大歓喜した、という。

 念処経 第十

  根本法門品 第一