スッタニパータ
訳者によるまえがき
スッタニパータ
第一 蛇の脱皮の章
一 蛇の脱皮
二 牛飼いダニヤ
三 犀【さい】の角【つの】
四 耕作者バーラドヴァージャ
五 鍛冶工チュンダ
六 破滅
七 賤しい人
八 慈しみ
九 雪山の夜叉【やしゃ】ヘーマヴァタ
一〇 夜叉【やしゃ】アーラヴァカ
一一 勝利
一二 聖者
第二 小さな章
一 三宝
二 なまぐさ
三 友情
四 こよなき幸せ
五 夜叉 スーチローマ
六 理にかなった行い
七 バラモンにふさわしいこと
八 船
九 戒【いまし】め
一〇 奮起
一一 実子ラーフラ
一二 弟子ヴァンギーサ
一三 正しい遊行
一四 信者ダンミカ
第三 大きな章
一 出家
二 悪魔ナムチとの戦い
三 みごとに説かれた経
四 バラモン・スンダリカ・バーラドヴァージャ
五 青年マーガ
六 遍歴行者サビヤ
七 結髪【けっぱつ】行者セーラ
八 矢
九 青年ヴァーセッタ
一〇 誹謗【ひぼう】者コーカーリヤ
一一 アシタ仙の甥ナーラカ
一二 二種の考察
第四 八詩頌の章
一 欲望
二 洞窟についての八詩頌
三 悪意についての八詩頌
四 清浄についての八詩頌
五 最上についての八詩頌
六 老い
七 メッテーヤ族のティッサ
八 遍歴論者パスーラ
九 バラモン・マーガンディヤ
一〇 生きているあいだに
一一 闘争
一二 論争—小編
一三 論争—長編
一四 バラモン・トゥヴァタカ
一五 暴力
一六 長老サーリプッタ
第五 彼岸に到る道の章
一 序
二 バラモンの門弟アジタの質問
三 バラモンの門弟メッテーヤ族のティッサの質問
四 バラモンの門弟プンナカの質問
五 バラモンの門弟メッタグーの質問
六 バラモンの門弟ドータカの質問
七 バラモンの門弟ウパシーヴァの質問
八 バラモンの門弟ナンダの質問
九 バラモンの門弟へーマカの質問
一〇 バラモンの門弟トーディヤの質問
一一 バラモンの門弟カッパの質問
一二 バラモンの門弟ジャトゥカンニンの質問
一三 バラモンの門弟バドラーヴダの質問
一四 バラモンの門弟ウダヤの質問
一五 バラモンの門弟ポーサーラの質問
一六 バラモンの門弟モーガラージャの質問
一七 バラモンの門弟ピンギヤの質問
一八 バラモンの門弟十六人の結び
解説
年譜
訳者あとがき
スッタニパータ[1]
尊き師、「目覚めた人」[2]に礼拝たてまつります。
第一 蛇の脱皮の章[3]
一 蛇の脱皮[4]
1
蛇の毒が(身体中に)広がるのを薬で制するように、怒りが起るのを制する出家修行者[5]は、この世のものもあの世のものもすべて捨てさる。蛇が脱皮して古い皮を捨てさるように。[6]
2
池に生える蓮の花を手折【たお】るように、愛欲をすっかりなくした出家修行者は、この世のものもあの世のものもすべて捨てさる。蛇が脱皮して古い皮を捨てさるように。
3
激流[7]を一つ残らず干上がらさせた出家修行者は、この世のものもあの世のものもすべて捨てさる。蛇が脱皮して古い皮を捨てさるように。
4
速い流れが、もろい葦の橋を流しさるように、すべての欲望を流しさった出家修行者は、この世のものもあの世のものもすべて捨てさる。蛇が脱皮して古い皮を捨てさるように。
5
無花果【いちじく】の木に花が見出せないように、官能的なこの世の様々な生き方になんの意味も見出さない出家修行者は、この世のものもあの世のものもすべて捨てさる。蛇が脱皮して古い皮を捨てさるように。
6
心に怒りがなく、官能的欲望を超越した出家修行者は、この世もあの世も捨てさる。蛇が脱皮して古い皮を捨てさるように。
7
悪意を燃やし尽くし、心を清らかにした出家修行者は、この世のものもあの世のものもすべて捨てさる。蛇が脱皮して古い皮を捨てさるように。
8
速すぎることもなく、遅すぎることもなく[8]、二元論的見方を超越した出家修行者は、この世のものもあの世のものもすべて捨てさる。蛇が脱皮して古い皮を捨てさるように。
9
速すぎることもなく、遅すぎることもなく、この世のすべては虚仮【こけ】であると知った出家修行者は、この世のものもあの世のものもすべて捨てさる。蛇が脱皮して古い皮を捨てさるように。
10
速すぎることもなく、遅すぎることもなく、すべては虚仮であると知り、貪欲【とんよく】[9]から離れた出家修行者は、この世のものもあの世のものもすべて捨てさる。蛇が脱皮して古い皮を捨てさるように。
11
速すぎることもなく、遅すぎることもなく、すべては虚仮であると知り、愛欲から離れた出家修行者は、この世のものもあの世のものもすべて捨てさる。蛇が脱皮して古い皮を捨てさるように。
12
速すぎることもなく、遅すぎることもなく、すべては虚仮であると知り、憎悪から離れた出家修行者は、この世のものもあの世のものもすべて捨てさる。蛇が脱皮して古い皮を捨てさるように。
13
速すぎることもなく、遅すぎることもなく、すべては虚仮であると知り、迷妄【めいもう】から離れた出家修行者は、この世のものもあの世のものもすべて捨てさる。蛇が脱皮して古い皮を捨てさるように。
14
悪い習性がいささかもなく、悪の根を抜き取った出家修行者は、この世のものもあの世のものもすべて捨てさる。蛇が脱皮して古い皮を捨てさるように。
15
この世に再び生まれる要因となる煩悩[10]を断ち切った出家修行者は、この世のものもあの世のものもすべて捨てさる。蛇が脱皮して古い皮を捨てさるように。
16
人を生存に縛りつける要因となる激しい愛着を断ち切った出家修行者は、この世のものもあの世のものもすべて捨てさる。蛇が脱皮して古い皮を捨てさるように。
17
五つの覆い[11]を乗り越え、動揺することなく、疑うことなく、欲望の矢を抜き取った出家修行者は、この世のものもあの世のものもすべて捨てさる。蛇が脱皮して古い皮を捨てさるように。
二 牛飼いダニヤ[12]
牛飼いダニヤが言った。
18
「私は、すでに飯を炊き、乳も搾り終わった。私は家族とともに、マヒー川の岸のほとりに住んでいる。
私の小屋の屋根は葺【ふ】かれ、炊事用の火も燃えている。神よ、雨を降らそうと望むなら、雨を降らせ[13]」
ブッダがお答えになった。
19
「私は、すでに怒りもなく、心のかたくなさも消えた。私はマヒー川の岸のほとりに一夜を過ごす。小屋の屋根のような私の心の覆いは取り除かれ、欲望の火も消えた。神よ、雨を降らそうと望むなら、雨を降らせ」
牛飼いダニヤが言った。
20
「蚊【か】も虻【あぶ】もおらず、牛たちは沼地に茂った草を食【は】み、雨が降っても、耐え忍ぶだろう。神よ、雨を降らそうと望むなら、雨を降らせ」[14]
ブッダがお答えになった。
21
「私は、頑丈で巧みに作られた筏【いかだ】で、すでに激流を渡り終え、彼岸【ひがん】[15]に達した。私には、もはや筏の必要はない。神よ、雨を降らそうと望むなら、雨を降らせ」
牛飼いダニヤが言った。
22
「私の妻は従順で、貪ることがなく、久しく連れ添ってきて、私の気に入っており、他人【ひと】が妻の悪口を言うのを聞いたことがない。神よ、雨を降らそうと望むなら、雨を降らせ」
ブッダがお答えになった。
23
「私の心は温順で、解き放たれており、長いあいだの修養によって自制されており、私の中にはいかなる悪も存在しない。神よ、雨を降らそうと望むなら、雨を降らせ」
牛飼いダニヤが言った。
24
「私は、自分で生計を立て、子供も健やかに育っており、彼らの悪口を聞いたことがない。神よ、雨を降らそうと望むなら、雨を降らせ」
ブッダがお答えになった。
25
「私は、誰にも雇われず、他人に雇われる必要もなく、自ら得たものによって全世界を歩む。神よ、雨を降らそうと望むなら、雨を降らせ」
牛飼いダニヤが言った。
26
「私は、子牛も、乳を飲ます牛も、孕んだ牝牛も、これから子を産む若い牝牛も、牛たちの頭【かしら】である牡牛も持っている。神よ、雨を降らそうと望むなら、雨を降らせ」
ブッダがお答えになった。
27
「私は、子牛も、乳を飲ます牛も、孕んだ牝牛も、これから子を産む若い牝牛も、牛たちの頭である牡牛も持っていない。神よ、雨を降らそうと望むなら、雨を降らせ」
牛飼いダニヤが言った。
28
「牛を繋ぐ杭は、しっかりと打ち込まれていて揺るがず、ムンジャ草[16]で綯【な】った新しい縄は、牡牛も引きちぎれないだろう。神よ、雨を降らそうと望むなら、雨を降らせ」
ブッダがお答えになった。
29
「牡牛のように、束縛を断ち切り、象のように、悪臭を放つクサカズラを踏みにじり、私はもはや母胎に入ることがない[17]。神よ、雨を降らそうと望むなら、雨を降らせ」
30
するとたちまち大きな雲が現れて、雨が降り、低地と丘とを満たした。神が降らす雨音【あまおと】を聞いて、ダニヤは言った。
31
「私たちは、ブッダにお目にかかり、じつに多くのものを得ました。眼ある人[18]よ、私たちはあなたに帰依【きえ】します。私たちの師となってください。大いなる聖者よ。
32
妻も私も従順に、ブッダのもとで身を清く保ちます[19]。生死の彼岸に渡り、苦しみに終止符を打ちます」
悪魔マーラ[20]が言った。
33
「子を持つ者は,子について喜び、牛を持つ者は、牛について喜ぶ。人間の喜びは、愛着の対象から生まれる。愛着の対象を持たない者は、じつに喜ぶことがない」
ブッダがお答えになった。
34
「子を持つ者は、子について憂【うれ】い、牛を持つ者は、牛について憂う。人間の憂いは、愛着の対象から生まれる。愛着の対象を持たない者は、じつに憂うことがない」
三 犀【さい】の角[21]
35
いかなる生きものも傷つけず、苦しめず、(愛着の対象となる)子は言うまでもなく、仲間も持とうとするな。犀の一角のようにただ独りで歩め。
36
(他人【ひと】との)絆から愛着が生まれ、愛着から苦しみが生まれる。愛着には、この危険があるのを見て、犀の一角のようにただ独りで歩め。
37
友人や仲間を思いやったりすると、心が絆【ほだ】され、自分の目的を失う。親しみには、この恐れがあるのを見て、犀の一角のようにただ独りで歩め。
38
子供や妻に対する愛着は、竹が伸びると、枝が広まり絡まるようなものである。筍【たけのこ】が絡まりあわないように、犀の一角のようにただ独りで歩め。
39
繋がれていない鹿が、森の中を気ままに彷徨【さまよ】うように、自由を求める聡明な者は、犀の一角のようにただ独りで歩め。
40
仲間と一緒にいれば、休んでいても,立っていても、散策していても、仲間から呼び掛けられずにはいられない。他人に制約されることなく、自由を求める者は、犀の一角のようにただ独りで歩め。
41
仲間と一緒にいれば、享楽と、楽しみがあり、子供があれば愛着が生まれる。愛しきものと別れるのは辛くとも、犀の一角のようにただ独りで歩め。
42
どこにいても心安らかで、何ものをも嫌悪することなく、得られたもので満足する。いかなる苦難にも耐え、恐れることがない人は、犀の一角のようにただ独りで歩め。
43
出家者でも、在家者でも不親切な人たちがいる。他人のことを気にすることなく、犀の角一のようにただ独りで歩め。
44
葉をすっかり落とした黒檀【こくたん】の木のように、在家者のしるしを捨てさった者は世俗生活のしがらみを捨てさって、犀の一角のようにただ独りで歩め。
45
熱心で、心が堅固で、あらゆる危険に打ち勝とうとする友人を得たならば、心弾ませ、意識の覚めた状態[22]を保ちながら、彼とともに歩め。[23]
46
賢明な同伴者、あるいは明敏な友人が得られなければ、王が征服した国を捨てて立ち去るように、犀の一角のようにただ独りで歩め。[24]
47
じつに友を得ることはよいことである。自分より優れ、あるいは自分と同等な友に親しむべきである。こうした友が得られなければ、罪過のない生活を楽しみとし、犀の一角のようにただ独りで歩め。[25]
48
金細工師が作った金の腕輪を、片方の腕に二つ一緒に着【つ】ければ、ぶつかり合ってしまう。修行者も二人いるといがみあうので、犀の一角のようにただ独りで歩め。
49
二人でいると言い合いと諍いが起こる。この危険を予知し、犀の一角のようにただ独りで歩め。
50
じつに欲望は色鮮やかで甘美であり、心を楽しませ、攪乱【かくらん】してしまう。もろもろの欲望の対象には、この本性があるのを見て、犀の一角のようにただ独りで歩め。
51
これらは私にとって、災害、腫【は】れ物、禍【わざわい】、病【やまい】、矢[26]であり、恐怖である。もろもろの欲望の対象には、この恐ろしさがあるのを見て、犀の一角のようにただ独りで歩め。
52
寒さと暑さと、飢えと渇きと、風と太陽の灼熱と、虻【あぶ】と蛇とこれらすべてに打ち勝って、犀の一角のようにただ独りで歩め。
53
肩の筋肉が発達し、蓮華紋が現れた象[27]が、群れを離れて森の中を気ままに遊歩するように、犀の一角のようにただ独りで歩め。
54
人の集いを楽しみとする人は、つかの間【ま】たりとも解放されない。太陽の末裔[28]ブッダの言葉を心に刻み、犀の角のようにただ独りで歩め。
55
誤った見解から離れ、解脱に確実に到る道を見出した者は、もはや他の人たちに煩わされることなく、犀の一角のようにただ独りで歩め。
56
貪らず、偽らず、渇望せず、欺瞞【ぎまん】なく、濁りと迷妄を取り除き、世間に囚われることなく、犀の一角のようにただ独りで歩め。
57
品行が悪くて確たる目的を持たない友人を避け、欲望に溺れて怠慢な人に親しまず、犀の一角のようにただ独りで歩め。
58
学識豊かで、教えを守り、高潔で、明敏な友人と交わり、(こうした友が得られなければ、)目的を定めて、疑念を持たず、犀の一角のようにただ独りで歩め。
59
遊戯や娯楽といった官能的快楽に心惹かれず、満足せず、虚飾を捨てて、真実を語り、犀の一角のようにただ独りで歩め。
60
子供、妻、父、母、財物と穀物、親族、官能的歓楽、これらすべてを捨てさり、犀の一角のようにただ独りで歩め。
61
感覚器官[29]の対象への執着は、楽しみ少なく、心満たされず、苦しみが多い。それは釣り針のような罠である、と知る賢者は、犀の一角のようにただ独りで歩め。
62
網を破り逃げ去った魚が再び網に戻らないように、また、火がすでに焼き尽くされたところに戻ってこないように、もろもろの迷いのしがらみを振り払い、犀の一角のようにただ独りで歩め。
63
歩む時は目を下を向け[30]、うろつかず、欲望の対象から感覚器官と心[31]を護り、情欲に流され、身を焦がすことなく、犀の一角のようにただ独りで歩め。
64
葉をすっかり落としたパーリチャッタ樹[32]のように、在家者のしるしを捨てさり、者衣を纏【まと】った者は、犀の一角のようにただ独りで歩め。
65
美味なるものを求めず、他人[33]を養うことなく、家ごとに食を乞い、家を選【え】り好みしない者は、犀の一角のようにただ独りで歩め。
66
心の五つの覆い[34]を取り除き、付随する煩悩を駆逐し、他のものに頼ることなく、愛憎を断ち切った者は、犀の一角のようにただ独りで歩め。
67
これまでの楽しみと苦しみ、快楽と憂慮を捨てさり、清らかな平静と沈着さを得た者は、犀の一角のようにただ独りで歩め。
68
至高の目的のために励み、心くじけることなく、怠【おこた】らず、体力と知力とを具えて堅固な者は、犀の一角のようにただ独りで歩め。
69
人里離れての瞑想を怠ることなく、もろもろのことについて、つねに理【ことわり】に従い、人生には煩いのあることをわきまえ、犀の一角のようにただ独りで歩め。
70
激しい愛着をなくすために、教えを注意深く、賢明に学び、考え、理解し、自制し、努力して、犀の一角のようにただ独りで歩め。
71
物音に怯【おび】えないライオン[35]のように、網に捕われない風のように、水に汚されない蓮のように、犀の一角のようにただ独りで歩め。
72
牙が頑丈で、他の獣を打ち負かす百獣の王ライオンのように、人里離れた住まいに引きこもり、犀の一角のようにただ独りで歩め。
73
しかるべき時に他人に対して慈【じ】・悲【ひ】・捨【しゃ】・喜【き】の心を持ち[36]、世間に束縛されることなく、犀の一角のようにただ独りで歩め。
74
貪りと怒りと迷妄の三毒[37]を捨て、世間的しがらみを断ち、死を恐れず、犀の一角のようにただ独りで歩め。
75
人は、自分の利益のために他人と交わり、他人に仕える。今どき、自分の利益を求めない友は得がたい。自分の利益のみを求める人は、汚らわしい。犀の一角のようにただ独りで歩め。
四 耕作者バーラドヴァージャ[38]
私は次のように聞いた。[39]
ある時ブッダは、マガダ国[40]の南部の山中のエーカーラーラというバラモン[41]たちの村に逗留されていた。
その村には、バラモンの耕作者でバーラドヴァージャという者がいた。彼が使用人たちに食べ物を配っていたので、ブッダは近づいて、傍【かたわ】らに立った。バラモンはブッダが托鉢のために立っているのを見て、こう告げた。
「修養に励む人[42]よ、私は耕し、種を播【ま】き、その後で食べる。あなたも同じく、耕し、種を播き、その後で食べよ」
ブッダは答えた。
「バラモンよ、私もまた耕し、種を播き、その後で食べている」
バラモンが言った。
「しかし、あなたの軛【くびき】も犂【すき】も犂の刃も、牛を追う突き棒も牛も見あたらない。それなのに、あなたはどうして、『バラモンよ、私もまた耕し、種を播き、その後で食べる』と言えるのか」
さらにバラモンは、偈でもってブッダに告げた。
76
「あなたは自分も耕作すると言うが、私たちはあなたが耕作するのを見たことがない。あなたも耕作するということを、私たちにわかるように説明せよ」
(ブッダがお答えになった)
77
「私にとっては、信仰[43]が種であり、修行が雨であり、叡智が軛と犂である。慎みが犂の柄であり、心が軛を縛る縄であり、意識の覚めた状態が犂の刃と突き棒である。
78
私は振る舞いを慎み、言葉を慎み、食を節制している。私は真実によって煩悩を刈り取り、穏やかさによって心を軛から解き放つ。
79
努力が私の牛であり、退くことなく進み、そこに到れば、もはや憂いのない休息の境地に運んでくれる。
80
これが私の耕作であり、甘露[44]の果実をもたらす。この耕作によって、あらゆる苦しみから解き放たれる。
81[45]
私は、偈を唱えることに対する報酬[46]として、食べ物を受け取らない。それは『目覚めた人』のすることではない。『目覚めた人』は偈を唱えることに対する報酬を斥【しりぞ】ける。バラモンよ、そうするのが『目覚めた人』の態度である」
この時バーラドヴァージャは、ブッダに乳粥【ちちかゆ】を捧げて、こう言った。
「あなたは甘露の穀物をもたらす耕作をされておられますので、耕作者です」
(ブッダの答え)
82
「最高の境地に達した聖者、汚【けが】れ[47]を消滅した人、悔いることのない人には、他の食べ物と飲み物を捧げよ。彼らに供物を捧げることによって功徳を積むことができる[48]」
バーラドヴァージャが訊【き】いた。
「ではゴータマ[49](・ブッダ)よ、(あなたが斥けられた)この乳粥を、誰に捧げたらいいのでしょうか」
ブッダがお答えになった。
「バラモンよ、神々、悪魔、ブラフマー神[50]、人間、修行者、バラモンたちのいるこの世界で、如来[51]とその弟子たち以外に、この乳粥を食べてすっかり消化できる者は見当たらない。それゆえバラモンよ、その乳粥を草木のあまり生えていないところか、生きもののいない水中に捨てよ」
そこでバーラドヴァージャは、その乳粥を生きもののいない水中に捨てた。すると、あたかも一日中陽に当たっていて焼けた犂の刃が水の中にいれられたように、ジュジュと音がして、湯煙が立ちのぼった。
それを目【ま】の当たりにしたバーラドヴァージャは驚愕【きょうがく】し、鳥肌が立った。ブッダのもとに行き、ブッダの両足に頭をつけて礼拝し、申し上げた。
「すばらしいことです、ブッダよ。
あなたは、あたかも倒れた者を起こすように、覆い隠されていたたものを開示するように、道に迷った者に方角を示すように、『目ある者[52]は見よ』と言って暗闇で燈火をかかげるように、真理を明らかにされました。私は、ブッダに帰依します。ダンマ[53]とサンガ[54]に帰依します。私は、ブッダのもとで出家し、完全な戒律を受けたいと思います」[55]
そこでバーラドヴァージャは、ブッダのもとで出家し、完全な戒律を受けた。それからほどなく、彼は、人里離れて一人で暮らし、怠らず励み、修行に専念し、この上のなく行いを清く保ち[56]、現世において[57]自ら「目覚めた人」となり、日々を送った。彼に倣って、彼の種族の多くの者が、家を捨て出家修行者となった。
「生は尽きた。清らかな行いはなし終えた。なすべきことはなし終えた。もはや再びいかなる生も受けることはない」
こうしてバーラドヴァージャは」「供養に値する人」[58]となった。
五 鍛冶工チュンダ
鍛冶工チュンダが尋ねた。
83
「叡智ある聖者、目覚めた人、真理の主、渇望を離れた人、人の中で最高の人、最上の御者【ぎょしゃ】[59]よ、世の中にはどれだけの種類の修行者がいますか」
ブッダがお答えになった。
84
「世の中には四種類の修行者がおり、五種類はいない。あなたから聞かれたので、それを説明しよう。『道を知る者』、『道を説く者』、『道に生きる者』と『道を汚す者』である。
鍛冶工チュンダが訊いた。
85
「ブッダは、誰を『道を知る者』、『道を説く者』、『道に生きる者』と『道を汚す者』とお呼びになるのですか」
ブッダがお答えになった。
86
「疑いをなくし、苦しみの矢を抜き、平安の境地[60]を楽しみ、貪ることなく、神々と世界を導く人、(彼が第一種の修行者で)、ブッダは彼を『道を知る者』と呼ぶ。
87
世界で最高のものを最高のものと知り、今ここでダンマを説き、分析し、疑いを断ち切り、情欲に駆られることのない賢者、彼が第二種の修行者であり、『道を説く者』と呼ぶ。
88
よく説かれた教えに従って生き、完全に自制し、意識の覚めた状態を保ち、咎【とが】められることのない道を歩む人、彼が第三種の修行者であり、『道に生きる者』と呼ぶ。
89
戒律を守るふりをし、横柄【おうへい】で、家を汚し、無謀で、偽り、自制心がなく、いんちきで、形だけの修行者、彼を第四種の修行者であり『道を汚す者』と呼ぶ。
90
賢明な在家信者は、こうした修行者の特徴を知り、彼らの性質を見抜き、ブッダに対する信仰をなくさない。汚れているものとそうでないもの、清らかなものとそうでないものを、どうして見間違えることがあろうか」
六 破滅
私は次のように聞いた。
ある時ブッダは、コーサラ王国[61]の首都サーヴァッティー[62]のジェータ林にあるアナータピンダダが寄進した祇園精舎【ぎおんしょうじゃ】[63]に逗留されていた。夜半を過ぎたころ、一人の容色麗【うるわ】しい神がジェータ林を隈【くま】なく照らして、ブッダのもとに到り、礼拝して話しかけた。
91
「私は、破滅する人のことを、ゴータマ・ブッダにお尋ねします。
破滅への門はどういうものですか。私は、それを訊くために来ました」
(ブッダ)
92
「栄える人を見抜くのはたやすく、破滅する人を見抜くのもたやすい。
理を愛する人は栄え、理を嫌う人は破滅する」
93
「よくわかりました。それが第一の破壊の門ですね。ブッダよ、第二の破滅の門は何ですか」
94
「善い人たちを愛さず、悪い人たちを愛し、彼らの習慣を楽しむ。これは破滅への門である」
95
「よくわかりました。それが第二の破滅の門ですね。ブッダよ、第三の破壊の門は何ですか」
96
「眠りを貪り、集いに入り浸【びた】り、励むことなく、怠りなまけ、よく腹を立てる。これは破滅への門である」
97
「よくわかりました。それが第三の破滅の門ですね。ブッダよ、第四の破滅の門は何ですか」
98
「自らは豊かで、楽に暮らしながら、年老いて衰えた父母を養わない。これは破滅への門である」
99
「よくわかりました。それが第四の破壊の門ですね。ブッダよ、第五の破壊の門は何ですか」
100
「行い清き人【バラモン】[64]、修養に励む人、その他の乞食【こつじき】修行者を嘘をついてだます。これは破滅への門である」
101
「よくわかりました。それが第五の破壊の門ですね。ブッダよ、第六の破滅の門は何ですか」
102
「おびただしい富があり、黄金があり、食べ物がありながら、自分独りで美食に耽【ふけ】る。これは破滅への門である」
103
「よくわかりました。それが第六の破滅の門ですね。ブッダよ、第七の破滅の門は何ですか」
104
「血統を、財産を、また氏姓を誇りながら、自分の親族を軽蔑する。これは破滅への門である」
105
「よくわかりました。それが第七の破滅の門ですね。ブッダよ、第八の破滅の門は何ですか」
106
「女に溺【おぼ】れ、酒に浸【ひた】り、賭博【とばく】に嵌【はま】り、得たものをそのつど失う。これは破滅への門である」
107
「よくわかりました。それが第八の破滅の門ですね。ブッダよ、第九の破壊の門は何ですか」
108
「自分の妻に満足せず、遊女を買い、他人【ひと】の妻と交わる。これは破滅への門である」
109
「よくわかりました。それが第九の破滅の門ですね。ブッダよ、第十の破壊の門は何ですか」
110
「青春を過ぎた男が、乳房がまだティンバル果[65]ほどにしか盛り上がっていない若い女をものにし、嫉妬から夜も眠れない。これは破滅への門である」
111
「よくわかりました。それが第十の破滅の門ですね。ブッダよ、第十一の破滅の門は何ですか」
112
「女であれ男であれ、酒に浸り、財を浪費する者に実権を託す。これは破滅への門である」
113
「よくわかりました。それが第十一の破滅の門ですね。ブッダよ、第十二の破滅の門は何ですか」
114
「クシャトリヤ[66]の家系に生まれ、財力は小さいのに、野望は大きく、この世で王位に就こうと欲する。
これは破滅への門である。
115
賢者、優れた人は、知見によって、こうした破滅への門を考察し、幸せな世界を体験する」
七 賤しい人[67]
私は次のように聞いた。
ある時ブッダは、コーサラ国の首都サーヴァッティーのジェータ林の「孤独な人たちに食べ物を施す長者」が寄進した祇園精舎におられた。朝のうちに、ブッダは内衣を着て、鉢と衣をもって托鉢のためにサーヴァッティーの街中に入られた。
その時、火の祭祀を司るバラモン〔司祭者〕バーラドヴァージャの住まいには火が灯され、供物が用意されていた。ブッダはサーヴァッティーの家々を托鉢して周りながら、バーラドヴァージャの住まいに近づかれた。バラモンはブッダが遠くから来るのを見つけて言った。
「剃髪【ていはつ】の輩【やから】よ、そこに止まれ。似非【えせ】修行者よ、そこに止まれ。賤しい輩よ、そこに止まれ」
そう言われて、ブッダは火の祭祀を司るバラモン・バーラドヴァージャにこうおっしゃった。
「バラモンよ、あなたは誰が賎しい人なのかを知っているのか。人はどうして賎しい人になるのか知っているのか」
「ゴータマよ、私は誰が賎しい者で、どうして賎しい者になるかを知りません。ゴータマよ、それを私に教えてください」
「バラモンよ、私の説くことを注意して聴くがよい」
バラモンは「はい、そうします」と答えたので、ブッダは次のようにお説きになった。
116
「よく腹を立て、妬み深く、邪悪で、偽善者で、誤った見解を抱き、他人を騙【だま】す人、そんな人物は賤しい人と知れ。
117
胎生【たいしょう】のものであれ、卵生【らんしょう】[68]のものであれ、この世で生きものを害し、愛しみを持たない人、そんな人物は賤しい人と知れ。
118
村や街を破壊し、包囲し、圧政者として知られる人、そんな人物は賤しい人と知れ。
119
村であれ、林の中であれ、他人が大切にしているものを、与えられないのに奪う人、そんな人物は賤しい人と知れ。
120
負債があるのに、それを催促されると、『私は借りていない』と言い逃れる人、そんな人物は賤しい人と知れ。
121
わずかばかりのもの欲しさに、道ゆく人を襲い、奪い取る人、そんな人物は賤しい人と知れ。
122
証人として、自分のため、他人のため、あるいは金のために偽証する人、そんな人物は賤しい人と知れ。
123
力ずくにせよ合意の上にせよ、親類のあるいは友人の妻と交わる人、そんな人物は賤しい人と知れ。
124
余裕があるのに、年老いた父母を養わない人、そんな人物は賤しい人と知れ。[69]
125
父母、兄弟・姉妹、義父母を殴り、罵【ののし】る人、彼は賤しい人と知れ。
126
何が利益となるのかを尋ねられたのに、不利益になることを教え、助言を求められても、いい加減な答えをする人、そんな人物は賤しい人と知れ」
127
悪事を働いておきながら『誰にも知られないように』と願い、隠しごとをする人、そんな人物は賤しい人と知れ.
128
他人【ひと】の家に招かれ、美食にあずかりながら、(その人を)客に招いた時には、礼を尽くしてもてなさない人、そんな人物は賤しい人と知れ。
129
行い清き人【バラモン】、修養に励む人、乞食修行者などに嘘をついて騙す人、そんな人物は賤しい人と知れ。
130
食事時に行い清き人【バラモン】あるいは修養に励む人が来たのに、罵って食べ事を与えない人、そんな人物は賤しい人と知れ。
131
迷妄に覆われ、わずかばかりの物欲しさに、事実でないことを語る人、そんな人物は賤しい人と知れ」
132
自分を称賛するが、他人を軽蔑し、見下げる人、そんな人物は賤しい人と知れ」
133
他人を悩まし、欲深く、悪事を好み、物惜しみで、狡【ずる】く、恥知らずな人、そんな人物は賤しい人と知れ。
134
目覚めた人を誹【そし】り、その出家・在家の弟子を誹る人、そんな人物は賤しい人と知れ。
135
聖者ではないのにそうだと偽り、盗みを働く人、それがブラフマー神であろうと、そんな人物は賤しい人と知れ。
136
生まれによって賤しい人となるのではなく、生まれによって行い清き人【バラモン】となるのではない。
行い[70]によって賤しい人ともなり、行いによって行い清き人【バラモン】ともなる。
137
これは私が知っている実例である。チャンダーラ族出身で低いカーストのマータンガという男がいた。
138
マータンガはその行いの高潔さで有名になり、多くの王族やバラモンたちが、彼に奉仕に来た。
139
マータンガは欲情を離れ、清らかな天界への大道を昇り、ブラフマー神の世界にたどり着いた。低いカーストの生まれでも、ブラフマー神の世界に生まれる妨げとはならなかった。
140
バラモンたちは学者の家に生まれ、ヴェーダ聖典[71]を習得するが、彼らもしばしば悪業【あくごう】をなす。
141
彼らの行いは今世では非難されて当然で、来世では悪い境遇に落ちる。高いカーストの生まれでも、悪い境遇に落ち、非難される妨げにはならない。
142
生まれによって賎しい者になるのではなく、生まれによって高貴な人になるのではない。行いによって賎しい者になるのであり、行いによって高貴な人になるのである」[72]
以上の説法を聴き、火の祭祀を司るバラモン(司祭者)バーラドヴァージャは言った。
「素晴らしい教えです、ブッダよ。あなたは、あたかも倒れた者を起こすように、覆い隠されていたたものを開示すように、道に迷った者に方角を示すように、『目ある者は見よ』と言って暗闇にランプを掲げるように、真理をお説きになりました。私は在家信者として三宝に帰依します」[73]
八 慈【いつく】しみ[74]
143
よき行いに長【た】け、静謐【せいひつ】の境地に達した人は、実直で、正しく、言葉やさしく、柔和にして、思い上がってはならない。
144
足るを知り、多くを望まず、雑務少なく、ささいなことに煩わされず、質素な生活をし、感覚器官を静め、聡明にして、謙虚で、他人【ひと】の家で貪ってはならない。
145
他の識者から咎めれるような下劣な行いをしてはならない。すべての生きとし生けるものが、幸せで、安らかで、楽しくありますように。
146
いかなる生きものも、弱いものも、強いものも、長いものも、短いものも、大きなものも、小さなものも、
147
眼に見えるものも、見えないものも、遠くのものも、近くのものも、すでに生まれたものも、これから生まれるものも、生きとし生けるものがことごとく幸せでありますように。
148
誰であれ、他人【ひと】を欺【あざむ】いてはならず、軽んじてはならず、怒りや憎しみから、苦しめてはならない。
149
あたかも母親が、命がけで一人子を護るように、生きとし生けるものに、限りない慈しみの心を抱け。
150
全世界に対し、限りない慈しみの心を抱き、誰に対しても恨むことなく、敵意を持つてはならない。
151
行住坐臥【ぎょうじゅうざが】、命のあらん限り、慈しみの心を堅持せよ。これが世界における崇高な態度である。
152
もろもろの誤った見解に囚われず、規律を保ち、ものごとを正しく見て、欲望の対象への貪りを抑制した人は、再び母胎に宿ることがない。[75]
九 雪山の夜叉【やしゃ】ヘーマヴァタ[76]
153
「今日は月の十五日でウポーサタ(布薩【ふさつ】)[79]である。きれいな夜になった。名高い師ブッダにお目にかかりに行こう」
別の夜叉、ヘーマヴァタが言った。
154
「ブッダの心は、すべての生きものに慈しみ深いのであろうか。好ましいもの、好ましくないもののいずれに対しても心は統制されているのであろうか」
サーターギラが答えた。
155
「ブッダの心は、すべての生きものに慈しみ深い。好ましいもの、好ましくないもののいずれに対しても心は統制されている」
ヘーマヴァタが言った。
156
「彼は、与えられていないものを取ったりしないだろうか。彼は生きものに危害を加えないだろうか。彼は放逸【ほういつ】に流れないだろうか。彼は瞑想を蔑【ないがし】ろにしないだろうか」
サーターギラが答えた。
157
「彼は、与えられていないものを取ったりはしない。彼は生きものに危害を加えることはない。彼は放逸に流れない。彼は瞑想を蔑ろにしない」
ヘーマヴァタが言った。
158
「彼は、嘘を言わないだろうか。彼は粗野な言葉使いをしないだろうか。彼は事実に反したことを言わないだろうか。彼は愚かなことを言わないだろうか」
サーターギラが答えた。
159
「彼は嘘を言わない。彼は粗野な言葉使いをしない。彼は事実に反したことを言わない。彼は愚かなことを言わない」
ヘーマヴァタが言った。
160
「彼は官能的快楽に囚われないだろうか。彼の心は乱れることがないでだろうか。彼には迷妄がないだろうか。彼にはものごとを見通す炯眼【けいがん】があるのだろうか」
サーターギラが答えた。
161
「彼は官能的快楽に囚われない。彼の心は乱れることがない。彼には迷妄がない。彼はものごとを見通す炯眼を具えている」
ヘーマヴァタが言った。
162
「彼は叡智を具えているだろうか。彼は品行方正だろうか。彼の汚【けが】れは消滅しているだろうか。彼はもはや輪廻しないだろうか」
サーターギラが答えた。
163
「彼には叡智がある。彼は品行方正である。彼の汚れは消滅している。彼はもはや輪廻しない」
ヘーマヴァタが言った。
163a[80]
「聖者の心は、ふさわしい言葉と行いを具えているだろうか。[81]あなたは、彼には叡智があり、行いが正しいと称賛するが、その通りだろうか」
サーターギラが答えた。
163b
「聖者の心は、ふさわしい言葉と行いを具えている。彼には叡智があり、行いが正しいので、称賛に値する」
サーターギラが言った。
164
「聖者の心は、ふさわしい言葉と行いを具えている。さあ私たちは、叡智と正しい行いを具えたゴータマ師にお目にかかりに行こう」
ヘーマヴァタが言った。
165
「羚羊【かもしか】のような脚を持ち、痩身で、聡明で、少食で、欲望はなく、森の中で瞑想しているゴータマ師にお目にかかりに行こう。
166
龍やライオンのように、独りで歩み、欲望を消滅した聖者に、いかにして死から解放されるかを質【ただ】そう」
サーターギラとヘーマヴァタが共に言った。
167
「説法者にして教化者、あらゆる現象の彼岸【ひがん】に行かれ、愛憎と恐怖を克服したゴータマ師にお目にかかりに行こう」
ヘーマヴァタが尋ねた。
168
「世界はどのようにして生起するのですか。人は何に愛着を持つのですか。人は何に執着するのですか。人は何に悩まされるのですか」
ブッダがお答えになった。
169
「ヘーマヴァタよ、世界は六つのもの[82]から生起し、人は六つのもの[83]に親しみと愛おしさを抱き、六つのものに執着し、六つのものに悩まされる」
(ヘーマヴァタ)
170
「人は何に執着して苦しむのですか。人はどのようして解脱を得ることができますか」
(ブッダ)
171
「人には五つの感覚器官に欲望の対象があり、心の欲望の対象と合わせると、六つになる。それらに対する執着を離れれば、苦しみから解き放たれる。
172
この世間から解き放たれる道は、今説いたとおりであり、私はそれをあなたたちに教えた。あなたたちはそれに従えば、苦しみから解き放たれる」
(ヘーマヴァタ)
173
「この世において、誰が激流を渡るのでしょうか。誰が大海[84]を渡るのでしょうか。支えなく、寄る辺【べ】のない深海に、誰が沈まないのでしょうか」
(ブッダ)
174
「つねに行動規範を守り、叡智あり、よく心を統一し、内省し、よく意識の覚めた状態を保つ人が、渡りがたい激流を渡る。
175
愛欲の思いとすべての束縛を離れ、歓楽による生存を滅びつくした人、彼は深海に沈まない」
(ヘーマヴァタの結びの言葉)
176
「深い叡智があり、微妙な理【ことわり】を理解し、何も所有せず、官能的欲望と存在に執着せず、あらゆる面で解放され、気高い道を歩む偉大なる人を見よ。
177
高名にして、微妙な理【ことわり】を理解し、叡智を授け、官能的快楽に執着せず、すべてを知り、聡明にして、真理を見、聖なる道を歩む人を見よ。
178
今日私たちは自分の目でそれを確かめた。夜は明け、陽は昇り、完全に『目覚めた人』、激流を渡った人、汚れのない人を目にした。
179
神通力があり、名の知れた一万の夜叉たちは、あなたに帰依するでしょう。あなたは比類のない師です。
180
私たちは、完全に『目覚めた人』とその正しき教えを敬いながら、村から村へ、山から山へと渡り歩きます」
一〇 夜叉【やしゃ】アーラヴァカ
私は次のように聞いた。
ある時、ブッダはアーラーヴィー国[85]の夜叉【やしゃ】アーラヴァカの住まいに逗留されていた。その時、アーラヴァカはブッダに近づいて言った。
「修行者よ、出てこい」。
「よろしい、友よ」と答えて、ブッダは出てこられた。
「修行者よ、入れ」と夜叉は言った。
「よろしい、友よ」とお答えになり、ブッダは入っていかれた。
「修行者よ、出てこい」と夜叉は再び言った。
「よろしい、友よ」とお答えになり、ブッダは出てこられた。
「修行者よ、入れ」と夜叉は言った。
「よろしい、友よ」とお答えになり、ブッダは入っていかれた。
「修行者よ、出てこい」と夜叉は三度言った。
「よろしい、友よ」とお答えになり、ブッダは出てこられた。
「修行者よ、入れ」と夜叉は言った。
「よろしい、友よ」とお答えになり、ブッダは入っていかれた。
「修行者よ、出てこい」と夜叉は四度言った。
「私はもう出てこない。そなたはそなたのすべきことをせよ」とブッダがお答えになった。
夜叉が言った。
「修行者よ、お前に尋ねよう。もし私の質問に答えられないなら、私はお前の心を撹乱【かくらん】し、心臓を破り、両足を捉えてガンジス川の向こう岸に投げつけよう」
ブッダがおっしゃった。
「友よ、私は神々、悪魔、ブラフマー神を含む世界で、修行者、バラモン、神々、人間を含む生けるものの中で、私の心を撹乱し、心臓を破り、両足を捉えてガンジス川の向こう岸に投げつけるような人に会ったことがない。友よ、そなたが質問したいことを質問するがよい」
そこで、アーラヴァカは、次の詩句でもって質問した。
181
「この世における人間の最高の富は何だ。いかなるよい行いが、安楽をもたらすか。もろもろの味の中で最高の美味は何だ。どのように生きるのが、もっとも勝【すぐ】れた生き方か」
ブッダがお答えになった。
182
「この世では、信仰[86]が人間の最高の富である。教えの実践が、安楽をもたらす。じつに真理が最高の美味である。叡智によって生きるのが、もっとも勝れた生き方である」
(アーラヴァカ)
183
「激流は、いかにして渡れるか。大海は、どうすれば渡れるか。
苦しみは、いかにして超えられるか。どうしたら清らかになれるか」
(ブッダ)
184
「人は教えを信頼して激流を渡り、精励【せいれい】によって大海を渡り、
努力によって苦しみを超え、叡智によって清らかとなる」
(アーラヴァカ)
185
「人はいかにして叡智を得るか。いかにして財を得るか。いかにして名声を得るか。
いかにして交友を得るか。この世からあの世に赴いた時に、いかにして憂【うれ】いなきを得るか」
(ブッダ)
186
「もろもろの『供養に値する人』が説く、平安の境地に到るための教えを熱心に聴き、それを信頼し、励み努め、明察すれば叡智を得る。
187
ものごとを適切になし、責任を持って努力すれば、財を得、誠意をつくせば、名声を得、分ち与えれば、交友を得る。
188
教えに忠実な在家信者に、真理、実直、堅固、寛容という四種の徳があれば、彼はあの世に到って、憂うことがない。
189
もしもこの世に真理、自制、寛容、忍耐よりも優れたものがあると言うなら、それが何かを、修養に励む人、バラモンたちに広く問いてみよ」
(アーラヴァカ)
190
「今や私は他の修行者やバラモンに問う必要があるでしょうか。今や私は私の将来の目標を理解しました。
191
実にブッダは私のためにアーラーヴィーにお越しになったのです。今や私は、誰に捧げ物をしたら功徳を得られるかがわかりました。
192
私は完全に『目覚めた人』とその正しき必須の教えを敬いながら、村から村へ、山から山へと渡り歩きます」[87]
一一 勝利
193
行住坐臥、脚の屈伸は、身体の動きである。
194
骨と筋肉とで繋がれ、皮と肉とで糊塗【こと】され、皮膚で覆われているので、ありのままの身体は見えない。
195
身体の中には腸、胃、肝臓、膀胱、心臓、肺臓、腎臓、脾臓、
196
鼻汁、粘液、汗、脂肪、血液、関節の潤滑液、胆汁と膏【あぶら】が詰まっている。
197
またその九つの穴[88]からは、つねに不純物が流出する。目からは目やにが、耳からは耳垢【みみあか】が、
198
鼻からは鼻汁が、口からは時々胆汁や痰が、身体からは汗と垢が出る。
199
頭蓋骨の空洞には脳みそが詰まっている。しかし愚か者は無知ゆえにこの身体を清浄であると思う。
200
しかし死んで、身体が墓場に横たわり、膨れ上がり、青黒くなると、親族すら見向きもしない。
201
犬やジャッカルや狼や虫が死体を喰らい、カラスや鷲や他の獣がむさぼり喰らう。
202
聡明な出家修行者は、ブッダの教えを聴き、このことを理解する。なぜなら彼は身体のありのままの姿を見るからである。
203
かの死体も、以前は生きた身体であった。今生きている身体も、やがてあのあのような死体となる。こう理解して、内面的にも外面的にも身体に執着すべきではない。
204
欲望と愛着を捨てた聡明な出家修行者は、この世において不死[89]、安らぎ、ゆるぎない平安の境地に到達した。
205
世の人は、悪臭を放ち、あちこちから汚物を流出する二本足のこの汚れた身体を大切に思っている。
206
自分の身体を自慢したり、他人の身体を貶【おとし】めたりする人は、見る目がないと言う他ない。
十二 聖者[90]
207
人に親しむことから恐怖が生じ、家庭生活から汚【けが】れが生じる。人に親しむこともなく、家庭生活を送ることもないこと、これが聖者の生き方である。
208
すでに生じた煩悩を断ち切り、新たに煩悩を生じさせたり、培【つちか】ったりせず、独り歩む人を聖者と名づける。かの偉大なる人は、平安の境地を見たのである。
209
煩悩の生起を考察し、その原因を滅ぼし、それを培わない人、彼は生死の終焉を見る聖者であり、妄想を捨てさっており、迷える者の数に入らない。
210
あらゆる執着の対象を知りつくし、いかなるものにも執着せず、貪りと欲望を離れた聖者は、その対象を追い求めない。彼はすでに彼岸に達したからである。
211
あらゆるものを知り、あらゆるものに打ち勝ち、いとも聡明で、いかなるものにも執着せず、すべてを捨て、激しい愛着を滅し、解き放たれた人、賢者はそういう人物を聖者であると知る。
212
叡智あり、戒めの尊守を誓い、心を統一し、瞑想を楽しみ、落ち着き、執着なく、荒々しさなく、煩悩の汚れのない人、賢者はそういう人物を聖者であると知る。
213
独り歩み、怠ることなく、批難と賞讃とに心動じず、物音に怯【おび】えないライオンのように、網に捕われない風のように、水に汚されない蓮のように[91]、他人【ひと】に導かれず、他人を導く人、賢者はそういう人物を聖者であると知る。
214
他人から誉められようと、批判されようと、柱のように泰然とし、欲情を離れ、もろもろの感覚器官をよく制御している人、賢者はそういう人物を聖者であると知る。
215
真っ直ぐに動く杼【ひ】のように実直で、邪【よこしま】な行いを嫌い、正と不正とを吟味して選別する人、賢者はそういう人物を聖者であると知る。
216
自己を制し、邪な行いをせず、若いときも、中年になっても、自制しており、他人に挑発されず、 他人を挑発しない人、賢者はそういう人物を聖者であると知る。
217
容器の上部からであれ、中ほどからの物であれ、底からの物であれ、他人から施された物で生活し、施してくれた人を褒めることもなく、貶めることもない人、賢者はそういう人物を聖者であると知る。
218
性交渉を断ち、若い女性にも心惹【ひ】かれず、驕【おご】りと怠りを離れ、束縛から解き放たれた人、
賢者はそういう人物を聖者であると知る。
219
世の中を理解し、最高の真理を見、激流と大海を渡り、束縛から解き放たれ、なにものにも依存することなく、煩悩の汚れのない人、賢者はそういう人物を聖者であると知る。
220
出家者と在家者は、住むところも異なっており、生活も異なる。在家者は妻を養うが、出家者は「自分のもの」と見なすものがなく執着しない。在家者は生きものを殺すことがあっても、出家者は殺生を禁じられており、たえず生きものを愛おしむ。
221
あたかも青頸【あおくび】の孔雀が空を飛んでも、白鳥の速さに及ばないように、在家者は、人里離れて林の中で瞑想する出家修行者には及ばない。
まとめの句
「蛇の脱皮の章」は、蛇、牛飼いダニヤ、犀の角、耕作者バーラドヴァージャ、鍛冶工チュンダ、破滅、賤しい者、慈しみ、雪山の夜叉【やしゃ】ヘーマヴァタ、夜叉アーラヴァカ、勝利、聖者の十二の経で構成される。
「第一 蛇の脱皮の章」了
第二 小さな章[92]
一 三宝[93]
222
「地上のものであれ、空中のものであれ、ここに集うもろもろの生きものに幸【さち】あれ。私が説くことをよく聴け。
223
生きとし生けるものよ、耳を貸せ。日夜供物を捧げる人を慈しみ、守護せよ。
224
この世のそしてあの世のいかなる富も、天上界のいかなる宝も、如来に並ぶものはない。この優れた宝はブッダ〔仏〕の内にある。この真実の言葉[94]によって、幸あれ。
225
シャーキャ族出身の聖者は瞑想によって、煩悩の消滅、欲望からの離脱、もっとも優れた不死を達成された。その教えに並ぶものはない。この優れた宝はダンマ〔法〕の内にある。この理【ことわり】によって、幸あれ。
226
もっとも優れた目覚めた人によって清らかであると賞賛される瞑想は「直結瞑想」[95]と呼ばれる。この瞑想に並ぶものはない。この優れた宝はダンマの内にある。この理によって、幸あれ。
227
賢者が褒め称える八種の聖者は、四種[96]の各々が二組[97]で八種となる。彼らは彼岸に到達した人[98]の弟子で施しを受けるに値する。彼らに施しをすれば、福徳が得られる。この優れた宝はサンガ〔僧〕の内にある。この理によって、幸あれ。
228
ゴータマ・ブッダの教えに従い、堅固な意志を持って努め、欲望を離れた者は、目標を達成し、不死に到り、平安の境地を享受する。この優れた宝はサンガの内にある。この理によって、幸あれ。
229
聖なる真理を見た優れた人は、城門の外に打ち込まれ、四方からの風に揺るがない標柱に譬えられる。
この優れた宝はサンガの内にある。この理によって、幸あれ。
230
深い叡智のある人によってみごとに説かれた聖なる真理をはっきりと理解した者は、放逸【ほういつ】であっても、
八回目[99]の生を受けることはない。この優れた宝はサンガの内にある。この理によって、幸あれ。
231
叡智が生じると、自我という誤った見解、ブッダの教えに対する疑い、誤った修行に対する執着の三つ[100]がなくなる。彼は四悪趣[101]に堕ちることがなく、六つの重罪[102]を犯すことがない。この優れた宝はサンガの内にある。この理によって、幸あれ。
232
人が身体、言葉、心で悪事を働くなら、それを隠すことはできない、と平安の境地を目の当たりにしたブッダはお説きになった。この優れた宝はサンガの内にある。この理によって、幸あれ。
233
木々が夏の最初の月〔=四月〕に妙なる花を咲かせるように、ブッダは、平安の境地へと導く妙なる教えを人々のためにお説きになる。この優れた宝はブッダの内にある。この理によって、幸あれ。
234
優れたものを知り、与え、もたらす、優れたお方は無上の教えをお説きになる。この優れた宝はブッダの内にある。この理によって、幸あれ。
235
過去の行いはすでに尽き、未来の行いはもはや生じない。未来の生存に執着することなく、その種子を滅ぼし、生育を望まない賢者は灯火のように消えゆく。[103]この優れた宝はサンガ(僧)の内にある。この理によって、幸あれ」
(以上がブッダの教えで、以下は鬼神たちの誓いの言葉)
236[104]
「私たち、ここに集うもろもろの生きものは、地上のものであれ、空中のものであれ、神からも人からも敬われるブッダを礼拝しよう。幸あれ。
237
私たち、ここに集うもろもろの生きものは、地上のものであれ、空中のものであれ、神からも人からも敬われるダンマを礼拝しよう。幸あれ。
238
私たち、ここに集うもろもろの生きものは、地上のものであれ、空中のものであれ、神からも人からも敬われるサンガを礼拝しよう。幸あれ」
二 なまぐさ[105]
(ティッサ)
239
「稷【きび】、野菜、豆、青菜、根菜、蔓【つる】の実を正しい習慣に従って入手して食べる者は、官能的欲望のために嘘をつかない。
240
カッサパよ、あなたは他人からもらった純粋で、美味【おい】しく、よく調理された米の飯を食べている。それはなまぐさである。
241
カッサパよ、あなたは『私はなまぐさではない』と言うが、ブラフマー神の親族〔バラモン〕でありながら、美味しく調理された鶏肉と米の飯を食べている。あなたにとって『なまぐさ』とは何なのか」
(カッサパ)
242
「生きものを捕え、殺し、切断し、縛り、盗み、嘘をつき、詐欺をし、騙し、役に立たない学習をし、他人の妻と交わること。それがなまぐさであり、肉を食べることではない。[106]
243
欲望を制することなく、美味しいものを貪り、不浄にまみれ、虚無論を抱き、誤っており、頑【かたく】ななこと。それこそがなまぐさであり、肉を食べることではない。
244
横暴で、情け容赦なく、陰口を言い、友人を害し、無情で、傲慢【ごうまん】で、物惜しみで、ケチで、誰にも何も施さないこと。それこそがなまぐさであり、肉を食べることではない。
245
怒り,驕【おご】り、頑固、敵対心、欺【あざむ】き、嫉妬、大言壮言、思い上がり、うぬぼれ、悪友と交わること。それこそがなまぐさであり、肉を食べることではない。
246
品行が悪く、負債を返さず、密告をし、法廷で偽証し、猫被りで、罪を犯し、下劣なこと。それこそがなまぐさであり、肉を食べることではない。
247
この世で、生きものにまったく容赦がなく、他人のものを盗み、他人に危害を加え、行いが不道徳で、凶暴で、荒々しく、無礼なこと。それこそがなまぐさであり、肉を食べることではない。
248
貪欲で、敵対心を持ち、他人に危害を加え、たえず悪意を持ち、死後真っ逆さまに地獄の暗闇に落ちること。それこそがなまぐさであり、肉を食べることではない。
249
魚や肉を食べないことも、断食も、裸体での苦行も、剃髪も、結髪も、垢に塗【まみ】れることも、羚羊【かもしか】の粗い皮を纏うことも、火の祭祀も、不死を得るための苦行も、呪文も、供儀も、季節ごとの荒行[107]も、疑念を超えていない者を清めることはできない。
250
感覚器官を制御し、流れ込む汚れを遮断し、自分の感性を自制し、教えを守り、実直さと柔和であることを楽しめ。執着を離れ、あらゆる苦しみをなくした聖者は、見聞きすることにこだわらない」
251
カッサパはこれを繰り返しお説きになり、ヴェーダ聖典に通暁【つうぎょう】したバラモン(=ティッサ)はそれを理解した。なまぐさを離れ、何にも執着することのない聖者は、さまざまな偈頌【げじゅ】でもって、それをお説きになった。
252
「目覚めた人」のすばらしい教えを聴き、なまぐさを離れ、すべての苦しみを除きさったバラモンは、謙虚に如来を称え、即座に出家を願い出た。
三 友情[108]
253
「私はあなたの友達だ」と言いつつも、(実はその人を)軽蔑し、自分で彼のためにしてやれることをしない恥知らずな輩【やから】。そういう人物は友達ではないと知るべきである。
254
友人にたいして、いいことを言うだけで、それを実行しない輩。賢者は、そういう人物は「有言不実行の輩」であると知る。
255
友人関係が破れるのを怖がり、いいことを言いながら、相手の粗探しばかりをする輩は友人ではない。子供が父の胸に抱かれるように信頼でき、他人に仲を裂かれることがない人。そういう人物は友人である。
256
人としての責務を果たし、努力の成果を享受する人は、喜びと、称賛される幸せの礎を築く。
257
隠遁の味である静謐を知る人は、ブッダの教えの喜びを知り、苦悩なく、汚れがない。
四 こよなき幸せ[109]
私は次のように聞いた。
ある時ブッダはサーヴァッティーのジェータ林の祇園精舎に逗留されていた。夜半を過ぎたころ、一人の容色麗しい神が、林を隈【くま】なく照らして、ブッダのもとに到り、礼拝して話しかけた。[110]
258
「神々も人も、誰もが幸せを願い、幸せに思いを巡らしています。こよなき幸せを説いてください」
(ブッダの答え)
259
「愚か者に親しまず、もろもろの賢者に親しみ、尊敬に値する人々を尊敬すること。これがこよなき幸せである。
260
(住むのに)適した場所に住み、功徳を積み、正しく自制していること。これがこよなき幸せである。
261
広い学識と技術を身につけ、規律正しく、言葉使いが美しいこと。これがこよなき幸せである。
262
父母に尽くし、妻子を養い、仕事に実直なこと。これがこよなき幸せである。
263
分かち与え、理に従い、親族を護り、咎【とが】められる行いをしないこと。これがこよなき幸せである。
264
悪を止【や】め、悪を離れ、飲酒を慎み、徳行に励むこと。これがこよなき幸せである。
265
尊敬と謙遜、満足と感謝、しかるべき時に教えを聴聞すること。これがこよなき幸せである。
266
耐え忍び、言葉使い美しく、修養に励む人に会い、しかるべき時に教えを論じ合うこと。これがこよなき幸せである。
267
修養し、行い清らかで、崇高な真理を見、平安の境地を体得すること。これがこよなき幸せである。
268
世俗のものごとによって心が動揺することなく、憂いなく、汚れを離れて、安穏【あんのん】であること。これがこよなき幸せである。
269
このように行えば、いかなることにおいても敗れることなく、いかなる境遇においても安らかである。これがこよなき幸せである。
五 夜叉【やしゃ】 スーチローマ
私は次のように聞いた。
ある時ブッダは、ガヤー村のタンキタマンチャの夜叉スーチローマの住まいに逗留しておられた。その時夜叉カラと夜叉スーチローマが、ブッダの近くを通りかかった。夜叉カラは夜叉スーチローマに言った。
「彼は修行者である」
夜叉スーチローマが言った。
「彼が正真の修行者なのか、あるいは似非【えせ】修行者なのか、どちらなのかを私が確信できるまでは、彼は似非修行者であり、正真の修行者ではない」
そこで夜叉スーチローマはブッダに近づいたが、ブッダは後退【あとずさ】りした。そこで夜叉スーチローマはブッダに言った。
「修行者よ、お前は私が怖いのか」
ブッダがお答えになった。
「友よ、私はそなたが怖いのではない。しかし、そなたに触れることは悪いことである」
(スーチローマ)
「修行者よ、お前に尋ねよう。もし私の質問に答えられないなら、私はお前の心を撹乱し、心臓を破り、両足を捉えてガンジス川の向こう岸に投げつけよう」
ブッダがお答えになった。
「友よ、私は神々、悪魔、ブラフマー神を含む世界において、修行者、バラモン、神々、人間を含む生けるものの中で、私の心を撹乱し、心臓を破り、両足を捉えてガンジス川の向こう岸に投げつけよう、などと言う人に会ったことがない。友よ、あなたが質問したいことを質問するがよい[111]」
そこで、スーチローマは、次の詩句でもって質問した。
270
「貪りと怒りはどこから生起するのか。好き嫌いと恐れはどこから生起するのか。妄想はどこから生まれ、子供らが捕えたカラスを放り捨てるように、よい心を放り捨てるのか」
(ブッダの答え)
271
「貪りと怒りは自分の中から生起し、好き嫌いと恐れは自分の中から生起し、妄想は自分の中から生起し、子供らが捕えたカラスを放り捨てるように、よい心を放り捨てる。
272
ニグローダ樹[112]の幹から若枝が伸び出るように、それらは自分の中の愛欲から生起し、蔓草が、林の木々に絡み付くように、もろもろの官能的快楽に巻き付く。
273
夜叉よ、聴け。煩悩の原因を知る人は、煩悩を除きさる。彼は渡りがたく、未だかつて誰も渡ったことがない激流を渡り、再び生まれることがない」
六 理にかなった行い[113]
274
家を捨てた出家修行者の理に適った清らかな行いは、最上の宝と言われる。
275
粗野な言葉を語り、他人【ひと】を苦しませたり悩ませたりすことを好み、獣のようにふるまうなら、生活は悪くなり、汚れが増す。
276
口論を好み、迷妄に覆われた者は、たとえ出家修行者といえどもブッダの教えを理解していない。
277
無明【むみょう】に覆われ、修行を積んだ人を誹謗【ひぼう】する者は、煩悩が地獄への道であることを知らない。
278
このように堕落した出家修行者は、生々流転をくりかえし、暗闇から暗闇へと移り、死後には苦悩する。
279
長年使われ、一杯になった肥溜【こえだ】めを清掃するのが難しいように、このように腐敗した出家者を清めるのは至難である。
280
出家修行者よ、在家生活に未練を残し、邪【よこしま】な欲望と邪な考えを持ち、邪な行いをする出家者がいたら、
281
籾殻【もみがら】を吹き飛ばし、ゴミを捨てさるように、一致団結して彼らを追放せよ。
282
彼らは、自分は修行者でないのに修行者と思い込んでいる屑【くず】である。邪な欲望と邪な考えを持ち、邪な行いをする出家者を追放し、
283
自ら清き者となり、互いに思いやりをもって、清らかな人たちとともに住め。聡明な人たちは、仲良く住み、苦しみがない。
七 バラモンにふさわしいこと[114]
私は次のように聞いた。
ある時ブッダはサーヴァッティーのジェータ林の祇園精舎に逗留しておられた。その時コーサラ国の老齢の大富豪バラモンたちがブッダのもとにやってきた。ブッダに挨拶をし、歓談した後、ブッダの傍【かたわ】らに坐した。そこで大富豪バラモンたちは、ブッダに言った。
「ゴータマよ、今日【こんにち】のバラモンは、古【いにしえ】のバラモンの守っていた定めに従っているのでしょうか」
ブッダがお答えになった。
「バラモンたちよ、今日のバラモンは、古のバラモンの守っていた定めに従っていない」
(バラモンたち)
「では、ゴータマよ、差し支えなければ、古のバラモンたちが守っていた定めを、私たちにお説きください」
(ブッダ)
「では、バラモンたちよ、私が説くことを、注意して聴くがよい」
(バラモンたち)
「お願いします」と答え、ブッダはお説きになった。
284
「古のバラモンたちは、自らを制し、自らに厳しかった。五つの官能的欲望[115]を捨て、自らの目的に励んだ。
285
バラモンたちは家畜も、黄金も蓄えなかった。彼らにとって学習が富であり穀物であった。彼らは清らかな生活を宝物のように大切にした。
286
彼らの戸口に置かれた食事は、(信者が)彼ら乞食修行者のために信仰心を込めて用意したものであった。
287
繁栄していた地方王国は、美しく染められたさまざまな衣服や寝具や住居を彼らに捧げた。
288
バラモンたちは法律に守られ、不可侵であり、負かすことは許されなかった。彼らが托鉢に戸口に立っても、誰一人断らなかった。
289
彼らは幼少期から四十八年のあいだ、童貞の純潔を守って修行し、叡智と良い行いを求めた。
290
バラモンは、他のカーストの女を娶【めと】らなかったし、金で妻を買うこともなく,合意のもとで家庭生活を楽しんだ。
291
バラモンたちは、妻が月経のあいだは性交渉を持たなかった。
292
彼らは清らかな生活、徳行、実直、柔和、厳格、温和、非暴力、寛容を称えた。
293
彼らのうちで、もっとも優れ、勤勉であったバラモンんは、性交を夢見ることもなかった。
294
聡明な者たちは、彼の純潔と、徳行と寛容を称賛した。
295
バラモンたちは、米と、寝具と、衣類と、バターと油を行儀正しく乞い集め、それでもって祭祀を行った。祭祀に際して、牛を生贄【いけにえ】にしなかった。
296
牛は、父母、兄弟、親族と同じく、我々の最上の友で、牛から薬が作られる。
297
牛はまた、私たちの食料、活力、美容、そしてさらには幸せの源である。このことを知り、彼らは牛を殺さなかった。
298
高名なバラモンたちは、身体は柔軟で、体格がよく、容色端麗で、伝統に従って義務を果たし、禁じられたことはしなかった。こうした伝統的なバラモンがいるあいだは、世界は栄え、幸せであった。
299
ところが変化が起こった。バラモンたちは、徐々に王たちの栄華、着飾った女たち、
300
駿馬【しゅんめ】に牽【ひ】かれた立派な戦車、美しい織物、整然と区画された(街の)立派な邸宅や住居、
301
人間の巨万の富、牛の群れ、美女たちの群れを目にし、それらに魅了された。
302
彼らはヴェーダ聖典を編纂し、オッカーカ王[116]のもとに赴いて言った。『あなたは巨大な富と穀物をお持ちです。祭祀を行いなさい。あなたの財産は巨大なので、祭祀を行いなさい。あなたの富は巨大なので、祭祀を行いなさい』
303
戦車兵の長たる王は、バラモンたちに唆【そそのか】され、馬の祭祀[117]、人間の祭祀、棒投げ祭祀、飲酒祭祀、施し祭祀[118]といった祭祀を行い、司祭者であるバラモンたちに祭祀料として、
304
牛、寝具、衣類、着飾った女、駿馬に牽かれた立派な戦車、美しい織物、
305
整然と区画された立派な邸宅や住居、さまざまな穀物などの財を与えた。
306
バラモンたちは財産を手に入れると、それを蓄えることに喜びを覚えた。欲に溺れ、渇望が増長した。そのためにヴェーダ聖典を編纂し、再びオッカーカ王のもとに赴いて言った。
307
『水、大地、黄金、財、穀物、そして牛は人間のためにあるものです。これらは、私たち生きている者のためのものです。あなたの財産は巨大です。祭祀を行いなさい。あなたの財宝は巨大です。祭祀を行いなさい』
308
戦車兵の長たる王は、バラモンたちに唆され、何十万頭もの牛を生贄にした。
309
脚によっても、角によっても、牛は他のものを傷つけることはない。羊のように大人しく、瓶を満たすほど乳を恵んでくれる。それなのに、王は角をつかんで、刃でもって殺させた。
310
刃が牛の首に振り落とされた時、神々、祖霊、インドラ神[119]、阿修羅【あしゅら】[120]、夜叉たちは、『なんと酷いことを』と叫んだ。
311
それ以前には、欲望、飢え、老いの三つの病しかなかった。動物の生贄以後、九十八種の病が出現した。
312
動物の生贄という不正義は、古からの習慣として現在まで続いている。罪もない牛が殺され、司祭者は道から外れている。
313
古からの慣習は、識者によって非難されている。人々も、これを目にすれば、司祭者を非難する。
314
このように正義が廃【すた】れた時、シュードラ〔隷属民〕とヴァイシャ〔平民〕、クシャトリヤ〔王族、武士階級〕も仲違いし、妻は夫を見下げるようになった。
315
クシャトリヤもバラモンも、カースト制によって守られていた人々も、生まれを問わず、欲望の虜となった」
ブッダがこのようにお説きになった時、大富豪バラモンたちはブッダに申し上げた。
「すばらしいことです、ブッダよ。あなたは、あたかも倒れた者を起こすように、覆われて隠されていたものを開示するように、道に迷った者に方角を示すように、『目ある者は見よ』と言って暗闇で燈火をかかげるように、真理を明らかにされました。私たちは、ブッダ〔仏〕に帰依します。ダンマ〔法)とサンガ〔僧〕に帰依します。[121]ブッダよ、私たちを、在家信者として受け入れてください。今日から命ある限り帰依します」
八 船[122]
316
他人【ひと】に教えを乞うには、諸々の神々が最高神たるインドラ神を敬うようにすべきである。学識ある師は、尊敬されれば、喜んで真理を教える。
317
このような師のもとで、注意深く教えを聴き、実践し、理に従うならば、識者、わきまえを知る者、聡明な者となる。
318
(教えの)意味を理解せず、嫉妬心のある劣った師と親しくなって仕えれば、教えを理解することなく、疑念が晴れることなく、死に到る。
319
流れが速く深い川で、自らが流れに流される人、その人が、どうして他人を彼岸に渡すことができようか。
320
それと同じく、教えを理解せず、学識ある人の説明を聴かず、自らが無知で、疑いを晴らしていない人、
その人が、どうして他人を教化することができようか。
321
熟練した船頭は、橈【かい】と舵【かじ】を操り、堅固な船で多くの人を(彼岸に)渡す。
322
それと同じく、教えに通暁し、自己を修養し、多くを学び、動揺せず、自らが教えを理解した人は、注意深く聴く人に、教えを理解させる。
323
聡明にして学識ある、立派な師と親しくせよ。教えの意味を理解し、実践し、真理を会得した者は安楽を得る。
九 戒め[123]
(サーリプッタの質問)
324
「人はいかなる戒【いまし】めを守り、いかなる実践をし、いかなる行いに励めば、正しく自立し、最上の目的を達しうるのですか」
(ブッダの答え)
325
「年長者を敬い、嫉妬せず、師にまみえるのにふさわしい時、教えを聴くのにふさわしい時を心得て、よい教えを注意深く聴け。
326
頑【かたく】なにならず、謙虚に、ふさわしい時に師のもとに行き、目的と教えと自制と清らかな行いを心に留め、実践せよ。
327
教えを楽しみ、喜び、理解し、教えに忠実で、教えを損なう言葉を口にせず、よい教えに従って生きよ。
328
冗談、無駄口、嘆き、嫌悪、いつわり、欺瞞【ぎまん】、貪欲、高慢、激昂、粗暴、汚濁、惑溺【わくでき】を捨て、驕【おご】ることなく、しっかりと行動せよ。
329
よい教えは理解してこそ糧になり、理解したことは実践してこそ糧になる。性急で、怠惰な人には、叡智も学識も増大しない。
330
聖者の教えを喜ぶ人は、言葉も、心も、行いも最上である。彼は、静寂と柔和と瞑想のうちに安らぎを見出し、学識と叡智の真髄に達する。
一〇 奮起
331
奮起せよ。背筋を伸ばして坐れ。眠りに何の益があろうか。毒矢に射られて苦しんでいる者が、どうして眠っていられようか。
332
奮起せよ。背筋を伸ばして坐れ。心の平安のために自己を修養せよ。怠慢を死王に見抜かれ、惑わされて、その支配下に入るなかれ。
333
神も人も、欲望に執着している。その執着を超えよ。いっときたりとも、空【むな】しく過ごすことなかれ。時間を空しく過ごせば、地獄に堕ちて嘆くことになる。
334
怠慢は汚れであり、汚れは怠慢から生まれる。精励【せいれい】と叡智によって、自分に刺さった汚れの矢を抜け。
一一 実子ラーフラ[124]
(ブッダ)
335
「ラーフラよ、あなたはいつも一緒にいる賢者(=サーリプッタ)を軽蔑することはないか。人々に道を示す灯りをかざしてくださる人を、あなたは軽蔑することがないか」
(ラーフラ)
336
「私はいつも一緒にいる賢者を軽蔑することはありません。人々に道を示す灯りをかざしてくださる人を、私は軽蔑することはありません」
(ブッダ)
337
「五感にうったえる魅惑的対象への官能的欲望を捨て、確信を持って出家したからには、苦しみを消滅せよ。
338
良き朋友と交われ。人里離れた静かなところで独り住め。食事は適量を知れ。
339
衣類と、施された食べ物と、必需品と寝具にこだわるなかれ。輪廻を断て。
340
戒律を守り、五つの感覚器官を制御し、身体を観察し、官能的快楽の世界を厭え。
341
好ましく見えるもの、欲望につながるものを避けよ。意識を統一して、不浄なるものを観察せよ。
342
ものごとには実体がないことを見極め、自惚【うぬぼ】れがちな性向を捨てよ。自惚れをしかと理解すれば、そなたは心安らぐだろう」
ブッダは、こうしてたびたびラーフラをお諭【さと】しになった。
一二 弟子ヴァンギーサ
私は次のように聞いた。
ある時ブッダは、アーラーヴィー国のアッガーラヴァに逗留されていた。それはヴァンギーサ[125]の師ニグローダ・カッパという長老がアッガーラヴァ霊樹のもとで亡くなってから間【ま】もない時だった。
ヴァンギーサが静かな場所で一人で瞑想していた時、次のような思いが起こった。
「私の師は、本当に亡くなったのだろうか、あるいはまだ亡くなっていないのだろうか」
そこでヴァンギーサは、夕方に瞑想を終えてから、ブッダのもとに行き、礼拝し、傍らに坐って言った。
「師よ、私が静かな場所で一人で瞑想していた時、『私の師は、本当に亡くなったのだろうか、あるいはまだ亡くなっていないのだろうか』という思いが起きました」
そこでヴァンギーサは、衣を左肩にかけ右肩をあらわにし[126]、合掌して、次の詩句をもって話しかけた。
343
「現世においてすべての疑念を晴らし、この上ない叡智を具えた師にお尋ねします。誉れ高く、心の平安の境地に達した一人の修行者が聖なる森で亡くなりました。
344
ブッダよ、あなたがニグローダ・カッパとお名付けになったあの修行者です。真理をご覧になった聖者であるあなたを尊敬し、解脱を求め、励み努めました。
345
すべてをお見通しのシャーキャ族の聖者よ、私たちは皆あなたの弟子である彼のことを知りたく思います。私たちの無上なる師よ、私たちは知りたいのです。
346
私たちの疑念を晴らしてください。説明してください。疑惑を断ち、叡智を具えたお方よ、ニグローダ・カッパは平安の境地に達したのでしょうか。千眼のインドラ神が神々に説くように、取り巻く私たちにお説きください。
347
人々の中で最上の眼であるブッダにお目にかかれば、この世のすべての束縛、迷妄、無知、疑惑は消滅します。
348
風が雲を吹き飛ばすように、ブッダが煩悩の汚れをお浄めにならなければ、この世は闇に包まれてしまいます。叡智を具えた人も輝かなくなります。
349
聡明な人は世間を照らします。私たちはあなたをそういう方だと思って、お目にかかりにきました。私たちにカッパ師がどうなったのかお教えください。
350
速やかに、妙なる声でお聞かせください。白鳥が首を伸ばしておもむろに鳴くように、美しい調べの声をお聞かせください。私たちはみな注意深く耳を傾けます。
351
生死の世界を超え、汚れを捨てさったブッダよ、真理をお説きください。我々凡夫は欲する通りにはできませんが、ブッダにはおできになるはずですから。
352
完全な知者であるあなたは、真理がおわかりのはずです。合掌いたします。ご存じなのに、語ることなく、私たちをお惑【まど】わしにならないでください。
353
あなたは、尊い真理を知り尽くしたお方ですから、ご存じなのに、語ることなく、私たちをお惑わしにならないでください。夏の暑さに苦しむ者が水を欲しがるように、私たちはあなたのお言葉を欲しているのです。聞く者の耳に雨のように教えを降らせてください。
354
我が師カッパは、清らかな行いによって達成しようとした目的を達成し、平安の境地に到ったのでしょうか。それとも輪廻の余燼【よじん】を残したのでしょうか。彼はどのように解脱したのでしょうか。私たちはそれを聞きたいのです」
355
かつての五人の修行者仲間の中で最上の者[127]であったブッダは、こう語られた。
「彼はこの世において個人存在[128]に対する執着を断ち切った。彼は、遠い昔からの(煩悩の)流れを断ち切り、輪廻を超越した」
(ヴァンギーサ)
356
「七人目の仙人[129]よ、お言葉を聞き喜んでいます。私たちがお尋ねしたのは無駄ではありませんでした。真のバラモン〔行い清き人〕であるブッダは、私たちを欺きませんでした。
357
『目覚めた人』の弟子であったカッパは、言行一致に実践しました。我々を惑わす死神が広げる強靭な網を破ったのですね。
358
ブッダよ、カッパ師は執着の根源を見たのですね。師よ、カッパ師は、死神の領域を超えたのですね」
一三 正しい遊行[130]
(バラモンたちの質問)
359
「大いなる叡智を具え、激流を渡り、平安の境地に達した揺るぎない聖者にお尋ねします。家を出て、官能的快楽を捨てた者は、どうしたら真の出家修行者となれますか」
ブッダがお答えになった。
360
「吉兆、天地異変、夢、手相人相の占いを止め、吉兆の判断を捨てれば、彼は真の出家修行者となる。
361
理【ことわり】を理解し、迷いを超越し、天界人界における官能的快楽を求めなければ、彼は真の遊行者となる。
362
人を中傷せず、怒らず、物惜しみせず、従順であったり不従順であったりしなければ、彼は真の出家修行者となる。
363
好き嫌いをやめ、何ものにも執着せず、もろもろの束縛から離脱すれば、彼は真の遊行者となる。
364
生存を構成する諸要素に実体がないことを知り、執着の対象に対する貪りを抑え、何ものにも頼らなければ、彼は真の遊行者となる。
365
身体、言葉、心によって逆らうことなく、正しい理を知り、平安の境地を求めるならば、彼は真の遊行者となる。
366
『私は崇拝されている』と傲慢になることなく、軽蔑されても腹を立てず、食べ物を供養されても驕らなければ、彼は真の出家修行者となる。
367
貪りと迷妄を捨て、生きものを切ったり縛ったりせず、疑惑をなくし、(煩悩の)矢を抜き取ったなら、彼は真の出家修行者となる。
368
自分にふさわしいことをわきまえ、何ものをも害することなく、ものごとのあるがままの理を知れば、彼は真の出家修行者となる。
369
習慣によって潜在的に残った煩悩もなく、悪の根が抜かれ、欲しがるものもなく、求めるものもなければ、彼は真の遊行者となる。
370
汚れがなく、驕りがなく、貪りがなく、自制心があり、平安の境地にあって、心が乱れることがない者、彼は真の遊行者となる。
371
信心と学識があり、平安の境地に到る道[131]を見つけ、仲間の中にあって誰にも闇雲には従がわず、貪瞋癡【とんじんち】[132]の三毒を制すれば、彼は真の遊行者となる。
372
身を清く保ち、摂生することによって煩悩に打ち勝ち、煩悩の覆いを除き、感覚的現象世界を超越して彼岸に渡り、執着がなく、輪廻転生の原因となる諸要素をなくしたら、彼は真の遊行者となる。
373
過去世、来世に関する思惑を捨て、澄み渡った叡智を持ち、感覚的現象世界を超越したら、彼は真の遊行者となる。
374
究極の境地を知り、理を理解し、煩悩の汚れを取り除き、生存を構成する諸要素を滅したら、彼は真の遊行者となる」
(バラモンたちの言葉)
375
「ブッダよ、まさにおっしゃる通りです。修行者が、そのように生活し、自らを制すれば、あらゆる束縛を超えて、真の出家修行者になれる(ことがわかりました)」
一四 信者ダンミカ
私は次のように聞いた。
ある時ブッダは、コーサラ国の首都サーヴァッティーのジェータ林のアナータピンダダが寄進した祇園精舎【ぎおんしょうじゃ】に逗留されていた。その時、信者ダンミカが、五百人の信者とともにブッダのもとに来て、礼拝し、傍らに坐り、次の詩句で話しかけた。
376
「叡智あるゴータマ・ブッダよ、あなたにお訊ねします。
教えを聴く人は、出家者であろうと、在家信者であろうと、どのようにふるまうのがいいですか。
377
あなたは神々と人間世界の変遷と、その究極の目的をご存知です。奥深い理を知ることにかけて、あなたを超える者はいません。あなたは優れたブッダと呼ばれています。
378
あなたは『目覚め』、生きものを憐み、叡智と理をお説きになります。あなたはすべてをご存知で、覆いを除き、汚れなく、広く世界に輝いておられます。
379
象王エーラーヴァナ[133]もあなたがブッダであると聞き、訪ねました。そして、賢者よ、あなたの教えを聴いて『よかった』と喜びました。
380
毘沙門天[134]クヴェーラ[135]もあなたに教えを請いに訪ねました。そして彼もまた、賢者よ、あなたの教えを聴いて『よかった』と喜びました。賢者は、その時もお教えになりました。彼もまた、あなたの教えを喜んでいました。
381
アージーヴィカ教徒[136]であれ、ジャイナ教徒[137]であれ、論争好きな者たちにも、叡智においてあなたに勝る者はいません。じっとしている人が、走る人を追い越すことがないようなものです。
382
論争好きな者たちも、年長のバラモンも、『われこそは論客である』と自負する者たちも、あなたからお教えを聴きたがっています。
383
ブッダよ、あなたがお説きになる教えは、意味深長で、至福をもたらします。私たちの誰もが聴きたがっている教えを、ブッダたちの中で至上の者よ、どうかお説きください。
384
ここに集まった出家修行者、在家信者の誰にも、汚れないブッダが『お目覚め』になった理をお説きください。インドラ神が、神々に説くように」
(ブッダの答え)
385
「修行者たちよ、聴け。煩悩を取り除く修行法を教えるので、心に刻め。思慮ある者は、目的に向かって、修行者にふさわしくふるまえ。
386
出家修行者は定められた時〔午前中〕に托鉢に行け。時ならぬ時〔午後〕に托鉢に行けば、執着が纏【まと】いつく。それゆえに『目覚めた人』たち[138]は、時ならぬ時には托鉢に行かない。
387
人を惑わせる五つの感覚器官の対象に対する執着を捨て、定められた時に托鉢で得たものを摂【と】れ。
388
出家修行者は、定められた時に施しの食事を得たら、独り戻り、独り瞑想せよ。自己を制し、内省し、心を外に向けるな。
389
教えを聴く他の人、あるいは他の修行者、出家僧と語り合う時には、優れた真理のみを語り、中傷や自暴の言葉を発してはならぬ。
390
論争で反論したりする者は、叡智のない輩である。彼は論争に執着して、理性を失ってしまう。
391
彼岸に善く達した人[139]の教えを聴いた智慧ある弟子たちは、托鉢の食事、寝具、住まい、僧衣を洗う水に気をつけよ。
392
そうすれば、水滴が蓮の葉に付着しないように、托鉢の食事、寝具、住まい、僧衣を洗う水に執着することがない。
393
以上が出家修行者の守るべきふるまいであるが、在家信者が、出家修行者に対する規定を守るのは容易でない。
次に、在家信者がいかにふるまうべきかを説こう。このようにふるまう者はブッダの良い弟子である。
394[140]
動くものでも、動かないものでも、すべての生きものに対する暴力を捨て、生きものを殺してはならず、
他人【ひと】をして殺させてはならず、他人が殺すのを容認してはならない。
395
与えられていないものは、何であれ、どこであれ、そうと知りながら盗んではならない。
他人をして盗まらせてはならず、他人が盗むのを容認してはならない。何であれ、与えられていないものを盗んではならない。
396
理性ある人は、燃えさかる炭火の穴を避けるように、性行為を避けよ。たとえそうできなくとも、他人【ひと】の妻とは交わるな。
397
集会所や集まりで、他人に偽りを語ってはならず、他人をして偽りを語らせてもならず、他人が偽りを語るのを容認してもならない。何であれ、偽りを語ってはならない。
398
酒は人をして狂酔せしめるものであるのをわきまえ、酒を慎め。不飲酒【ふおんじゅ】の教えを喜ぶ在家信者は、他人み飲ませてもならず、他人が飲むのを容認してもならない。
399
愚か者は、酔いのために悪事を働き、他人をして悪事を働かせる。この禍【わざわい】の起こる源を避けよ。愚か者から愛好され、人を狂わせる酒を避けよ。[141]
400
生きものに危害をくわえてはならない。与えられていないものを盗んではならない。嘘をついてはならない。酒を飲んではならない。自分の妻以外と性行為をしてはならない。夜間、時ならぬ時に食事をしてはならない。
401
着飾ったり、芳香を用いてはならない。ベッドではなく地上にマットを敷いて寝る。[142]
これら八項目が、苦しみを消滅した目覚めた人が説く八斎戒【はっさいかい】[143]である。
402
半月ごとの八日、十四日、十五日に、また特別の日に、この八斎戒を清く澄んだ心で守れ。
403
ウポーサタの翌朝早く、清く澄んだ心で喜びながら、食べ物と飲み物をサンガに施せ。
404
まっとうに得た財をもって、父母を養え。適正な商いを行え。励み努め、怠ることなく生きる在家信者は、死後「自ら光を放つ神々」[144]のもとに赴く。
まとめの句
「小さな章」は、三宝、なまぐさ、友情、こよなき幸せの、夜叉 スーチローマ、理にかなった行い、バラモンにふさわしいこと、船、戒め、奮起、実子ラーフラ、弟子ヴァンギーサ、正しい遊行、信者ダンミカの十四の経で構成される。
「第二 小さな章」了
第三 大きな章[145]
一 出家[146]
405
「眼ある人」がどのように考え、出家され、それを喜ばれたかを語ろう。
406
在家の生活は窮屈であり、煩わしく、汚れが積もる。野外は広々としているので、家をお出になった。
407
出家されてからは、悪しき行いもされず、悪しき言葉も口にされず、清らかな生活をお送りになった。
408
麗しい容姿の、のちに「目覚めた人」となる修行者は、托鉢【たくはつ】のために、マガダ国の山々に囲まれた首都ラージャガハに赴かれた。
409
高楼から彼を目にしたビンビサーラ王は、托鉢者の麗しい容姿を見て、家臣たちにこう命じられた。
410
「お前たち、あの人を見よ。容姿麗しく、体格もよく、清楚で、歩き方も優雅で、数歩前を見ているだけである。
411
彼は下を見ながら注意して歩いている[147]。卑しい出自の者ではないだろう。臣下たちよ、急いでこの出家修行者を追い、どこに行くのかを見てこい」
412
「この托鉢者はどこに行くのだろう。どこに住んでいるのだろう」と考えながら、使者たちは彼の後を追った。
413
感覚器官をよく制御し、気を配りながら、家ごとに乞食【こつじき】すると、鉢[148]はすぐに一杯になった。
414
托鉢を終えると、彼は街を出て、パンダヴァ山に向かい、「ここに留まることにしよう」とおっしゃった。
415
使者たちは、彼が泊まる場所を確かめ、腰を下ろした。使者の一人が王宮に戻り、王に報告した。
416
「大王よ、あの出家修行者はパンダヴァ山の東斜面の洞窟に、虎のように、雄牛のように、ライオンのように坐っています」
417
使者の言葉を聞き終えるや、王は立派な乗り物に乗って、パンダヴァ山に急いだ。
418
王は乗り物で行けるところまでは乗り物で行き、そこで降りて、歩いて彼に近づき坐った。
419
王は腰を下ろして、和やかに挨拶の言葉を交わしてから、次のように言った。
420
「あなたは未だ歳若くして、人生の青春を謳歌する若者である。容姿も端麗で、由緒あるクシャトリヤであろう。
421
象の群を先頭とする精鋭ぞろいの軍隊の長として、私に仕えるがよい。あなたの出自を聞かせてくれ」
(ブッダが答えた)
422
「王よ、彼方のヒマラヤ山脈の麓に、一つの正直な民族が住んでいます。裕福で勇敢で、昔からコーサラ国に服属しています。
423
私は太陽神を祖とするシャーキャ族の出自です。私が出家したのは、官能的欲望を叶えるためではありません。
424
もろもろの官能的欲望には危険があり、出家は安らぎであると見て、努め励むために出家したのです。私の心はこれを楽しんでいます」
二 悪魔ナムチとの戦い[149]
425
ブッダが「目覚め」の前、ナイランジャラー川の畔【ほとり】で平安の境地を得るために努力精励していた時に、
426
悪魔ナムチが優しい言葉をかけながら近づいてきた。「あなたは痩せ細り、顔色が悪く、死に近づいている。[150]
427
このままではあなたが生きのびる確率は千に一つだ。生きなさい、生きた方がいい。生きていれば、功徳が積めます。
428
清らかな生活を送り、聖火に供物を捧げれば、多くの功徳を積めます。努力精励して何になるのですか。
429
努力精励の道は、進みがたく、為しがたく、極めがたい」こう述べて、悪魔ナムチは彼の傍らに立った。
430
悪魔がそう述べた時、尊師はお答えなった。
「放逸なる悪しき者よ、そなたは私のためではなく、自分のためにここに来たのだ。
431
私は、そなたのいう功徳を微塵【みじん】も求めていない。悪魔はそのような功徳を求める人に話したほうがいい。
432
私には信念があり、叡智があり、努力精励する。このように努め励んでいる私に、どうして生きながらえることを語るのか。
433
努力精励から生まれる風は、川の流れを涸らすだろう。私の努力精励が、どうして私の血を涸らさないことがあろう。
434
血が涸れれば、胆汁も痰も涸れるだろう。肉が落ちれば、心はいっそう清まるであろう。意識の覚めた状態と叡智がより強固となるであろう。
435
私はこのように安らかに努力精励しているので、心は欲望に惹かれることはない。見よ、私の心身の清らかなことを。
436
そなたの第一の軍は欲望であり、第二の軍は嫌悪であり、第三の軍は渇望であり、第四の軍は妄執【もうしゅう】である。
437
第五の軍は倦怠【けんたい】と眠気であり、第六の軍は恐怖であり、第七の軍は疑念であり、第八の軍は偽善と強情である。
438
邪【よこしま】な手で得た利得、名声、名誉、尊敬、そして自分を褒め称え、他人を軽蔑すること、
439
黒魔ナムチよ、それらがそなたの軍である。勇敢な者でなければ、それらに打ち勝つことはできない。しかし、それらに打ち勝つ者は、安楽を得る。
440
私はムンジャ草を纏おう。[151] 命など惜しくない。そなたに破れて生きながらえるよりは、死んだほうがましである。
441
幾人もの修行者やバラモンたちは、そなたの軍との戦いに敗【やぶ】れて、姿を消してしまった。彼らは戒めを正しく守る者が進む道を知らない。
442
象に乗り、四方に軍勢を従えた悪魔を前に、私は戦おう。そなたは、私をこの場から退けられない。
443
神々も人間もそなたの軍を破れないが、私は叡智の力で、石で土器を打ち砕くように、そなたの軍を打ち破る。
444
私は心を制御し、意識の覚めた状態を保ち、自立して、多くの弟子を教化しながら、国から国を遍歴しよう。
445
彼らは怠ることなく、私の教えの実践に専念するだろう。そなたの意図に反して、彼らは憂いのない境地に達するであろう」
(悪魔は言った)
446
「私は七年間[152]そなたを見張っていたが、完全に『目覚め』、意識の覚めた状態を保っているそなたにはつけ込む隙【すき】がなかった。
447
カラスが、脂肪の塊のように見えた岩の周りを、『何か柔らかいものがあるだろう。何か美味【うま】いものがあるだろう』と思いながら旋回したようなものだ。
448
そこには美味【おい】しいものがなかったので、カラスは飛び去った。我々はゴータマを攻略しようとしたが、岩を突【つつ】くカラスのように、うんざりして引き下がるしかない」
449
悲嘆した悪魔の脇から琵琶が落ちた。かの夜叉(=悪魔)は意気消沈して消え失せた。
三 みごとに説かれたこと
私は次のように聞いた。
ある時ブッダは、コーサラ国の首都サーヴァッティーのジェータ林のアナータピンダダが寄進した祇園精舎に逗留されていた。その時ブッダは、修行者たちにお話しになった。
「修行者たちよ」
「ブッダよ」と修行者たちは答えた。
そこでブッダは次のようにお説きになった。
「修行者たちよ、次の四つの特徴を具えた言説は、爽やかに説かれたものであって、たどたどしく説かれたものではなく、非の打ちどころがなく、他の賢者からも非難されない。その四つの特徴とは何か。
修行者たちよ、この世において修行者は、一)美しい言葉のみを語り、粗野な言葉を語らない。二)理【ことわり】のみを語り、理でないものを語らない。三)好ましいことのみを語り、好ましくないことは語らない。四)真実のみを語り、偽りを語らない。
修行者たちよ、この四つの特徴を具えた言説は、爽やかで、たどたどしくなく、非の打ちどころがなく、他の賢者からも非難されない」。
師はこうお説きになったあと、次のようにお続けになった。
450
「美しい言葉を語る。これが第一である。正しい理を語り、理に適わぬことを語らない。これが第二である。好ましいことのみを語り、好ましくないことを語らない。これが第三である。真実のみを語って、偽りを語らない。これが第四である」
すると長老ヴァンギーサが立ち上がり、衣を左肩にかけ、右肩をあらわにして、ブッダに合掌し申し上げた。「ブッダよ、ある思いが浮かびました」。
ブッダは「ヴァンギーサよ、思い浮かんだままに語れ」とおっしゃった。
そこでヴァンギーサは、相応しい言葉でブッダを讃えた。
451
「自分を苦しませず、また他人を傷つけない言葉、これこそがよい言葉です。
452
心地よく、喜び迎えられる言葉、これこそがよい言葉です。
453
真理は不滅の言葉で、永遠の理です。賢者は、ブッダの教えと目標は真理に立脚している、と言います。
454
ブッダがお説きになる苦しみを消滅し、平安の境地に到る言葉、これこそが最上の言葉です」
四 バラモン・スンダリカ・バーラドヴァージャ
私は次のように聞いた。
ある時ブッダはコーサラ国のスンダリカ川の岸辺に逗留されていた。その時バラモン〔司祭者〕のスンダリカ・バーラドヴァージャは岸辺で、聖火を焚き、火の祭祀を行った。祭祀を終えてから、スンダリカ・バーラドヴァージャは立ち上がり、周りを見回して「さて、この供物の残りを誰に食べさせようか」と考えた。さほど遠くないところで、ブッダが木の根もとで、頭から衣を被ってお坐りになっているのを目にした。そこで、左手に供物の残りを、右手に水瓶を持って、ブッダに近づいて行った。ブッダは彼の足音を聞いて、被っていた衣を頭からお取りになった。するとスンダリカ・バーラドヴァージャは、「彼は頭を剃っている。彼は剃髪者だ」[153]と言って、引き返そうとした。しかしこう思った。「世の中には頭を剃ったバラモンもいる。近づいて、彼の出自を訊いてみよう」。そこで彼はブッダに近づいて、
「あなたはどういう身分の方ですか」と尋ねた。
するとブッダは、次の詩句でお答えになった。
455
「私はバラモンでもなく,クシャトリヤ〔王族〕でもなく、ヴァイシャ〔平民〕でもなく、何者でもない。世間の種族を捨て、無一物【むいちもつ】で、熟考しながら遊行【ゆぎょう】している。
456
私は家を捨て、僧衣を纏い、髪を剃り、心安らかに、汚れることなく、遊行している。バラモンよ、あなたが私の家系を尋ねるのは適切ではない」
(スンダリカ・バーラドヴァージャ)
457
「バラモンがバラモンに出会えば、『あなたはバラモンですか』と問うのが習わしです」
(ブッダ)
「あなたが『私はバラモンで、あなたはバラモンではない』と言うのなら、三句二十四音節からなるサーヴィトリー讃歌[154]のことを尋ねることにしよう」
(これを聞いて、ブッダがバラモン聖典に通じていることを知ったスンダリカ・バーラドヴァージャが訊いた)
458
「この世で、仙人[155]や王族、バラモンたちは、何の目的で神々に祭祀[156]を捧げるのですか」
(ブッダ)
「道を極めたバラモンたちが、祭主から献供【けんく】を受けて祭祀を行うなら、その祭祀は祭主に福徳をもたらす」
(スンダリカ・バーラドヴァージャ)
459
「以前にはあなたのようなお方にお目にかかりませんでしたので、私が捧げた供物は誰か他の者が食べてしまっていて私には福徳がなかったのでしょう。しかしあなたのようにヴェーダに通暁【つうぎょう】したあなたに対する私の供養には福徳があるでしょう。」
(ブッダ)
460
「バラモンよ、そなたは質問したいことがあってここに来たのであるから、近づいて問うがよい。ここに心安らいで、欲望の火が消えた、苦しみがなく、聡明な者を見出すだろう」
(スンダリカ・バーラドヴァージャ)
461
「私は祭祀を好み、祭祀を行いたいのです。しかし私にはわかりませんから、ブッだよ、お教えください。誰に供物を捧げれば福徳があるのでしょうか」
(ブッダ)
「バラモンよ、よく聴くがよい。あなたに理を説こう」
462
「生まれを問わず、行いを問え[157]。欲望の火はあらゆる薪から生じる。卑しい家に生まれた者も、道心堅固にして、謙虚で、自制心があれば聖者となる。
463
真実によって自制し、官能的快楽を捨て、聖典に通じ、行いの清らかな人。バラモンが福徳を求めて供養するのなら、そのような人にふさわしい供物を捧げよ。
464[158]
欲望を捨て、住まいを定めず遊行し、よく自制して、杼【ひ】のように真っ直ぐな人。バラモンが福徳を求めて供養するのなら、そのような人に相応しい供物を捧げよ。
465
貪欲を離れ、感覚器官を制御し、月蝕を起こすラーフ[159]の囚われから逃れた月のように、もろもろの囚われから解き放たれた人。バラモンが福徳を求めて供養するのなら、そのような人にふさわしい供物を捧げよ。
466
何に対しても、自分のものとして執着することなく、つねに熟考しながら諸方を遊行する人。バラモンが福徳を求めて供養するのなら、そのような人にふさわしい供物を捧げよ。
467
もろもろの欲望を捨て、欲望に打ち勝ち、輪廻の終焉を知り、平安の境地に達し、湖水のように静かなで安らかな人〔如来〕。彼は供物に値する。
468
如来は同等なる者たち〔他のブッダ〕と同等であり、同等ではない者たちからは遠ざかっている。彼には無限の叡智があり、この世でもあの世でも執着がない。彼は供物に値する。
469
偽りもなく、驕【おご】りもなく、貪欲を離れ、我執なく、欲望もなく、怒ることもなく、心安らかで憂という心の汚れを捨てさった真のバラモン〔行い清き人〕であるブッダ。彼は供物に値する。
470
心の執着を断ち、何も所有することなく、この世でもあの世でも執着することのないブッダ。彼は供物に値する。
471
意識を集中し、激流を渡りきり、叡智によって理を知り、煩悩の汚れを除き、最後の生存を生きているブッダ。彼は供物に値する。
472
煩悩の汚れもなく、粗野な言葉を使うこともなく、聖典に通じ、あらゆるものから解き放たれたブッダ。彼は供物に値する。
473
執着することなく、傲慢に囚われている人々の中にあって、驕ることなく、苦しみとその源を知って、それを捨てたブッダ。彼は供物に値する。
474
欲望に囚われることなく、それから離れ、他の人たちとは異なった見解を持ち、再び生まれることがないブッダ。彼は供物に値する。
475
現象世界の本質を知り尽くし、執着を消滅し尽くし、心安らかなブッダ。彼は供物に値する。
476
束縛から解放っされ、生存の連鎖〔輪廻〕を断ち切り、、欲情を完全に捨て、清らかで、過ちなく、汚れもなく、晴れやかなブッダ。彼は供物に値する。
477
自己をみつめてそれに実体がないことを知り、心鎮まり、公正で、汚れなく、疑惑のないブッダ。彼は供物に値する。
478
迷妄がなく、全ての現象を知り尽くし、最後の生存を生き、無上の安楽の境地に到り、清らかとなったブッダ。彼は供物に値する」
(スンダリカ・バーラドヴァージャ)
479
「あなたのような聖典に通じたお方にお会いできたのですから、ブラフマー神よ、私の供養は福徳のあるものであることを証人としてお見届けください。ブッダよ、私の供物をお受けください」
(ブッダ)
480[160]
「私は、偈を唱えることに対する報酬として、食べ物を受け取らない。それは『目覚めた人』のすることではない。『目覚めた人』は偈を唱えることに対する報酬を斥ける。バラモンよ、そうするのが『目覚めた人』の態度である。
481
最高の境地に達した聖者、煩悩を消し去った人、悔いることのない人には、他の食べ物と飲み物を捧げよ。彼らに供物を捧げることによって、功徳を積むことができる」
(スンダリカ・バーラドヴァージャ)
482
「ブッダよ、あなたの教えを受けて、私のような供物を捧げることが好きな者は、祭祀の時にどんなお方に供物を差し上げたらいいのでしょう」
(ブッダ)
483
「争うことなく、心清らかで、官能的快楽を捨て、放逸を捨て、
484
煩悩をなくし、生死を知り尽くし、叡智を具えた人、そうした人が祭祀に来たならば、
485
眉をひそめて見下すことなく、合掌して、食べ物や飲み物を捧げよ。そうすれば、そなたの供物は福徳をもたらすであろう」
(スンダリカ・バーラドヴァージャ)
486
「ブッだよ、あなたは供物に値するお方です。あなたは、最上の福田【ふくでん】[161]であり、すべての人の布施を受けるに値する人です。あなたに施した供物は福徳をもたらします」
そしてスンダリカ・バーラドヴァージャは次のように言った。
「すばらしいことです、ブッダよ。あなたは、あたかも倒れた者を起こすように、覆い隠されていたものを開示するように、道に迷った者に方角を示すように、『目ある者は見よ』と言って暗闇で灯火をかかげるように、真理を明らかにされました。私は、ブッダ〔仏〕に帰依します。真理〔法〕とサンガ〔僧〕に帰依します。私は、ブッダのもとで出家し、完全な戒律を受けたいと思います」
そこでスンダリカ・バーラドヴァージャは、ブッダのもとで出家し、完全な戒律[162]を受けた。それからほどなく、彼は人里離れて一人で暮らし、怠らず励め、修行に専念し、この上のなく身を清く保ち、現世において自ら「目覚めた人」となり、日々を送った。彼に倣って、彼の種族の多くの者が、家を捨て出家修行者となった。
「生は尽きた。清らかな行いはなし終えた。なすべきことはなし終えた。もはや再びいかなる生存を受けることはない[163]」
こうしてスンダリカ・バーラドヴァージャ聖者の一人となった。[164]
五 青年マーガ
私は次のように聞いた。
ある時ブッダは、マガダ国の首都ラージャガハ近くのギッジャクータ山[165]に逗留されていた。バラモンの青年マーガはブッダのおられるところに赴き、ブッダに礼拝してから、挨拶を交わし、ブッダの傍らに坐った。そこでマーガが言った。
「ブッダよ、私は寛容にして、求めに応じて施しを与える施主です。正しい方法で集めた財を、一人に、二人に、三人に、四人に、五人に、六人に、七人に、八人に、九人に、十人に、二十人に、三十人に、四十人に、五十人に、百人に、さらにそれ以上の多くの人に施します。
ブッダよ、このように多くの施しを与える者には、福徳が生じるでしょうか」
「青年よ、実にあなたがそのように施しを与え、供養するならば、多くの福徳が生じる。青年よ、誰であり、正しい方法で集めた財を、寛容にして、一人に、さらには百人に、さらにそれ以上の多くの人に施しを与える人には、多くの福徳が生じる」とブッダはおっしゃった。
そこで青年マーガは、次の詩句でブッダに呼び掛けた。
487
「袈裟を纏い、住まいなく、心の広いブッだにお尋ねします。求めに応じて施し、福徳を求めて施しをなす在家の施主は、誰に飲食物を施せばよいのでしょうか」
(ブッダ)
488
「求めに応じて施しを与え、福徳を求めて施しをなす在家の施主は、施しに値する人に飲食物を施せば、福徳を得るであろう」
(マーガ)
489
「求めに応じて施しを与え、福徳を求めて施しをなす在家の施主にとって、この世で飲食物を施すに値する人が誰なのか教えてください」
(ブッダ)
490
「バラモンが功徳を求めて祭祀を行うならば、執着なく遊行し、無一文で、自制して、完全に成就した人に、しかるべき時に供物を捧げよ。
491
バラモンが功徳を求めて祭祀を行うならば、いっさいのしがらみから解き放たれ、慎み深く、苦しみなく、欲望のない人に、しかるべき時に供物を捧げよ。
492[166]
バラモンが功徳を求めて祭祀を行うならば、いっさいのしがらみを断ち、慎み深く、解放され、苦しみなく、欲望のない人に、しかるべき時に供物を捧げよ。
493
バラモンが功徳を求めて祭祀を行うならば、貪欲と、怒りと、迷妄を捨てる、煩悩の汚れを滅し、清らかに修行している人に、しかるべき時に供物を捧げよ。
494
バラモンが功徳を求めて祭祀を行うならば、偽りもなく、驕りもなく、貪欲を離れ、『自分のもの』と思う物に執着がなく、欲望を持たぬ人に、しかるべき時に供物を捧げよ。
495
バラモンが功徳を求めて祭祀を行うならば、もろもろの愛着を捨て、激流を渡り終え、『自分のもの』という執着がなく、遊行する人に、しかるべき時に供物を捧げよ。
496
バラモンが功徳を求めて祭祀を行うならば、この世でもかの世でも、いかなる世界でも、移ろう生存に執着しない人に、しかるべき時に供物を捧げよ。
497[167]
バラモンが功徳を求めて祭祀を行うならば、欲望を捨て、住まいを定めず遊行し、よく自制して、杼【ひ】のように真っ直ぐな人に、しかるべき時に供物を捧げよ。
498[168]
バラモンが功徳を求めて祭祀を行うならば、貪欲を離れ、感覚器官を制御し、月蝕を起こすラーフの囚われから逃れた月のように、もろもろの囚われから解放され人、そのような人にしかるべき時に供物を捧げよ。
499
バラモンが功徳を求めて祭祀を行うならば、安らぎに住し、貪欲を離れ、怒もなく、この世でそうしたものを完全に捨てさり、もはや(迷いの世界に)赴くことがない人、そのような人にしかるべき時に供物を捧げよ。
500
バラモンが功徳を求めて祭祀を行うならば、生死にこだわることなく、あらゆる疑惑を除きさった人、そのような人にしかるべき時に供物を捧げよ。
501
バラモンが功徳を求めて祭祀を行うならば、自らを拠り所とし、諸国を遊行し、無一物で、あらゆることから解き放たれている人、そのような人にしかるべき時に供物を捧げよ。
502
バラモンが功徳を求めて祭祀を行うならば、『これは私の最後の存在であり、もはや生を受けることはない』と知っている人に、しかるべき時に供物を捧げよ。
503
バラモンが功徳を求めて祭祀を行うならば、聖典に通じ、心の安らぎを楽しみ、何事にもよく気を付け、完全に『目覚め』、多くの人から帰依される人に、しかるべき時に供物を捧げよ」
(マーガ)
504
「まさに私は質問した甲斐【かい】がありました。尊き師よ、あなたは布施を捧げるに値する人のことを教えてくださいました。師よ、あなたは世の中のすべてのことをあるがままにご存知です。あなたは理をご存知です」
505
求めに応じて施しを与え、福徳を求めて施しをなす在家の施主は、どのような人に飲食物を施せば、祭祀は福徳をもたらすのでしょうか」
(ブッダ)
506
「いかなる祭祀であれ、行う時は、祭主は心を清らかにせよ。祭主は祭祀によって自己の汚れを払い捨てることができる。
507
彼は貪欲を捨て、憎悪を制し、無量の慈しみの心を起こし、日夜怠ることなく、その慈しみの心をいたるところに充満させる」
(マーガ)
508
「誰が清らかとなり、誰が解脱し、誰が束縛されるのですか。いかにして人は自らブラフマー神の世界に赴くのですか。私にはわかりませんので、お説きください。あなたはブラフマー神に等しいお方ですから、私が今ブラフマー神に会ったことのことの証人です。どうしたら輝けるブラフマー神の世界に生まれることができますか」
(ブッダ)
509
「三つの条件[169]を具えた完全な祭祀を行う人は、布施を受けるに値する人に(布施することに)よって、自らの目的を成就する。求めに応じて施しを与える祭主が、このように正しく祭祀を行えば、ブラフマー神の世界に生まれる」
ブッダがこのようにお時になっった時、青年マーガは次のように言った。
「すばらしいことです、ブッダよ。あなたは、あたかも倒れた者を起こすように、覆い隠されていたものを開示するように、道に迷った者に方角を示すように、『目ある者は見よ』と言って暗闇で燈火をかかげるように、真理を明らかにされました。私は、ブッダ〔仏〕に帰依します。真理〔法〕とサンガ〔僧〕に帰依します。ブッダよ、私たちを、在家信者として受け入れてください。今日から命ある限り帰依します」
六 遍歴行者サビヤ
私は次のように聞いた。
ある時ブッダはラージャガハの竹林にあるリスの飼育所に逗留されていた。そのころ、遍歴行者サビヤがいた。かつて、以前の生で血縁者であった一人の神が一連の質問をした上で、次のように勧めた。
「サビヤよ、修行者であろうと、バラモンであろうと、これらの質問に答えられる人がいたら、彼のもとで清らかな修行をするがよい」
そこでサビヤはその神からの質問を受けて、自ら教団を持ち、修行者を率い、多くの人の師であり、多くの人から聖者と見なされている次の六師[170]、すなわちプーラナ・カッサパ、マッカリ・ゴーサーラ[171]、アジタ・ケーサカンバリン、パクダ・カッチャーヤナ、ベッラーティ族出身のサンジャヤ、ナータ族出身のニガンダ[172]を訪ねて行った。しかし彼らは、サビヤの質問に答えることができなかった。答えることができなかったばかりか、怒り、嫌悪し、不機嫌となり、逆にサビヤに質問してきた。
そこでサビヤは考えた。
「彼ら修行者、バラモンたちは、自ら教団を持ち、修行者を率い、多くの人の師であり、多くの人から聖者と見なされている者たちである。しかし私の質問に対して答えることができず、怒り、嫌悪し、不機嫌となり、逆に私に質問してきた。私は在俗の身に戻って、もろもろの欲望を楽しもう」
それからサビヤはまた次のようにも考えた。
「ここにいる修行者ゴータマもまた、自ら教団を持ち、修行者を率い、多くの人の師であり、多くの人から聖者と見なされている。私は彼のもとに行き、質問してみよう。
いままでの修行者、バラモンたちは、年長で、老齢で、老いぼれであり、出家してから久しく、経験豊かな長老であるが、彼らは私の質問に答えることができなかった。しかし修行者ゴータマは、年も若く、出家してから日も浅いので、私に質問されて明確に答えられるだろうか。修行者が若いからといって、侮ってはならないし、軽蔑してもならない。この修行者は、若いにもかかわらず、卓越した能力があり、大きな威力がある」
そこで遍歴行者サビヤはラージャガハの竹林にあるリスの飼育所に逗留されているブッダのもとに赴いた。そして師に挨拶した後、師の傍らに坐った。それからサビヤは、次の詩句をもって話しかけた。
510
「私には疑問があり、それを明かしていただくために、質問に参りました。質問の順に、理に叶って、的確に、明晰に答えて解決してください」
(ブッダ)
511
「サビヤよ、そなたは私に質問するために遠くからやって来た。質問するがよい。私は、質問の順に、理に叶って、的確に、明晰に答えて解決しよう。
512
サビヤよ、心の中にある疑問をどんなことでも質問するがよい。私は、それらの一つ一つを解決しよう」
(サビヤの問い)
513
「何を達成した人を『修行者』と呼ぶのですか。何によって『温和な人』となるのですか。どのようにしたら『自制した人』と呼ばれるのですか。どのような人が『目覚めた人』ブッダと呼ばれるのですか」
(ブッダの答え)
514
「自ら道を修行し、平安の境地に達し、すべての疑惑を払い除き、生成も消滅も超え、行いが清らかで、再びこの世に生まれてこない人。彼が『修行者』である。
515
あらゆる事態に平静で、注意を払い、世界のいかなるものをも害することなく、激流を渡って彼岸に達し、濁りなく、情欲のない人、彼が『温和な人』である。
516
この世において、内面的にも外面的にも感覚器官を制御し、この世もあの世も洞察し尽くし、修養しながら死を迎える人、彼が『自制した人』である。
517
すべては虚妄であると見抜き、生死の輪廻を考察し、無垢で、汚れなく、清く、再び生まれることがない人、彼が『目覚めた人』である」
サビヤはブッダの教えに歓喜し、心楽しく、嬉しくなり、さらに質問した。
518
「何を達成した人を、バラモン〔行い清き人〕と呼ぶのですか。何をもってして、『道の人』と呼ぶのですか。どのような人が『沐浴者』と呼ばれるのですか。誰が『龍[173]』と呼ばれるのですか」
(ブッダ)
519
「いっさいの悪を除き、汚れ無く、心安らぎ、確固とし、輪廻を超えて修行を完成し、何ものにも囚われることのない人、彼は真のバラモンである。
520
心安らかにして、善悪を捨て、汚れなく、この世とあの世を知り、生死を超越した人、彼は『道の人』と呼ばれる。
521
内面的にも外面的にも世界のいっさいの罪を清め、神や人間のように 心が揺らがない人、彼は真の『沐浴者』と呼ばれる。
522
世間にあっていかなる罪も犯さず、すべてのしがらみを捨て、いかなるものにも囚われず、解脱している人、彼は真の『龍』と呼ばれる」
サビヤはブッダの教えに歓喜し、心楽しく、嬉しくなり、さらに質問した。
523
「ブッダはどんな人を『地の精通者』とお呼びになるのですか。どんな人を『巧みな人』、『賢者』、『聖者』とお呼びになるのですか」
(ブッダ)
524
「神々、人、ブラフマー神の領域を知り尽くし、それらの束縛の根本から解き放たれた人、彼は真の『地の精通者』である。
525
神々、人、ブラフマー神の宝蔵を知り尽くし、それらの束縛の根本から解き放たれた人、彼は真の『巧みな人』である。
526
この世の内面的・外面的な浄と不浄を弁別し、透徹した叡智があり、浄と不浄を超越した人、彼は真の『賢者』である。
527
この世の内面的・外面的善悪の本性を知り、神からも人からも尊崇され、束縛の網から解き放たれた人、彼は『聖者』である」
サビヤはブッダの教えに歓喜し、心楽しく、嬉しくなり、さらに質問した。
528
「何を達成した人を『ヴェーダの達人』と呼ぶのですか。何をもって『通暁者』となるのですか。いかにして『励み努める人』となるのですか。どういう人が『高貴な血筋の人』と呼ばれるのですか」
(ブッダ)
529
「ヴェーダ聖典を知り尽くし、感覚器官の対象に対する欲望を捨て、感覚器官の対象に対する執着を離れた人、彼は『ヴェーダの達人』と呼ばれる。
530
感覚器官の内面的、外面的な対象は欲望という病の根源であると知り、いっさいの病の根源から解き放たれている人、彼は『通暁者』と呼ばれる。
531
懸命に励み努み、この世で悪業【あくごう】をなさず、来世に地獄の苦しみを味わうことのない人、彼は『励み努める人』と呼ばれる。
532
執着の根源となる内面的、外面的束縛を断ち、いっさいの執着の根源から解き放たれた人、彼は『高貴な血筋の人』と呼ばれる」
サビヤはブッダの教えに歓喜し、心楽しく、嬉しくなり、さらに質問した。
533
「何を得た人を『識者』と呼ぶのですか。何によって『優れた人』と呼ぶのですか。また何をもって『品行方正な人』と呼ぶのですか.どのような人を『遍歴修行者』と呼ぶのですか」
(ブッダ)
534
「教えを聴き、世の中のすべてのことに関して良否を知り、疑惑なく、すべてを克服し、解脱して、心乱れることがない人、彼は『識者』と呼ばれる。
535
すべての汚れと執着の源を断ち、叡智を得て、再び生まれることがなく欲望と怒りと敵意を捨て、心に乱れのない人、彼は『優れた人』と呼ばれる。
536
この世でさまざまな修行を実践し、つねに理を知り、執着することなく、解脱していて、他人を害する心のない人、彼は『品行方正な人』と呼ばれる。
537
いかなる苦しみの報いを受けることなく、偽り、驕り、欲望、怒りを捨て、感覚器官の対象としてしての存在を超え、目標を達成した人、彼は『遍歴修行者』と呼ばれる」
サビヤはブッダの教えに歓喜し、心楽しく、嬉しくなり、立ち上がり、衣を左肩にかけ右肩をあらわにし、師に向かって合掌し、次の詩句をもって讃嘆した。
538
「叡智あるお方よ、あなたはもろもろの論争に囚われることなく、さまざまな誤った意見を超え、激流を渡られたお方です。
539
苦しみを消滅し、彼岸に達せられたお方です。あなたは『供養に値する人』、完全に『目覚めた人』です。
煩悩の汚れをなくし、輝き、思慮深く、叡智あり、苦しみを滅したお方で、私を救ってくださいました。
540
あなたは、私に疑惑のあることを知り、それを晴らしてくださいました。太陽の末裔で、心安らかにして、道を極めた聖者よ、あなたは、思いやりのある人です。
541
私が以前から抱いていた疑念をあなたは晴らしてくださいました。あなたは完全に『目覚めた人』で、あなたを妨げるするものは何もありません。
542
あなたはすべての煩悩が断ち切られ、消滅し、清らかで、自制し、堅固で、誠実なお方です。
543
象の中の偉大なる象、偉大なる勇者よ、あなたの教えを聴くと、世界のもろもろの神々は喜びます。
544
聖者よ、あなたに帰依します。至高なるお方よ、あなたに帰依します。神々の中でも、人間の中でも、あなたに匹敵する者はいません。
545[174]
あなたは『目覚めた人』で、偉大なる師です。あなたは悪魔を征服した賢者です。あなたは、潜在的な煩悩をも断ち切り、彼岸に渡り、また他の人をも渡らせるお方です。
546[175]
あなたは所有物への執着を断ち切り、すべての煩悩の汚れを清められました。執着心がなく、ライオンのように何ものも恐れず、何ものにも慄【おのの】きません。
547
白蓮花【びゃくれんげ】が泥水に汚れることがないように、あなたは善にも悪にもけがされることがありません。聖者よ、両足をお伸ばしください。サビヤは師の御足に礼拝します」
そこで遍歴行者サビヤは、ブッダの両足に頭をつけて礼拝し、次のように言った。
「すばらしいことです、ブッダよ。あなたは、あたかも倒れた者を起こすように、覆い隠されていたものを開示するように、道に迷った者に方角を示すように、『目ある者は見よ』と言って暗闇で燈火をかかげるように、真理を明らかにされました。私は、ブッダ〔仏〕に帰依します。真理〔法〕とサンガ〔僧〕に帰依します。私は、ブッダのもとで出家し、完全な戒律を受けたいと思います」
ブッダがおっしゃった。
「かつて異なった教義に従って修行していた者が、私の教えと戒律を受け入れて出家し、完全な戒律を受けようと望むならば、四か月の試験期間がある。四か月経って、教団の修行者たちが認めれば、彼を出家させ、完全な戒律を授ける。しかし、その期間は人によって長短がある」[176]
(サビヤ)
「師よ、『かつて異なった教義に従って修行していた者が、私の教えと戒律において出家し、完全な戒律を受けようと望むならば、四か月の試験期間がある。四か月経って、教団の修行者たちが認めれば、彼を出家させ、完全な戒律を授ける』ということであれば、私は四か月ではなく四年間試験期間を過ごしましょう。そして四年経って、教団の修行者たちが認めれば、私を出家させ、完全な戒律を授けてください。
こうして遍歴行者サビヤは、ブッダのもとで出家し、完全な戒律を受けた。彼は人里離れ独居し、怠ることなく励み努め、やがて現世において、すべての出家修行者の目標である無上の清らかな境地に達し、日々を送って、次のように言った。
「生は尽きた。清らかな行いはなし終えた。なすべきことはなし終えた。もはや再びいかなる生存も受けることはない」
こうして遍歴行者サビヤは聖者の一人となった。
七 結髪【けっぱつ】行者セーラ
私は次のように聞いた。
ある時ブッダは、修行者千二百五十人とともに、アングッタラーパ地方を遍歴し、アーパナという町にお着きになった。結髪行者ケーニヤはこのことを耳にした。「シャーキャ族出身の修行者ゴータマ・ブッダが、修行者千二百五十人とともに、アングッタラーパ地方を遍歴し、アーパナという町にお着きになった。ゴータマには次のような名声がある。すなわち、供養に値する人、完全に目覚めた人、叡智と行いを具えた人、よく彼岸に達した人、世間を知り尽くした人、無上の人、人々を指導する人、神々と人間の師、目覚めた人、祝福された人[177]である。彼は神々、悪魔、ブラフマー神、修行者、バラモンといったこの世の人々を含む生きとし生けるものに自らの体験で理解された教えをお説きになる。そのお方は、いかなる点においても非の打ちどころのない、意味深長にして、ふさわしい言葉で、完璧で清らかな行いをお説きになる。そのようなお方にお目にかかれるとは、なんとすばらしいことだ」
そこで結髪行者ケーニヤはブッダのもとに赴いた。師と挨拶の言葉を交わし、傍らに坐った。師は傍らに坐った彼に、教えに関する話をし、指導し、励まし、お喜ばしになった。ケーニヤは、教えに関する話を聴き、指導され、励まされ、喜ばされて、ブッダに次のように言った。
「ゴータマよ、修行者たちと一緒に、明日私が捧げる食事をお受けください」
その言葉を受けて、ブッダはケーニヤにおっしゃった。
「ケーニヤよ、修行者たちは千二百五十人もいますし、あなたはバラモンたちを信奉しています」
結髪行者ケーニヤは、再び言った。
「ゴータマよ、修行者たちは千二百五十人もいて、私はバラモンたちを信奉していますが、それでも明日私が捧げる食事を、修行者たちと一緒にお受けください」
ブッダは再びおっしゃった。
「ケーニヤよ、修行者たちは千二百五十人もいますし、あなたはバラモンたちを信奉しています」
結髪行者ケーニヤは、三たび言った。
「ゴータマよ、修行者たちは千二百五十人もいて、私はバラモンたちを信奉していますが、それでも明日私が捧げる食事を、修行者たちと一緒にお受けください」
ブッダは沈黙し、承諾した。
そこで結髪行者ケーニヤは、座を立って、自分の庵に戻っていった。それから、友人、仲間、親族、縁者に告げた。
「友人、仲間、親族、縁者の方々、私の話を聞いてください。私はブッダを、修行者たちと一緒に、明日の食事にお招きしました。ですから皆さんで手伝ってください」
彼らは、「承知しました」と答えて、ある者たちは竃【かまど】を用意し、ある者たちは薪【まき】を割り、ある者たちは食器を洗い、ある者たちは水瓶を備え付け、ある者たちは座席を設けた。ケーニヤ自身は、円形の集会場を準備した。
その頃アーパナには、セーナというバラモン〔司祭者〕が住んでいたが、彼は三ヴェーダ聖典[178]に精通し、語彙【ごい】、儀軌【ぎき】、音韻論、語源もよく知っており、(第四のヴェーダである『アタルヴァ・ヴェーダ』と)第五のヴェーダである史伝にも通暁していた。彼はまた、文献、文法、唯物論、偉人の観相にも長けており、三百人の少年たちにヴェーダの聖句を教えていた。結髪行者ケーニヤは、そんなセーラを信奉していた。
セーラは三百人の少年に囲まれていたが、散歩に出かけ、ケーニヤの庵に近づいた。そこでケーニヤの庵の修行者たちが、ある者たちは竃を用意し、ある者たちは薪を割り、ある者たちは食器を洗い、ある者たちは水瓶を備え付け、ある者たちは座席を設け、ケーニヤ自身は、円形の集会場を準備しているのを目にして、ケーニヤに尋ねた。
「ケーニヤさん、息子が嫁を迎えるのですか。息女が嫁に行かれるのですか。それとも、マガダ国王ビンビサーラとその軍隊を明日の食事に招待したのですか」
ケーニヤが答えた。
「息子が嫁を迎えるのでもなく、息女が嫁に行くのでもありませんし、マガダ国王ビンビサーラとその軍隊を明日の食事に招待したのでもありません。そうではなくて、私は大きな祭祀を行おうとしているのです。シャーキャ族出身のゴータマ・ブッダが、修行者千二百五十人とともに、アングッタラーパ地方を遍歴し、アーパナという町にお着きになった。修行者千二百五十人とともにお着きになった。ゴータマには次のような名声がある。すなわち、供養に値する人、完全に目覚めた人、叡智と行いを具えた人、よく彼岸に達した人、世間を知り尽した人、無上の人、人々を指導する人、神々と人間の師、目覚めた人、祝福された人である。私はそのお方を修行者たちと一緒に明日の食事にお招きしました」
「ケーニヤさん、あなたは彼を『目覚めた人』と呼びますか」
「セーラさん、私は『目覚めた人』と呼びます」
「ケーニヤさん、あなたは彼を『目覚めた人』と呼びますか」
「セーラさん、私は『目覚めた人』と呼びます」
その時バラモン・セーラは思った。
「『目覚めた人』という言葉を耳にすることは、世の中で稀なことだ。ヴェーダ聖典には、偉人の身体には三十二の特徴[179]があると記してある。それを具えている偉人には二つの道しかなく、他の道はない。
彼が俗世に留まるなら、彼は転輪王[180]となり、正義の守護者として四方を征服し、国土、国民を護り、七つの宝を所有することになる。七つの宝とは、輪宝、象宝、馬宝、珠宝、女宝、居士【こじ】宝、将軍宝[181]である。彼には千人以上の子があり、みな勇敢で雄々しく、外敵に勝利する。彼は四海の果てに到るまで武力によらず正義によって征服し、治める。
彼が俗世を捨て、出家するならば、煩悩の覆いを取りさり、無比の『供養に値する人』、『目覚めた人』となるだろう」と。
「ケーニヤさん、その『供養に値する人』、『目覚めた人』であるゴータマ様は、今どこにおられるのですか」
彼がこう言った時、結髪行者ケーニヤは、右腕を差し伸ばして、セーラに言った。
「セーラさん、この方角の、あの青い林におられます」
そこでセーラは、三百人の弟子とともに師のおられるところに赴いた。
「君たちは音を立てないように忍び足で来なさい。聖者たちはライオンのように一人で歩む人であり、近付き難いからだ。私が師と話しているあいだ、君たちは口を挟んではならない。話が終わるまで待ちなさい」
そしてセーラは師に近づき、挨拶を交わし、傍らに坐った。それから彼は、師の身体に偉大な人の三十二の特徴があるか観察した。二つの特徴を除いては具わっていることを確かめたが、残りの二つに関してはわからなかったので、彼が本当に『目覚めた人』かどうか確信を持てなかった。その二つとは顔を覆い尽くすことができる舌と、体の中に埋もれている陰茎であった。
その時、師はセーラの疑いをお見抜きになり、こうお思いになった。
「このバラモンは、私の身体にある三十二の特徴のうち、二つを見つけていない。その二つとは顔を覆い尽くすことができる舌と、身体の中に埋もれている陰茎であり、それが確認できないから、私が『目覚めた人』であるかどうかを疑って、信じていない」
そこで師は、超能力で身体の中に埋もれている陰茎がセーラに見えるようにした。そして舌を出し、両耳の穴と鼻の両穴を上下に舐め、顔の全面を覆った。
するとセーラは思った。
「ゴータマ師は三十二の特徴をすべて完全に具えておられる。しかし私は彼が『目覚めた人』かどうかがまだわからない。年老いた長老のバラモンたち、あるいはその師たちは、『もろもろの “供養に値する人”、完全に "目覚めた人”は、自分が讃嘆されると、本性を現す』と言われるのを聞いたことがある。私は、彼をふさわしい詩句で讃嘆してみよう」
そこでセーラは、師の面前でふさわしい詩句で讃嘆した。
548
「師よ、あなたの身体は完璧であり、高貴な生まれで、輝いており、見た目にも麗しい。黄金色に輝き、歯は白く、精力に満ちています。
549
実にあなたの姿、形には、高貴な生まれの人が具える特徴が具わっています。
550
あなたの目は澄んでおり、容姿は麗しく、身体は真っ直ぐで、背丈は高く、修行者の中にあって、太陽のように輝いています。
551
あなたは見目麗しい修行者で、肌は黄金のように輝いています。そのような容姿の優れた方が、どうして修行者になられたのですか。
552
あなたは世界の帝王として、戦車隊の統率者として、四方を征服し、インド大陸全体を支配するにふさわしい方です。
553
諸侯や王たちは、あなたに忠誠を誓うでしょう。ゴータマ・ブッダよ、諸王の中の王、人類の帝王として、世界を統治してください」
ブッダはお答えになった。
554
「私は王であるが、至上のダンマの王である。私は、反転しない法輪を回します」[182]
(セーラ)
555
「あなたは完全に『目覚めた人』であると称しておられます。ゴータマ・ブッダよ、あなたは『至上のダンマの王であり、法輪を回す』とおっしゃいます。
556
では、あなたの将軍は誰ですか、後継者は誰ですか。あなたが回す法輪を回し続ける人は誰ですか」
(ブッダ)
557
「セーラよ、私が回しはじめた『至上の法輪』を回し続けるのは、私の後継者であるサーリプッタです。
558
私は、知るべきことは知り、修めるべきことは修め、捨てることは捨て終えました。バラモンよ、それゆえに私は『目覚めた人』です。
559
バラモンよ、私に対する疑義を捨て、私を信じなさい。『目覚めた人』に出会う機会は、稀である。
560
『目覚めた人』が世に出現することは稀である。私はその『目覚めた人』であり、煩悩の矢を抜き取った者である。
561
私は悪魔の軍を打ち破ったブラフマー神に勝る者である。あらゆる敵を打ち破り,恐るものなく、喜びを享受している」
(セーラの弟子たちへの言葉)
562
「そなたらよ、真理を見る人の言葉を聴け。彼は煩悩の矢を抜き取った人であり、森の中で雄々しく吠えるライオンのようである。
563
悪魔の軍を打ち破ったブラフマー神に勝る者を目にしてたとえ下賤な者でも、彼を信じない者はいないだろう。
564
私に従いたい者は、私に従え。そうでない者は、私のもとから去れ。私は、叡智を具えたこのお方に帰依する」
(セーラの弟子たち)
565
「師が、この完全に『目覚めた人』の教えに従われるのなら、私たちも、この叡智あるお方に帰依します」
(セーラ)
566
「師よ、ここにいる三百人のバラモンは合掌してお願いしております。ブッダよ、私たちにあなたのもとで清らかな行いを実践させてください」
(ブッダ)
567
「清らかな行いは、実践すればたちどころに効果がある。怠ることなく励む者が出家することは、甲斐のあることだ」
そこでセーラは、弟子たちと一緒に、師に帰依し、完全な戒律を受けた。
結髪行者ケーニヤは、夜が明けてから、自分の庵で硬柔さまざまなおいしい食事を用意し、
「ゴータマ様、食事の用意できました」と言った。
そこでブッダは午前中に内衣を着け、鉢を持ち、衣を纏って、結髪行者ケーニヤの庵に赴きになった。そして修行者とともに用意されていた席にお着きになった。そこで結髪行者ケーニヤは、自らの手で硬柔さまざまなおいしい食事を給仕し、ブッダと修行者たちを喜ばせた。ブッダが食事を終え、鉢から手をお放しになった時、ケーニヤは自ら低い座に坐った。そこでブッダは、次の詩句で感謝の意をお述べになった。
568
「火の祭祀は最上の祭祀であり、サーヴィトリー讃歌[183]はヴェーダの中で最上の讃歌である。人間の中では王は最上があり、河川や湖沼の中では海が最上である。
569
星の中では月が最上であり、輝くものの中では太陽が最上である。功徳を積みたい者にとって、供養を行う対象として最上なのは出家者の集い〔僧〕である」
ブッダは、こうして結髪行者ケーニヤに感謝されてから、座をお起【た】ちになり去っていかれた。
そこでバラモン(司祭者)セーラは自分の弟子たちとともに、怠らず励み、修行に専念し、この上なく身を清く保ち、現世において自ら、すべての出家修行者の目標である「目覚めた人」となった。
「生は尽きた。清らかな行いはなし終えた。なすべきことはなし終えた。もはや再びいかなる生存を受けることはない」
セーラとその弟子たちは、一人ひとりが聖者となった。
それからセーラは自分の弟子たちとともに、ブッダのもとに赴いた。衣を左肩に掛け、右肩をあらわにして、師に向かって合掌し、次の詩句でもって申し上げた。
570
「師よ、『眼ある人』よ、私たちは八日前に出家しましたが、それからの七日間にあなたの教えで、自らを修養することができました。
571[184]
あなたは『目覚めた人』で、師です。あなたは、悪魔に打ち勝った聖者です。あなたは煩悩を断ち、彼岸に渡り終わり、他の人をも渡してくださいます。
572[185]
あなたは執着を離れ、煩悩の汚れを清めておられます。あなたはものごとに対する愛着がなく、何ものをも恐【おそれ】ることのないライオンのようなお方です。
573
これら三百人の修行者は合掌して立っております。どうか両足をお伸ばしください。彼らに師の御足に敬礼させてやってください」
八 矢[186]
574
人の命は不確かで、いつ死が訪れるかわからない。短く、悩ましく、苦しみをともなっている。
575
生まれた者は、死ぬ定めであり、長生きしても、ついには死に到る。生ある者の定めは、じつにこのとおりである。
576
熟した果実は、いつ落ちるかわからない。それと同じく、生まれた者は死ぬ運命にあり、いつ死ぬかわからない。
577
陶工の作った土器が、ついにはすべて割れてしまうように、人の命もまた、そのとおりである。
578
若者も老人も、愚か者も賢者も、誰もが死に屈する。人は誰もがかならず死に到る。[187]
579
誰もが打ちひしがれ、あの世に去っていく。親も死にゆく子を救えず、親族も(死にゆく)縁者を救えない。[188]
580
見よ、見守る親族が深い悲嘆にくれる中、人は殺される牛のように、一人ずつ連れ去られる。
581
このように、人は誰もが、老いと死とによって打ち負かされる。賢者は、これをありのままに受け止め、悲しまない。
582
人は、自分がどこから来て、どこに行くのかを知らず、生と死の本質を理解せず、いたずらに泣き悲しむ。
583
嘆き悲しみ、途方にくれて自分を傷つけることなく、少しでも役に立つのなら、賢者もそうするだろう。
584
泣き悲しんでも、心は安まらず、ますます惨【みじ】めになり、やつれるだけである。
585
自分で自分を傷つけ、やせ衰えるだけであり、死者[189]には何の恩恵もない。嘆き悲しむのは無益である。
586
悲しむのを止【や】めなければ、ますます苦しむだけである。死者のことを嘆き惜しんでも、悲しみに囚われるばかりである。
587
見よ、人はみな生きているあいだから死を恐れ、おののき震えているが、自分の行いにしたがって死んでゆく。[190]
588
自分でいかに思いめぐらそうと、結果は思いとは異なり、失望するだけである。ありのままを見よ。
589
たとえ百年生きようとも、それ以上長らえようとも、ついには親族と引き裂かれ、命は果てる。
590
それゆえに、「供養に値する人」〔ブッダ〕の教えを聴き、他人【ひと】の死を前にしたら、「私の力の及ばないものなのだ」と知り、嘆き悲しむのを止めよ。
591
家に火がついたら水で消し止めるように、叡智ある聡明な賢人は、悲しみが起ったら、風が綿花を吹き飛ばすように、速やかに吹き消してしまう。
592
悲嘆と愛執と、憂いとを捨てされ。安楽を求める人は、煩悩の矢を抜き取れ。
593
身体に刺さった毒矢を抜き取って、誤った見方に囚われず、心の安らぎを得たならば、あらゆる悲しみは超越され、悲しみのない平安の境地に到る。
九 青年ヴァーセッタ
私は次のように聞いた。
ある時ブッダはイッチャーナンガラ村のイッチャーナンガラ林に逗留されていた。その時イッチャーナンガラ村には多くの名の知れた大富豪バラモンたちが住んでいた。チャンキン、タールッカ、ポッカラサーチ、ジャーヌッソーニ、トーデーヤ、その他名の知れた大富豪バラモンたちである。
その時ヴァーセッタとバーラドヴァージャという二人の青年が、あちこちそぞろ歩きしながら散歩していた。そして論議を始めた。
ヴァーセッタが訊いた。
「君、どうしたらバラモン〔行い清き人〕と言えるだろうか」
バーラドヴァージャが答えた。
「君よ、母方も父方も、どちらも生まれがよく、七代遡って血統が良く、疑われる余地なく、非難されたことがないならば、まさに彼はバラモンである」
ヴァーセッタは次のように主張した。
「君よ、人は行いが正しく、戒律を守ることによって、バラモン〔行い清き人〕となるのである」
しかし二人の青年はお互いに相手を説得することができなかった。そこでヴァーセッタはバーラドヴァージャに提案した。
「バーラドヴァージャよ、シャーキャ族出身の修行者ゴータマ・ブッダは、出家して、ここイッチャーナンガラ村のイッチャーナンガラ林に逗留されている。そのゴータマには次のような名声がある。すなわち、供養に値する人、完全に目覚めた人、叡智と行いを具えた人、よく彼岸に到った人、世間を知り尽くした人、無上の人、人々を指導する人、神々と人間の師、目覚めた人、祝福された人である。バーラドヴァージャよ、修行者ゴータマのもとに行って、このことを訊こう。そして私たちは修行者ゴータマのお答えになることを正しいと認めて受け入れることにしよう」
「そうしよう」と、バーラドヴァージャは答えた。
そこでバーラドヴァージャとヴァーセッタは、師のいらっしゃるところに赴いた。師に挨拶し、傍らに坐ってから、バラモン・ヴァーセッタは次の詩句でもって師に申し上げた。
594
「私たちは二人とも、三ヴェーダの通暁者として、師からも認められ、私たちもそう自認しています。私はボッカラサーティ師の弟子であり、彼はタールッカ師の弟子です。
595
私たちは三ヴェーダに説かれていることを熟知しています。私たちは、語句、文法に通暁し、読誦に関しては師に引けをとりません。
596
ゴータマよ、私たちは生まれに関して意見が異なります。バーラドヴァージャは、『生まれによってバラモンとなる』と考え、私は、『行いによってバラモンとなる』と考えます。真理を見るお方よ、いま私たちはこういう議論のさなかにあるとご理解ください。
597
私たちは、お互いに納得することができません。完全に『目覚めた人』にこの件についてうかがいに参りました。
598
月が満ちるにつけ、人々が満月を礼拝するように、世の中の人々は、ゴータマ・ブッダを礼拝します。
599
『世間の眼』として出現されたゴータマにお尋ねします。『生まれによってバラモンとなる』のでしょうか、『行いによってバラモンとなる』のでしょうか。私たちには、どちらが真のバラモンなのかわかりませんので、お教えください」
ブッダがお答えになった。
600
「ヴァーセッタよ、そなたらのために、もろもろの生まれの違いを説明しよう。さまざまな生まれがあるので、それらを順次説明しよう。
601
草木にもさまざまな種類があるが、『私は草である』とか『私は木である』と主張し合わない。草木の特徴は、生まれつき決定されている。
602
次に、蛆虫【うじむし】、蝶、蟻などさまざまな種類があり、各々異なっている。その違いは、生まれつき決定されている。
603
同様に四足動物にも、大小の違いがあり、各々異なっている。その違いは、生まれつき決定されている。
604
腹這いに進む蛇にもさまざまな種類があり、各々異なっている。その違いは、生まれつき決定されている。
605
水中に生まれ棲む魚にしても、さまざまな種類があり、各々異なっている。その違いは、生まれつき決定されている。
606
翼で空を飛ぶ鳥にしても、さまざまな種類があり、各々異なっている。その違いは、生まれつき決定されている。
607
こうした動植物の場合には、種に応じて、さまざまな(生まれつき決定されている)違いがある。しかし人間には、そうした違いはない。
608
毛髪、頭、耳、目、口、鼻、唇、眉、
609
首、肩、腹、背中、尻、胸、肛門、性器、
610
手、足、指、爪、脛【すね】、腿【もも】、色、声などの違いは、
611
身体つきは違っていても、種による違いではない。人間の間の違いは、ただ名称だけである。
612
田畑によって生計を立てる人、彼は農民であり、バラモンではない。ヴァーセッタよ、そう心得よ。
613
技能によって生計を立てる人、彼は職人であり、バラモンではない。ヴァーセッタよ、そう心得よ。
614
商売によって生計を立てる人、彼は商人であり、バラモンではない。ヴァーセッタよ、そう心得よ。
615
他人に仕えることによって生計を立てる人、彼は使用人であり、バラモンではない。ヴァーセッタよ、そう心得よ。
616
盗みによって生計を立てる人、彼は盗人であり、バラモンではない。ヴァーセッタよ、そう心得よ。
617
武器によって生計を立てる人、彼は戦士であり、バラモンではない。ヴァーセッタよ、そう心得よ。
618
祭祀によって生計を立てる人、彼は祭官であり、バラモン[191]ではない。ヴァーセッタよ、そう心得よ。
619
村や国を統治することによって生計を立てる人、彼は王であり、バラモンではない。ヴァーセッタよ、そう心得よ。
620[192]
私は、カーストがバラモンである女性の胎内から生まれたというだけの人を、バラモンとは呼ばない。彼は、裕福で「君よ!」と他人【ひと】を見下して呼びかける人である。無一物で、無執着な人、私は彼をバラモンと呼ぶ。
621
すべての束縛を断ち切り、恐れることなく、執著を超越して、囚われることのない人、私は彼をバラモンと呼ぶ。
622
紐、革帯、網、その他束縛するものをことごとく断ち切り、門をとざす閂【かんぬき】を外し、目覚めた人、私は彼をバラモンと呼ぶ。
623
罪がないのに罵【ののし】られ、なぐられ、拘禁されても堪え忍ぶ忍耐力があり、心の猛【たけ】き人、私は彼をバラモンと呼ぶ。
624
怒ることなく、慎み深く、戒めを守り、欲深くなく、自制し、最後の身体に達しもはや輪廻しない人、私は彼をバラモンと呼ぶ。
625
蓮の葉の上の露のように、針の先端の辛子の粒のように、官能的快楽が身にへばりつかない人、私は彼をバラモンと呼ぶ。
626
この世において自分の苦しみの消滅を知り、重荷をおろし、囚われることのない人、私は彼をバラモンと呼ぶ。
627
洞察深く、聡明で、歩むべき道とそうでない道を知り分け、究極の目的を達成した人、私は彼をバラモンと呼ぶ。
628
在家者とも出家者とも、いずれとも交らず、住まいを定めず遍歴し、寡欲な人、私は彼をバラモンと呼ぶ。
629
強きものも、弱きものも、命あるものに危害を加えることなく殺さず、また殺させることのない人、私は彼をバラモンと呼ぶ。
630
敵意ある人たちの中にあって、敵意なく、暴力を振るう人たちの中にあって、おだやかで、執著する人たちの中にあって、執著しない人、私は彼をバラモンと呼ぶ。
631
辛子の粒が針の先端から落ちるように、執着と悪意と傲慢と偽善が消え落ちた人、私は彼をバラモンバラモンと呼ぶ。
632
粗野でなく、真実の言葉で人を諭し、誰の気持ちも傷つけない人、私は彼をバラモンと呼ぶ。
633
この世において、長かろうと短かろうと、微細であろうと粗大であろうと、浄かろうと不浄であろうと、
与えられていない物を盗らない人、私は彼をバラモンと呼ぶ。
634
現世でも、来世でも、何ものをも望むことなく、欲求がなく、囚われることのない人、私は彼をバラモンと呼ぶ。
635
執着なく、理を知り尽くして、疑念なく不死[193]の境地に達した人、私は彼をバラモンと呼ぶ。
636
この世の禍福のいずれにも執著することなく、憂いなく、汚れなく、清らかな人、私は彼をバラモンと呼ぶ。
637
雲間【くもま】の月のように、清く、澄んで、濁りなく、快楽【や】に生きることを止めた人、私は彼をバラモンと呼ぶ。
638
この障害の多い険しい道、輪廻、迷妄を超え、彼岸に渡って、瞑想し、動揺することなく、疑惑なく、執着することなく、安らかな人、私は彼をバラモンと呼ぶ。
639
この世の欲望を断ち切り、出家して遍歴し、欲望に生きることを止めた人、私は彼をバラモンと呼ぶ。
640
この世の愛執を断ち切り、出家して遍歴し、愛執に生きることを止めた人、私は彼をバラモンと呼ぶ。
641
世の中の束縛を捨て、天界の束縛を超え、すべての束縛を離れた人、私は彼をバラモンと呼ぶ。
642
快楽も不快も捨て、冷静で、執着せず、全世界にうち勝った勇気ある人、私は彼をバラモンと呼ぶ。
643
生きとし生けるものの生死を知り尽くし、執著なく、よく彼岸に達した人[194]、目覚めた人、私は彼をバラモンと呼ぶ。
644
神々もガンダルヴァ[195]も人間も、その行方を知り得ない人[196]、心の汚れを消し尽くした、まことの人、私は彼をバラモンと呼ぶ。
645
過去にも、未来にも、現在にも何ものをも所有せず、無一物で、執着のない人、私は彼をバラモンと呼ぶ。
646
牡牛のように雄々しく、気高く、勇猛な勝利者、欲望なく、汚れを洗い落し、目覚めた人、私は彼をバラモンと呼ぶ。
647
前世を知り、天上界と苦しみの世界を見て、生存を滅し尽くした聖者、私は彼をバラモンと呼ぶ。
648
世間で姓といい、名というものは、付けられた名称に過ぎず、慣習に過ぎない。
649
このことを知らない人たちは、長いあいだ誤った見方をしている。『生まれによってバラモンなのである』と言うのは無知な人たちである。
650[197]
生まれによってバラモンなのではなく、生まれによってバラモンにあらざる人なのではない。行いによってバラモンともなり、行いによってバラモンにあらざる人ともなるのである。
651
行いによって農夫となり、行いによって職人となり、行いによって商人となり、行いによって使用人となる。
652
行いによって盗賊ともなり、行いによって戦士ともなり、行いによって祭官ともなり、行いによって王ともなる。
653
賢者は、このように行いをあるがままに見て、行いとその果報との関係、すなわち縁起[198]を理解する。
654
世の中は行いによって成り立ち、人は行いによって成り立つ。車輪が轄【くさび】によって車軸に結ばれているように、生きとし生けるものは、行いに結ばれている。
655
修行と清らかな行いと感覚器官の制御と修養によって、人はバラモン、すなわち行い清き人となる。これが、最高のバラモンの境地である。
656
一切の煩悩を断ち、心安らかで、再びこの世に生まれることのない人。彼は識者によってブラフマー神とインドラ天と等しく見なされる」
ブッダがこのようにお説きになったので、バーラドヴァージャとヴァーセッタは師に向かって申し上げた。
「すばらしいことです、ブッダよ。あなたは、あたかも倒れた者を起こすように、覆い隠されていたものを開示するように、道に迷った者に方角を示すように、『目ある者は見よ』と言って暗闇で燈火をかかげるように、真理を明らかにされました。私は、ブッダ〔仏〕に帰依します。真理〔法〕とサンガ〔僧〕に帰依します。ブッダよ、私たちを、在家信者として受け入れてください。今日から命ある限り帰依します」
一〇 誹謗【ひぼう】者コーカーリヤ
私は次のように聞いた。
ある時ブッダはサーヴァッティーのジェータ林の祇園精舎の逗留されていた。その時修行者コーカーリヤは師のおられるところに赴き、挨拶して、傍らに坐った。そして師に向かって申し上げた。
「師よ、サーリプッタとモッガラーナには邪念があります。悪い欲望に囚われています」
それを聞いて、ブッダは修行者コーカーリヤに次のようにおっしゃった。
「コーカーリヤよ、そんなことは言わないように。コーカーリヤよ、そんなことは言わないように。サーリプッタとモッガラーナを信じなさい。彼らは徳のある者たちだ」
修行者コーカーリヤはふたたび申し上げた。
「師よ、私は師を信じ、お頼りしています。しかしサーリプッタとモッガラーナには邪念があります。悪い欲望に囚われています」
再びそう告げられて、ブッダはふたたび修行者コーカーリヤにおっしゃった。
「コーカーリヤよ、そんなことは言わないように。コーカーリヤよ、そんなことは言わないように。サーリプッタとモッガラーナを信じなさい。彼らは徳のある者たちだ」
修行者コーカーリヤは三たび申し上げた。
「師よ、私は師を信じ、お頼りしています。しかしサーリプッタとモッガラーナには邪念があります。悪い欲望に囚われています」
三たびそう告げられて、ブッダは三たび修行者コーカーリヤにおっしゃった。
「コーカーリヤよ、そんなことは言わないように。コーカーリヤよ、そんなことは言わないように。サーリプッタとモッガラーナを信じなさい。彼らは徳のある者たちだ」
そこでコーカーリヤは座から起ち上がり、師に挨拶し、右遶【うにょう】[199]して去って行った。それからまもなくして、彼の全身に芥子粒【けしつぶ】ほどの腫れ物ができた。最初は芥子粒ほどだったのが、次第に大きくなり小豆ほどに、それから大豆ほどに、そして棗【なつめ】の核ほどに、ついで棗の果実ほどに、さらには訶梨勒【かりろく】[200]ほどに、それからさらに未熟なパパイヤ、それからついに熟したパパイヤほどになった。それが破裂し、膿【うみ】と血が迸【ほとばし】り出た。それが原因で、彼は亡くなった。修行者コーカーリヤはサーリプッタとモッガラーナとに敵意を抱いていたので、亡くなってからパドゥマ地獄に堕ちた。
その時この世の主ブラフマー神が、夜半を過ぎた頃、麗しい姿をしてジェータ林を隈【くま】なく照らし、ブッダのもとに赴いた。そして師に礼拝し、傍らに立ち、次のように告げた。
「師よ、修行者コーカーリヤは亡くなりました。彼はサーリプッタとモッガラーナとに敵意を抱いていたので、亡くなってからパドゥマ地獄に堕ちました」
こう告げてから、この世の主ブラフマー神が、師に礼拝し、右遶して消え失せた。
夜が明けてから、ブッダは修行者たちにお告げになった。
「修行者たちよ、昨夜この世の主ブラフマー神が、夜半を過ぎた頃、麗しい姿をしてジェータ林を隈なく照らし、私のもとに来た。そして礼拝し、傍らに立って告げた。『師よ、修行者コーカーリヤは亡くなりました。彼はサーリプッタとモッガラーナとに敵意を抱いていたので、亡くなってからパドゥマ地獄に堕ちました』と。そうしてから私に礼拝し、右遶して消え失せた」
ブッダがこのようにお告げになった時、一人の修行者が師に申し上げた。
「師よ、パドゥマ地獄における寿命の長さはどれだけですか」
「修行者よ、パドゥマ地獄における寿命は実に長い。それを何年であるとか、何百年、何千年、何十万年であるとか、数えることはできない」
「師よ、では譬【たと】えで説明していただけますか」
「修行者よ、それはできる。たとえば、ここにコーサラ国の度量衡で二十カーリカ[201]の胡麻の荷、一荷車分があり、それを一人の人が百年に一粒ずつ取り出すとしよう。[202]その方法で、胡麻粒をすべて取り出しても、アッブダ地獄[203]での寿命はまだ尽きていない。アッブダ地獄での寿命の二十倍が、ニラッブダ地獄の寿命に等しい。ニラッブダ地獄での寿命の二十倍が、アババ地獄の寿命に等しい。アババ地獄での寿命の二十倍が、アハハ地獄の寿命に等しい。アハハ地獄での寿命の二十倍が、アタタ地獄の寿命に等しい。アタタ地獄での寿命の二十倍が、クムダ地獄の寿命に等しい。クムダ地獄での寿命の二十倍が、ソガンディカ地獄の寿命に等しい。ソガンディカ地獄での寿命の二十倍が、ウッパラ地獄の寿命に等しい。ウッパラ地獄での寿命の二十倍が、プンダリーカ地獄の寿命に等しい。プンダリーカ地獄での寿命の二十倍が、パドゥマ地獄の寿命に等しい。修行者コーカーリヤはサーリプッタとモッガラーナとに敵意を抱いていたので、亡くなってからこのパドゥマ地獄に堕ちたのである」
師はこうお説きになってから、さらに次のようにお説きになった。
657
「人は生まれてから、口の中に斧が生える。その斧で自分を斬り裂く。
658
非難すべき人を褒め、褒めるべき人を非難する者、彼は口で禍【わざわい】を招き、福徳を手にすることがない。
659
賭博で財産をなくし、すべてを失う者の不運は些細なものである。だが立派な聖者に悪意を抱く者の不運は甚大なものである。
660
聖者に悪意を抱き、悪口を言う者は、ニラッブダ地獄十万三十六回と、さらにアッブダ地獄五回分にわたって地獄で苦しむだろう。
661
起こったことを起こらなかったと言う者は地獄に堕ちる。また自分でしておきながら『自分はしませんでした』と言う者も同じである。両者とも卑しい人で、死後同じ運命にあり、地獄に堕ちる。
662
清らかで汚れのない人を誹謗【ひぼう】すると、その罪は自分に降りかかってくる。逆風に塵【ちり】を撒【ま】くと、塵が自分に舞い戻ってくるようなものである。
663
欲望に溺れ、他人を誹【そし】り、信仰心がなく、ケチで、物惜しみし、不親切で、陰口を言い、
664
下品な言葉を使い、不実で、卑しく、生きものを殺し、邪悪で、悪を犯し、下劣な者よ、ここで多くを語るな。そうすれば地獄に堕ちる。
665
塵を撒いて自分を汚し、罪人でありながら善人を誹謗し、数々の悪事を犯す者は、地獄の深みに陥る。
666
いかなる行いの結果も消え失せることはなく、それは行いを行った人に降りかかってくる。愚か者は今世で罪を犯し、来世でその苦しみを味わう。
667
地獄では、鉄の串で突き刺され、鋭い刃で斬られ、鉄の杭で打ち付けられる。灼熱の鉄球を食わされるが、それが犯した罪の結果にふさわしい。
668
地獄の獄卒【ごくそつ】は優しい言葉をかけることなく、助けてはくれない。おまえらを燃え盛る炭火の上にゆっくりと追い立てる。
669
おまえらは網でからめられ、鉄の槌【つち】で打たれる。そして霧のように広がる暗黒の中に放り込まれる。
670
さらに燃え盛る銅製の釜の中に投げ込まれ、その中でぐつぐつと煮られる。
671
また膿と血の混じりあった釜の中で煮詰められ、どちらに逃げようとしても、膿と血に苛【さいな】まれる。
672
また蛆虫の住む水釜の中に放り込まれ、煮詰められる。釜は半球状で縁がなく、外に逃げ出すことはできない。
673
鋭い剣が葉となった木立があり、その中に入ると身体がズタズタに切断される。鉤【かぎ】で舌を摘み出され、引っ張り回され、さんざん叩きのめされる。
674
さらに鋭い剃刀【かみそり】の刃の激流が流れるヴェータラニー川[204]に到る。悪事を犯した者たちは、その川に飛び込まされる。
675
貪欲な黒犬、斑犬【ぶちいぬ】、獰猛【どうもう】なジャッカルが彼らに喰らいつき、鷹やカラスが彼らを啄【ついば】む。
676
罪を犯した者たちが苛まれる地獄は、じつに悲惨である。それゆえに、この世において残りの人生を、ないがしろにしてはいけない。
677
知者によれば、パドゥマ地獄に堕ちた者の滞在期間は、荷車に満載した胡麻粒の数に相当する。[205]すなわち、五ナフタ・コーティ[206]年に加えて千二百コーティ年[207]である。
678
この長いあいだ、地獄で苦しまねばならない。それゆえに、人は清く、温厚で、徳のある人に対しては、言葉と心を慎まなくてはならない」
一一 アシタ仙の甥ナーラカ[208]
679
アシタ仙[209]が日中くつろいでいると、三十三天の神々[210]と立派な衣を纏ったインドラ神が恭【うやうや】しく祝いの吹き流し旗を持ち回って、賛嘆しているのを目にした。
680
喜びに満ちている神々を見て、アシタ仙は恭しく尋ねた。「神々が喜んでいるのはどうしてですか。祝いの吹き流し旗を持ち回っているのはなぜですか」
681
阿修羅との戦いに勝った時でさえ、このように喜ぶことはなかったのに、神々は何をそんなに喜んでいるのですか。
682
叫び、歌い、楽器を奏【かな】で、手を打ち、踊っています。須弥山【しゅみせん】の頂に住う神々よ、私の疑問を晴らしてください」
(神々の答え)
683
「世界の宝である菩薩[211]が、人々の利益のためにシャーキャ国のルンビニーにお生まれになったのです。それで私たちは嬉しく、喜んでいるのです。
684
彼は生きとし生けるものの中で最高であり、雄牛のようで、最上の人間です。彼は『仙人の森』の中で、百獣の王である猛【たけ】きライオン(獅子)が吠える[212]ように、教えを説かれるだろう」
685
アシタ仙はそれを聞いて、急いで駆け下りて来て、スッドーダナ王[213]の宮殿に赴いた。「王子はどこにおられますか。私もお目にかかりたく存じます」
686
そこでシャーキャ族の人々は、王子をアシタ仙に見せた。王子はこの上ない容貌で、溶炉で金工に鍛えられた黄金のように、光り輝いていた。
687
火炎のように輝き、夜空の月のように清らかで、雲のない秋空に輝く太陽のような赤子を見て、アシタ仙は心から喜び、歓喜した。
688
神々は多くの骨があり、千の円輪のある傘蓋【さんがい】[214]をかざし、黄金の柄のついた払子【ほっす】[215]で(赤子を)扇【あお】いだ。しかし、神々の姿は見えなかった。
689
白い傘蓋の下で、赤い毛布に包まれた黄金のような赤子を、結髪のアシタ仙[216]は嬉しくなって、心喜んで、抱き抱えた。
690
観相とヴェーダに長けたアシタ仙は、シャーキャ族の牡牛〔赤子〕を抱き、その相を観察して歓声を上げた。「これは無上のお方だ。人間の中で最高のお方だ」
691
しかしアシタ仙は、自分はこの王子が「目覚めた人」となる前に死ぬことを思って悲しくなり、涙した。彼が泣くのを見て、シャーキャ族の人々は「この王子に、何か障りがあるのでしょうか」と尋ねた。
692
シャーキャ族の人々が憂えているのを見て、アシタ仙は言った。「王子に不吉なことはありません。また障りもないでしょう。この方は凡庸の人ではありませんので、ご安心ください。
693
この王子は最高の『目覚め』を得られるでしょう。もっとも清らかな境地に達し、人々を慈しみ、説法され、その教えと、修行方法は四方にあまねく広まるでしょう。
694
しかし私の余命はいくばくもありません。私はこの方が『目覚め』に到られる前に、死んでしまうでしょう。比類なき方の教えを聴くことができない悲運を嘆いているのです」
695
清らかな修行者は、シャーキャ族の人々に大きな喜びを与えたのち、宮殿から立ち去った。そして、自分の甥であるナーラカに、将来このお方の教えに従うように勧めた。
696
「完全に『目覚めた人』が無上の真理をお説きになっておられると聞いたら、訪ねて行き、教えを乞い、その人のもとで修行せよ」
697
アシタ仙は、この王子が人々のために、最上の清らかな境地に達することを予見し、ナーラカを諭した。ナーラカは、それから功徳を積み、王子が「目覚めた人」となる時を待望しながら、自制して暮らした。
698
アシタ仙の予見通り、「目覚めた人」が教えをお説きになっておられると聞き、ナーラカは師を訪ねて行った。師に会って、信心が湧き起こり、最上の聖者に、最上の清らかな境地について尋ねた。
(以下ナーラカとブッダの対話)
(ナーラカの問い)
699
「アシタ仙のあの予見が当たっていたことがわかりました。それゆえに、いっさいの理を知る『目覚めた人』にお尋ねします。
700
私は出家し、托鉢修行をしています。聖者よ、最高の境地を教えてください」
(ブッダの答え)
701
「私は、あなたに最高の境地を教えよう。これは、実践するのが難く、達成しがたいものである。それをあなたに教えよう。自制し、固い意思を持て。
702
村にあって、罵【ののし】られようとも、讃えられようとも、同じ態度を保て。罵られたら、怒りを抑え、讃えられても、驕ることがないように。
703
森の中にあっても、さまざまなことが起こる。女たちはそなたを誘惑しようとするが、誘惑に負けてはならない。
704
性欲を捨て、官能的快楽を捨て、弱いものであれ、強いものであれ、もろもろの生きものに対して、敵対したり、愛着したりしてはならない。
705
『彼らも私と同じであり、私も彼らと同じである』と思い、彼らを自分と思い、殺【あや】めてはならず、殺めさせてもならない。
706
凡人は欲望、貪り、執着に明け暮れているが、真理を知る人に倣って修行せよ。この世の地獄を超えよ。
707
食事は控えめで、小食で、貪ることなかれ。大食いすることなく、寡欲で、貪欲を捨て、平安の境地にあれ。
708
こうした聖者は、托鉢を終えたならば、林の中に行き、木の根本に坐れ。
709
思慮深く、励み務め、林の中で楽しみ、木の根本での瞑想を楽しめ。
710
夜が明けたら村に行け。食事に招かれても、食べ物を恵まれても、喜んではならない。
711
聖者は村に行っても、慌ただしく振る舞ってはならない。言葉をかけ、食べ物を乞い求めてはならない。
712
よい施しを得ても、施しを得なかったとしても、同様に心を平然と保って、林に戻れ。
713
托鉢に出ても、口が利けない者[217]と思われるようにせよ。施しが少なくても、施者を軽蔑したり、見下げてはならない。
714
私は、実践がやさしいものから、難しいものまで、さまざまな修行方法を教えた。ひとたび彼岸に到れば、再び渡る必要はない。しかし一度の修行で彼岸に到ることはできないので、たえず修行を続けることが必要である。
715
欲望の流れを断ち切った修行者には、迷妄はない。なすべきことはなし終え、なすべきではないことをなさなかった修行者には、汚れがない」
ブッダはさらにおっしゃった。
716
「そなたに聖者の道を説こう。剃刀の刃のように鋭利であれ。舌を上口蓋【うわこうがい】に押さえつけ、食べ物は控えめにせよ。
717
心が不放逸であってはならず、多くのことを考えすぎてもならない。汚れを離れ、ものごとにこだわることなく、清らかな行いを理想とせよ。
718
一人で坐して瞑想することを習慣とし、立派な人に仕えることを学べ。聖者が独りいて楽しめば、十方を照らすことになる。
719
瞑想に励み、官能的欲望を捨てた聖者の名声が広まれば、私の弟子たちは、自らの放逸を一層恥じ、より強い信心を持つだろう。
720
渓谷を流れる渓流と、小川を比べればわかるであろう。渓流は音を立てるが、小川は音を立てず静かに流れる。
721
満ち足っていない者は音を立てるが、満ち足りた者は静かである。愚か者は水が半分入った水瓶のように音をたてるが、聖者は水の満ちた湖のように静かである。
722
修行者は理に適ったことを多く語るが、それは有益で意味のあることである。多くの真実を知っているので、知っていることを多く語るのである。
723
しかし、自ら多くを知りながら自制し、多くを語らない者は、聖者にふさわしい。彼は真の聖者である」
一二 二種の考察
私は次のように聞いた。
ある時ブッダは、サーヴァッティーの東園にあるミガーラ長者の母の宮殿に逗留しておられた。月の十五日のウポーサタ[218]の満月の夜にあたっており、出家修行者たちに囲まれて、屋外におられた。修行者たちが沈黙しているので、ブッダはこう話しかけられた。
①「出家修行者たちよ、他人から『あなた方が、善なる、神聖にして、解脱を得させ、〈目覚め〉に到る道に関する教えを聴くのは何のためか』と問われたらならば、『真理をあるがままに知る二種の考察のためである』と答えねばならない。何を二種と言うかというと、『これが苦しみであり、これが苦しみの原因である』というのが一つの考察であり、『これが苦しみの消滅であり、これが苦しみの消滅に到る道である』というのが、もう一つの考察である。[219]出家修行者たちよ、この二種の考察を正しく理解し、怠らず、励み努め、専念する修行者は、二つの福徳のうちいずれか一つを得るであろう。一つは、この世において、ものごとをありのままに見る叡智〔目覚め〕を得ることである。もう一つは、この世において、いまだ煩悩が残っていても、死後再びこの世に生まれてこないことである。
ブッダはこのようにおっしゃってから、さらに師として次のようにお説きになった。
724
「苦しみを知らず、苦しみの原因を知らず、苦しみの完全な消滅を知らず、苦しみの完全な消滅に到る道[220]を知らない者
725
彼は心の解放を知らず、叡智による解放を知らない。彼は苦しみを消滅させることなく、生と老い[221]を繰り返す。
726
しかし、苦しみを知り、苦しみの原因を知り、苦しみの完全な消滅を知り、苦しみの完全な消滅に到る道を知る者、
727
彼は心の解放を知り、叡智による解放を知る。彼は苦しみの消滅を知り、ふたたび生と老いを繰り返さない」
② 「出家修行者たちよ、もし他人が『この二種類の考察で他の真理をあるがままに知ることができるか』と問われたならば、『できる』と答えねばならない。『苦しみが生起するのは、、所有物(対する執着)によってである』[222]というのが一つの考察であり、『所有がなければ、苦しみが生起することはない』というのが、もう一つの考察である。出家修行者たちよ、この二種の考察を正しく理解し、怠らず、励み努め、専念する出家修行者は、二つの福徳のうちいずれか一つを得るであろう。一つは、この世において、ものごとをありのままに見る叡智を得ることである。もう一つは、この世において、いまだ煩悩が残っていても、死後再びこの世に生まれてこないことである」
ブッダはこう述べられてから、さらにお説きになった。
728
「この世の中には、さまざまな苦しみがあるが、それは所有物に対する執着によって生起する。
所有物を持つ者は、それに執着するので繰り返し苦しみを味わう。それゆえに、このことを明晰に理解して、ものを所有してはならない。所有物が苦しみの原因である、と理解して執着してはならない」
③ 「出家修行者たちよ、もし他人が『この二種類の考察で他の真理をあるがままに知ることができるか』と問われたならば、『できる』と答えねばならない。『苦しみが生起するのは、、無明によってである』というのが一つの考察であり、『無明がなければ、苦しみが生起することはない』というのが、もう一つの考察である。出家修行者たちよ、この二種の考察を正しく理解し、怠らず、励み努め、専念する出家修行者は、二つの福徳のうちいずれか一つを得るであろう。一つは、この世において、ものごとをありのままに見る叡智を得ることである。もう一つは、この世において、いまだ煩悩が残っていても、死後再びこの世に生まれてこないことである」
ブッダはこう述べられてから、さらにお説きになった。
729
「長いあいだ輪廻転生して、生死を繰り返すのは、無明に縁ってである。
730
無明とは大いなる迷妄であり、それゆえに人は輪廻転生する。しかしこれを明晰に理解した者は、もはや生死を繰り返さない」
④ 「出家修行者たちよ、もし他人が『この二種類の考察で他の真理をあるがままに知ることができるか』と問われたならば、『できる』と答えねばならない。『苦しみが生起するのは、意志に縁ってである』というのが一つの考察であり、『意志が消滅すれば、苦しみが生起することはない』というのが、もう一つの考察である。出家修行者たちよ、この二種の考察を正しく理解し、怠らず、励み努め、専念する出家修行者は、二つの福徳のうちいずれか一つを得るであろう。一つは、この世において、ものごとをありのままに見る叡智を得ることである。もう一つは、この世において、いまだ煩悩が残っていても、死後再びこの世に生まれてこないことである」
ブッダはこう述べられてから、さらにお説きになった。
731
「苦しみが生起するのは、意志に縁ってである。意志が消滅すれば、苦しみが生起することはない。
732
苦しみは、意志に縁ってが生起する。この理を知った者は、意志を止める。ものごとをありのままに見れば、苦しみは消滅する。
733
正しく考察した者、正しく理解した者、聖典に通達した者たちは悪魔の呪縛に打ち勝ち、ふたたび生死の世界に戻らない」
⑤ 「出家修行者たちよ、もし他人が『この二種類の考察で他の真理をあるがままに知ることができるか』と問われたならば、『できる』と答えねばならない。『苦しみが生起するのは、認識作用に縁ってである』というのが一つの考察であり、『認識作用が消滅すれば、苦しみが生起することはない』というのが、もう一つの考察である。出家修行者たちよ、この二種の考察を正しく理解し、怠らず、励み努め、専念する出家修行者は、二つの福徳のうちいずれか一つを得るであろう。一つは、この世において、ものごとをありのままに見る叡智を得ることである。もう一つは、この世において、いまだ煩悩が残っていても、死後再びこの世に生まれてこないことである」
ブッダはこう述べられてから、さらにお説きになった。
734
「苦しみが生起するのは、認識作用に縁ってである。認識作用の過程が消滅すれば、苦しみが生起することはない
735
苦しみは、認識作用に縁ってが生起する。この理を知った出家修行者は、認識作用を停止する。ものごとをありのままに見れば、人は平安の境地に到る」
⑥ 「出家修行者たちよ、もし他人が『この二種類の考察で他の真理をあるがままに知ることができるか』と問われたならば、『できる』と答えねばならない。『苦しみが生起するのは、ものごととの接触に縁ってである』というのが一つの考察であり、『ものごととの接触が消滅すれば、苦しみが生起することはない』というのが、もう一つの考察である。出家修行者たちよ、この二種の考察を正しく理解し、怠らず、励み努め、専念する出家修行者は、二つの福徳のうちいずれか一つを得るであろう。一つは、この世において、ものごとをありのままに見る叡智を得ることである。もう一つは、この世において、いまだ煩悩が残っていても、死後再びこの世に生まれてこないことである」
ブッダはこう述べられてから、さらにお説きになった。
736
「ものごととの接触に翻弄され押し流される者は、誤った道を辿る。彼らには束縛から逃れる道はない。
737
しかしものごととの接触の本質を理解すれば、静かに楽しむことができる。ものごととの接触をなくし、欲望をなくした出家修行者は、平安の境地に到る」
⑦ 「出家修行者たちよ、もし他人が『この二種類の考察で他の真理をあるがままに知ることができるか』と問われたならば、『できる』と答えねばならない。『苦しみが生起するのは、ものごとの感受に縁ってである』というのが一つの考察であり、『ものごとの感受が消滅すれば、苦しみが生起することはない』というのが、もう一つの考察である。出家修行者たちよ、この二種の考察を正しく理解し、怠らず、励み努め、専念する出家修行者は、二つの福徳のうちいずれか一つを得るであろう。一つは、この世において、ものごとをありのままに見る叡智を得ることである。もう一つは、この世において、いまだ煩悩が残っていても、死後再びこの世に生まれてこないことである」
ブッダはこう述べられてから、さらにお説きになった。
738
「苦であれ、楽であれ、苦でも楽でもないものであれ、内面的なものであろうと、外面的なものであろうと
739
これらは苦しみであり、虚妄であり、移りゆくものである、と知り、感受したものが滅びゆくことを見極め、その本性を知れ。感受を断ち切り、欲望をなくした出家修行者は、平安の境地に到る」
⑧ 「出家修行者たちよ、もし他人が『この二種類の考察で他の真理をあるがままに知ることができるか』と問われたならば、『できる』と答えねばならない。『苦しみが生起するのは、渇望に縁ってである』というのが一つの考察であり、『渇望が消滅すれば、苦しみが生起することはない』というのが、もう一つの考察である。出家修行者たちよ、この二種の考察を正しく理解し、怠らず、励み努め、専念する出家修行者は、二つの福徳のうちいずれか一つを得るであろう。一つは、この世において、ものごとをありのままに見る叡智を得ることである。もう一つは、この世において、いまだ煩悩が残っていても、死後再びこの世に生まれてこないことである」
ブッダはこう述べられてから、さらにお説きになった。
740
「渇望を道連れとする人は長いあいだ、生まれ変わりを繰り返し、輪廻を超えられない。
741
渇望は苦しみの原因であると知り、渇望を捨てよ。出家修行者はこのことを絶えず念頭に置き、行脚【あんぎゃ】すべきである」
⑨ 「出家修行者たちよ、もし他人が『この二種類の考察で他の真理をあるがままに知ることができるか』と問われたならば、『できる』と答えねばならない。『苦しみが生起するのは、執着に縁ってである』というのが一つの考察であり、『執着が消滅すれば、苦しみが生起することはない』というのが、もう一つの考察である。出家修行者たちよ、この二種の考察を正しく理解し、怠らず、励み努め、専念する出家修行者は、二つの福徳のうちいずれか一つを得るであろう。一つは、この世において、ものごとをありのままに見る叡智を得ることである。
もう一つは、この世において、いまだ煩悩が残っていても、死後再びこの世に生まれてこないことである」
ブッダはこう述べられてから、さらにお説きになった。
742
「人は執着に縁って生まれ、生まれた者は苦しみを味わう。生きている者は死ぬ運命にあり、それによって苦しむ。
743
賢者はものごとを正しく知り、執着をなくすことによって、ふたたびこの世に戻ることはない」
⑩ 「出家修行者たちよ、もし他人が『この二種類の考察で他の真理をあるがままに知ることができるか』と問われたならば、『できる』と答えねばならない。『苦しみが生起するのは、煽動に縁ってである』というのが一つの考察であり、『煽動が消滅すれば、苦しみが生起することはない』というのが、もう一つの考察である。出家修行者たちよ、この二種の考察を正しく理解し、怠らず、励み努め、専念する出家修行者は、二つの福徳のうちいずれか一つを得るであろう。一つは、この世において、ものごとをありのままに見る叡智を得ることである。もう一つは、この世において、いまだ煩悩が残っていても、死後再びこの世に生まれてこないことである」
ブッダはこう述べられてから、さらにお説きになった。
744
「苦しみが生起するのは、煽動に縁ってである。煽動が消滅すれば、苦しみが生起することはない。
745
およそ苦しみが生まれるのは、煽動からである。苦しみが生起するのは、煽動に縁ってである、という理を知りいっさいの煽動を捨てれば、苦しみから解き放たれる。
746
衝動を抑え、心安らかな出家修行者は生死を繰り返す輪廻を超え、再びこの世に戻ることはない」
⑪ 「出家修行者たちよ、もし他人が『この二種類の考察で他の真理をあるがままに知ることができるか』と問われたならば、『できる』と答えねばならない。『苦しみが生起するのは、食糧に縁ってである』というのが一つの考察であり、『食糧が消滅すれば、苦しみが生起することはない』というのが、もう一つの考察である。出家修行者たちよ、この二種の考察を正しく理解し、怠らず、励み努め、専念する出家修行者は、二つの福徳のうちいずれか一つを得るであろう。一つは、この世において、ものごとをありのままに見る叡智を得ることである。もう一つは、この世において、いまだ煩悩が残っていても、死後再びこの世に生まれてこないことである」
ブッダはこう述べられてから、さらにお説きになった。
747
「苦しみが生起するのは、食糧に縁ってである。食糧が消滅すれば、苦しみが生起することはない。
748
苦しみが生起するのは、食糧に縁ってである、という理を知り、あらゆる食糧を熟知し、いかなる食糧にも執着するな。
749
煩悩を完全に断ち、自分の体調を管理し理を深く瞑想する出家修行者は、凡人の内には数えられない聖者である」
⑫ 「出家修行者たちよ、もし他人が『この二種類の考察で他の真理をあるがままに知ることができるか』と問われたならば、『できる』と答えねばならない。『苦しみが生起するのは、動揺に縁ってである』というのが一つの考察であり、『動揺が消滅すれば、苦しみが生起することはない』というのが、もう一つの考察である。出家修行者たちよ、この二種の考察を正しく理解し、怠らず、励み努め、専念する出家修行者は、二つの福徳のうちいずれか一つを得るであろう。一つは、この世において、ものごとをありのままに見る叡智を得ることである。もう一つは、この世において、いまだ煩悩が残っていても、死後再びこの世に生まれてこないことである」
ブッダはこう述べられてから、さらにお説きになった。
750
「苦しみが生起するのは、動揺に縁ってである。動揺が消滅すれば、苦しみが生起することはない。
751
苦しみが生起するのは、動揺に縁ってである、という理を知り出家修行者は動揺することなく、意志をすて、行脚すべきである」
⑬ 「出家修行者たちよ、もし他人が『この二種類の考察で他の真理をあるがままに知ることができるか』と問われたならば、『できる』と答えねばならない。『苦しみが生起するのは、隷属に縁ってである』というのが一つの考察であり、『隷属が消滅すれば、苦しみが生起することはない』というのが、もう一つの考察である。出家修行者たちよ、この二種の考察を正しく理解し、怠らず、励み努め、専念する出家修行者は、二つの福徳のうちいずれか一つを得るであろう。一つは、この世において、ものごとをありのままに見る叡智を得ることである。もう一つは、この世において、いまだ煩悩が残っていても、死後再びこの世に生まれてこないことである」
ブッダはこう述べられてから、さらにお説きになった。
752
「隷属することがない者はたじろがない。隷属し、執着する者は、この世からあの世へとの輪廻を超えられない。
753
隷属には大きな危険があると知り、出家修行者は、このことをつねに念頭におき、隷属することなく、執着することなく、行脚すべきである」
⑭ 「出家修行者たちよ、もし他人が『この二種類の考察で他の真理をあるがままに知ることができるか』と問われたならば、『できる』と答えねばならない。『物質的次元よりも、精神的次元の方が安らかである』というのが一つの考察であり、『精神的次元よりも、精神的活動の消滅〔ニルヴァーナ〕の方が安らかである』というのが、もう一つの考察である。出家修行者たちよ、この二種の考察を正しく理解し、怠らず、励み努め、専念する出家修行者は、二つの福徳のうちいずれか一つを得るであろう。一つは、この世において、ものごとをありのままに見る叡智を得ることである。もう一つは、この世において、いまだ煩悩が残っていても、死後再びこの世に生まれてこないことである」
ブッダはこう述べられてから、さらにこう説かれた。
754
「物質的次元に生きる者も、精神的次元に生きる者も両者の消滅を知らないので、再びこの世に戻ってくる。
755
物質的次元を熟知し、精神的次元にも留まらない者は、その活動の消滅を知り、解脱し死を超える」
⑮ 「出家修行者たちよ、もし他人が『この二種類の考察で他の真理をあるがままに知ることができるか』と問われたならば、『できる』と答えねばならない。『ある人たちが真理と考えるものを、他の人たちは虚妄と考える』というのが一つの考察であり、『ある人たちが虚妄と考えるものを、他の人たちは真理と考える』というのが、もう一つの考察である。出家修行者たちよ、この二種の考察を正しく理解し、怠らず、励み努め、専念する出家修行者は、二つの福徳のうちいずれか一つを得るであろう。一つは、この世において、ものごとをありのままに見る叡智を得ることである。もう一つは、この世において、いまだ煩悩が残っていても、死後再びこの世に生まれてこないことである」
ブッダはこう述べられてから、さらにお説きになった。
756
神々と世の人たちは、永遠の自我があると考え、それに執着し、『これは真理である』と思っている。
757
彼らがそう考えたところで、そうではない。それは虚妄であり、移り去るものである。
758
賢者は、平安の境地は虚妄ではなく、真理であると知る。それゆえに、彼らは快楽を貪ることなく、平安の境地に到る」
⑯ 「出家修行者たちよ、もし他人が『この二種類の考察で他の真理をあるがままに知ることができるか』と問われたならば、『できる』と答えねばならない。『ある人たちが楽と考えるものを、他の人たちは苦と考える』というのが一つの考察であり、『ある人たちが苦と考えるものを、他の人たちは楽と考える』というのが、もう一つの考察である。出家修行者たちよ、この二種の考察を正しく理解し、怠らず、励み努め、専念する出家修行者は、二つの福徳のうちいずれか一つを得るであろう。一つは、この世において、ものごとをありのままに見る叡智を得ることである。もう一つは、この世において、いまだ煩悩が残っていても、死後再びこの世に生まれてこないことである」
ブッダはこう述べられてから、さらにお説きになった。
759
「ある種の形、音、味、匂い、感触、思いなどは好ましく、心地よいと、
760
神々や世の人たちは、一般にそう思っている。しかしそれらが消滅すると、彼らは苦しむ。
761
聖者たちはものごとの消滅を安楽と考えるが、これは世間一般の人の見方とは正反対である。
762
一般の人が安楽と見なすものを、聖者は苦しみと見なす。一般の人が苦しみと見なすものを、聖者は安楽と見なす。愚かで迷妄している人には理解し難いであろろうが、聖者の正しい見方を理解せよ。
763
覆われた人には闇があり、目を閉じた人には暗黒がある。目を開けば光があるように、聖者には全てが明らかである。理【ことわり】を知らない愚か者は、近くにいても、それがわからない。
764
生に執着している者、生の流れ[223]に流されている者悪魔の領域に囚われている者にとっては、理は容易には理解できない。
765
聖者以外には、誰がこの境地を理解できるだろうか。この境地を知れば、煩悩の汚れが取り除かれ、安らかな平安の境地に入るだろう」
ブッダはこのようにお説きになった。それを聞いた出家修行者たちは心からブッダの教えを喜び受けた。この教えが説かれているあいだに、六十人の出家修行者たちは、執着がなくなり、解脱した。
まとめの句
「大きな章」は、出家、悪魔ナムチとの戦い、みごとに説かれたこと、バラモン・スンダリカ・バーラドヴァージャ、青年マーガ、遍歴行者サビヤ、結髪行者セーラ、矢、青年ヴァーセッタ、誹謗者コーカーリヤ、アシタ仙の甥ナーラカ、二種の考察の十二の経で構成される。
「第三 大きな章」了
第四 八詩頌の章[224]
一 欲望
766
官能的快楽を求める人は、それが満たされれば、欲するものを得て、心喜ぶ。
767
官能的快楽を貪り求める人は、快楽が少なくなると、矢に射られたように悩み苦しむ。
768
意識の覚めた状態を保ち、蛇の頭を踏まないように、もろもろの欲望を回避する人は、この世での執着を断ち切る。
769
もろもろの官能的欲望から、田畑、宅地、黄金、牛馬、奴隷、使用人、女性、親類、その他を貪り求めれば、
770
煩悩に圧倒され、災難にみまわれ、壊れた船に水がしみ込むように苦しみが入り込む。
771
それゆえに、注意して欲望を回避せよ。浸水した船の水を汲み出すように、欲望を捨てさり、激流を渡って、彼岸に到れ。
二 洞窟[225]についての八詩頌
772
洞窟にこだわり、多くの煩悩に覆われ、迷妄に溺れている人は、執着を離れることからほど遠い。この世で欲望を捨てさることは、じつに難しい。
773
官能的快楽への欲望に囚われている人は、救いがたく、他人【ひと】は救ってくれない。彼は、過去・未来に思いをめぐらしながら、現前の快楽を貪る。
774
官能的快楽を貪り、それに溺れ、惑わされ、物惜しみし、正しい道から外れながら、「死後どうなるのだろう」と苦悩し悲嘆する。
775
それゆえに、生きているあいだに教えを実践すべし。何であれ、正しくないとわかったことは行ってはならない。人の命は短い、と賢者たちは説いている。
776
私は、この世の人々がもろもろの生存に執着して、恐れ慄【おのの】いているのを目にする。下劣な人は、さまざまな生存に執着しながら、死に向かう。
777
この世の人は自分の所有物に執着して、慄【おのの】いている。涸れた流れでピチピチ跳ねる魚のようである。もろもろの生存に執着することなく、自分の所有物という考えを捨てるべし。
778
賢者は、両極端を離れ[226]、感覚器官の対象を熟知し、貪ることなく、非難されるようなことをせず、見聞することに汚されない。
779
聖者は、感覚の世界を知り尽くし、激流を渡る。聖者は執着に汚されることなく、煩悩の毒矢を抜き取り、励み努め、この世に拘泥することもなくあの世を希求することもない。
三 悪意についての八詩頌
780
悪意を持って語る人もいれば、真実に基づいて語る人もいる。聖者はこうした人たちの論争に関わらないので、心が荒【すさ】むことがない。
781
欲望に溺れ、自分の好みに執着する人は、自分の見解を超えることができない。彼は自分の見解が完璧だと確信し、自分の知っていることだけを語る。
782
他人から尋ねられもされないのに、自分は行いが良く、戒律を守っていると言い張り自分を称賛する人。聖者は彼を下賤な人と見なす。
783
「私は戒律を守っている」と言いふらすことなく、心安らかで、物静かな出家修行者は、どこにいても驕りと煩悩がなく、高貴である、と真理に達した人は言う。
784
誤った考えを抱き、それを纏【まと】い、広める者、彼は自らの利益にこだわり、不安定な基盤に立脚している。
785
教えを受け、それを確信すると、その見解に対する愛着を捨てるのは容易ではない。それゆえに、ある見解を偏重すると、他の意見を退け、自らの偏見の中に閉じこもる。
786
清らかな人は、世の中のさまざまな見解について、どれが正しいかなどといった意見を持たない。偽善と自負心を捨てた人には偏見がないので、そうしたことに関わることがない。
787
偏見を持った人は論争に巻き込まれるが、関与しない人とはどうして論争できようか。彼は、一切の偏見を持たないので、ある意見を採用することもなく、排斥することもない。
四 清浄[227]についての八詩頌
788
清らかで、最高で、病のない人を目にすることで、完全な清浄が得られる。そう考える人は「私は最高なものを知り、清らかなものを目にしているので、清浄に到る」と思い、見聞と知識をあてにする。
789
清浄なものをは見ることによって清浄となり、知識によって苦しみがなくなる、というのであれば、煩悩に囚われている人が、正しい道の実践以外のものによって清浄になる、ということであり、誤った見解である。
790
聖者は、正しい道[228]の実践による以外に、伝聞、戒律、見解によって清浄になるとは説かない。[229] 聖者は、善悪に染まることなく、所有を捨て、もはやこの世で輪廻の原因となることを何も行なわない。
791
枝から枝に飛び移る猿のように、今までのものを捨て、新しいものに乗り移り、動揺している者は執着を超えられない。
792
愚かな人は、思いに従って、さまざまなことを手掛ける。叡智ある人は聖典によって真理を理解し、雑多なことを手掛けない。
793
彼はこの世のもろもろの出来事、見聞、思索に動揺することがない。洞察し、自制している人に、誰が邪念を持たせることができようか。
794
彼は判断を下さず、何かを好むこともなく、「これが最高の清浄だ」と言わない。世間のしがらみに執着することなく、この世の何ものをも望むことがない。
795
聖者は、この世の次元を超えていて、知ること、見ることのいかなるものにも執着しない。欲望に駆られることもなく、無欲であろうとすることもなく、「これが最上だ」と思うこともない。
五 最上についての八詩頌[230]
796
自らの見解が最上であると考え、それに固執する人たちは、それが世界で最高であると見なし、他の見解はすべて劣ったものと見下す。それゆえに、論争が絶えることはない。
797
人は、自分が学んだこと、守ってきたこと、考えたことこそが有益であると主張し、それに固執し、他のものはすべて劣ったものと見下す。
798
他のすべては劣ったものと見下すのは、自分の見解への固執でしかない、と聡明な人は語る。それゆえに、出家修行者は自分が学んだこと、守ってきたことに固執してはならない。
799
知識、戒律、道徳を規準にして、見解を打ち立ててはならない。自分を他人【ひと】と等しいとか、劣っているとか、あるいは優れているとか思ってはならない。[231]
800
すでに得たものを捨てさり、固執せず、知識に頼ってはならない。さまざまな異なった見解のいずれそのままには信じず、いかなる教えも妄信してはならない。
801
両極端に囚われることなく、存在形態に関して、またこの世とあの世のことについて欲するものがない人は、様々な見解の中の一つに固執することがない。
802
この世において学んだこと、考えたことについて、いささかのこだわりもなく、いかなる偏見も持たない行い清き人を、この世でどう呼んだらいいだろう。
803
彼は妄念なく、一つの見解に固執せず、いずれの教義にも属さず、戒律や道徳によって導かれることがない。彼は彼岸に達して、もはや戻ることはない。
六 老い
804
ああ短いかな、人の命よ。百歳に達せずして死に、たとえそれ以上長らえても、ついには老衰のために死ぬ。
805
人は「自分のもの」と見なすものに執着して苦しむ。それはすべてのものは無常であり、移ろうからである。人との離別は避けられない現実であることを知り、出家するがよい。
806
人が「自分のもの」と考えるもの、それは死とともに失われる。私の教えに従う者は、賢明にこの理【ことわり】を知り、「自分のもの」という概念に執着してはならない。
807
夢に見た人も、目が覚めたら、もう会うことはできない。同じように、いかに愛した人でも、死別すれば、もう会うことはできない。
808
「何の、どこそこの誰それ」という名で呼ばれ知られた人も、亡くなれば、ただ名が残るだけである。
809
「自分のもの」として執着するものを貪り求める人には、憂い、悲しみ、物惜しみが絶えない。それゆえに、聖者は所有を捨て、平安を求めて修行する。
810
出家修行者は、人里離れたところに独り住むのであって、世俗の人たちの中に現れるのは相応しくない。
811
聖者はいかなるものにも依りかからず、愛憎の感情を捨てる。水滴が葉に付着しないように、悲しみももの惜しみも彼には染み付かない。
812
水滴が蓮の葉に、水が蓮の花に付着しないように、聖者は見聞きし、学んだことに執着しない。
813
汚れをなくした清らかな人は、学んだこと、考えたことによって清浄が得られるとは考えない。彼は正しい道を実践すること以外の他の何かによって清らかになろうとは思わず、何ごとも欲することも嫌うこともない。
七 メッテーヤ族のティッサ
ティッサが言った。
814
「師よ、性欲に溺れる者が、破滅への道を歩むことを教えてください。師の教えを聞いて、私たちも巷【ちまた】を離れて独りで修行に励みたいと思います」
師がお答えになった。
815
「ティッサ・メッテーヤよ、性欲に溺れる者は、教えを忘れる。そして邪【よこしま】な、卑【いや】しい人となる。
816
最初は独りで修行していた者が性欲に溺れるのは、道から外れた車のようなもので、世間からは卑しい凡夫だと言われる。
817
それまで受けていた名声や評価は失われることになる。そうなることを知り、性欲に溺れないようにせよ。
818
欲望に囚われた者は、哀れにも塞ぎ込む。他人から非難されて、恥じ入ってしまう。
819
他人から責められると、自己弁護のために虚言をする。これは自他ともに傷つける刃【やいば】を用いることであり、非常に危険である。
820
独りで修行していた時には、賢者と崇められていたが、性欲に溺れれば、愚か者のように苦しむ。
821
最初はそうであったが、後にはこうなると知り、賢者は独りで修行に専念せよ。性欲に溺れるようなことがあってはならない。
822
執着を離れ、独り修行することを学べ。これが聖者にとって最高のことである。そうして彼は平安の境地に近づくが、『自分が最高だ』と思ってはならない。
823
聖者は性欲を捨て、激流を渡り終わっている。性欲に執着している者たちは彼を羨望する」
八 遍歴論者パスーラ[232]
824
「あなたたちは、自分たちの教えにのみ清浄があり、他のもろもろの教えには清浄がないと主張する。あなたたちが根拠とするもののみが優れており、各人が、各々の真理と見なすものに固執している。
825
あなたたちは集会で論争し、お互いに非難し合いながら、他者を愚か者と決めつける。各々が、各々の信ずることを主張し合い、『あなたは賢者である』と称賛されたがっている。
826
集会で『あなたは賢者である』との称賛を得るために、気を揉む。しかし、自分の主張が斥けられると、辱【はずかし】められたと怒り、他人の主張の粗探しをする。
827
参加者から自分の主張が劣っていると言われ、審判員から斥けられると、劣った意見の主張者は嘆き悲しみ、『私は敗北した』と不満げに叫ぶ。
828
こうした論争が起こると、勝ったと喜ぶ者と、負けたと悲しむ者が生まれる。論争は称賛と利益のためでしかないなので、論争に加わるべきではない。
829
集会で自分の主張を述べ、それが称賛されると、人は期待していた利益を得て、心が昂【たかぶ】り喜ぶ。
830
心の昂りは悲嘆の原因となる。しかし彼はうぬぼれてから論争する。この理【ことわり】を理解して、論争に加わってはならない。識者は論争によっては清浄は得られないと説く。
831
王に養われてきた戦士は、敵の戦士がいるところに戦いに行くがいい。聖者の間では、敵対者はそもそも存在しない。
832
誰かが『これのみが真理である』と主張するならば、『ここにはあなたの論争相手はいない』と答えろ。
833
しかしパスーラよ、独り修行し、他人の意見に偏見を持たない人は、誰と論争できるだろうか。彼らには、『これが最上である』と固執するものがない。
834
あなたたちは、私と論争しようとさまざまなことを考えながら、やってきた。しかし、汚れを払い落とした人〔ブッダ〕と論争することはできない」
九 バラモン・マーガンディヤ[233]
(ブッダ)
835
「私が「目覚め」を得るために修行していた時、悪魔がタンハー、アラティーとラガーという名前の三人の娘[234]を出現させたが、私は性欲を覚えなかった。糞尿を垂れる[235]女たちに、足で触れようとも思わなかった」
(マーガンディヤ)
836
「もしあなたが、諸王が望む女という宝を望まないのなら、あなたは、どのような見解、態度、戒律、生活、再生を説くのか」
(ブッダ)
837
「私は、さまざまな教義を検討し、考慮した末、私には『私はこれを説く』というものがない。さまざまな教義を検討し、それに囚われることなく、探求するあいだに、私は『内なる安らぎ』を得た」
(マーガンディヤ)
838
「聖者よ、あなたはさまざまな教義に囚われることなく、『内なる安らぎ』を得たとおっしゃいますが、他の賢者たちは、『内なる安らぎ』という理を、どのように説いているのでしょうか」
(ブッダ)
839
「マーガンディヤよ、私は『教義、学問、知識、徳行、請願などによって、清浄は得られない』とも言わないし、『それらがなくても、清浄は得られる』とも言わない。どちらの主張も捨てさり、迷いの世界に固執せず、安らかであること、それが『内なる安らぎ』である」
(マーガンディヤ)
840
「あなたは『清浄は、教義、学問、知識、徳行、請願などによって得られる』とも説かず、同時に『それらがなくても、清浄は得られる』とも説かないが、私はそれはまったく理に適わないと考えます。現に、ある人たちは、『教義によって清浄が得られる』と説いています」
(ブッダ)
841
「マーガンディヤよ、あなたは自分の見解に固執して、混迷してしまっている。あなたは、私が言う『内なる安らぎ』が何かいっさい見当もつかず、私の見解を愚かしいと考えている。
842
同等であるとか、劣っている、優れていると考える人たちは、論争する。同等であるとか、優れている、劣っている、といった考えのない人〔私〕は、そうしたことで動揺しない。
843
そのバラモンは、どうして『私は正しい』と言い、『あなたは誤っている』と言って、誰と論争するのか。『同等である』とか『同等でない』と言わない人〔私〕は、誰と論争することがあるだろうか。
844
出家し、住まいを定めない聖者は村で誰とも親しくならない。官能的快楽を捨て、選【え】り好みをしない修行者は、誰とも論争することはない。
845
龍[236]は、見解に執着せず、論争することなく、独り世間を遍歴する。池に生える、茎に刺のある蓮が、泥水に汚されないように、平安の境地を説く聖者は、貪ることなく、世間の官能的快楽に汚されない。
846
賢者は、自分の見解とか考えを過信することがない。それが彼の人柄である。彼は祭祀や伝承に囚われることなく、固定概念に執着することがない。
847
もろもろの感覚から解き放された人にはしがらみがなく、叡智によって解脱した人には迷いがない。感覚と見解に固執する人は、他人と衝突しながら世間を右往左往する」
一〇 生きているあいだに[237]
(ムリガシラスの問い)
848
「どのような見解を持ち、どのような戒律を守る者が、静謐【せいひつ】の人と呼ばれるのか。ゴータマ(・ブッダ)よ、お訊【き】きします。最上の人について、お教え下さい」
(ブッダの答え)
849
「生きているあいだに妄執を断ち切った者は、過去に引きずられることなく、現在を当てにすることなく、未来を思いわずらうことがない。
850
怒らず、恐れず、自慢せず、悔いることなく、適度に語り、興奮しない聖者は言葉を慎む。
851
彼は未来にこだわらず、過去を嘆かず、現在も感覚器官の対象に執着せず、偏見に陥ることがない。
852
慎ましやかで、偽らず、妬まず、物惜しみせず、傲慢にならず、人から嫌われることをせず、中傷しない。
853
快楽に溺れず、高慢にならず、柔和で、弁舌さわやかで、何ごとも軽信せず、嫌わない。
854
利益のために学ぶのではないので、利益がなかったとしても、怒らない。渇望に駆られて他人と問題を起こすことなく、美食を貪らない。
855
平静で、つねに意識の覚めた状態を保ち、世間において自分は他人と等しいとも、優れているとも、劣っているとも考えず、尊大ぶることがない。
856
他に依存することのない人は、理を知り、自立している。彼は生にも死にも妄執しない。
857
官能的快楽に動揺しない人、私は彼を静謐の人と呼ぶ。彼は執着を超越し、しがらみがない。
858
彼には、子供も、家畜も、田畑も、土地も、得たものも、捨てさったものも、何もない。
859
彼は世間の人や修行者たちからの非難を気にせず、非難されても動揺することがない。
860
彼は貪らず、物惜しみせず、自分は優れているとも、等しいとも、劣っているとも語らない。彼は心乱されることなく、妄想に囚われない。
861
彼は無所有であることを嘆かず、欲望に駆られてもろもろのものを追い求めない。彼は静謐の人と呼ばれる」
一一 闘争[238]
(質問)
862
「闘争、論争、悲しみ、嘆き、物惜しみ、驕り、傲慢、悪口、これらはどこから生起するのですか。どうかそれをご説明ください」[239]
(ブッダ)
863
「闘争、論争、悲しみ、嘆き、物惜しみ、驕り、傲慢、悪口は、愛おしく好ましいものがあることから生起する。物惜しみがある時、闘争と論争が生起し、論争が生起すると悪口が生起する」
(質問)
864
「愛おしいものはどこから生起するのですか。それらに対する貪りはどこから生起するのですか。人が抱く未来に対する望みとその成就は、どこから生起するのですか」
(ブッダ)
865
「世の中の愛おしいもの、それらに対する貪りは、欲望から生起する。人が未来に対して抱く望みとその成就もそうである」
(質問)
866
「この世の中で、欲望はどこから生起するのですか。判断、怒り、虚言、疑念、修行者が語る心のもろもろの状態は、どこから生起するのですか」
(ブッダ)
867
「欲望は、世の中に愛おしいものとそうでないものがあることから生起する。ものごとの生起・消滅を見て、人は判断する。
868
怒り、虚言、疑念は、愛おしいものとそうでないものがあることから生起する。疑惑を持つ人は、叡智の道を学べ」
(質問)
869
「愛おしいものとそうでないものは何に基づいて生起するのですか。何がないと生起しないのですか。生起と消滅とは何ですか。どうしてそうしたことが生起するのかを教えてください」
(ブッダ)
870
「愛おしいものとそうでないものは感覚によって起こる。感覚がなければ、生起しない。生起と消滅に関しても同様であると私は説く」
(質問)
871
「この世で感覚は何から生起するのですか。何がなくなれば、感覚がなくなるのですか。所有はどこから起こるのですか。何がなくなれば、所有がなくなりますか」
(ブッダ)
872
「感覚は個人存在から生起し、所有は欲望から生起する。個人存在がなくなれば、感覚は生起せず、欲望がなくなれば、自分のものという思いはなくなる」
(質問)
873
「人がどのような境地に達したら、個人存在や苦楽が消滅しますか。どのように消滅するのか、私たちはそれが知りたいのです」
(ブッダ)
874
「ものごとを認識せず、誤認せず、認識しないのでもなく、認識するでもなくしないでもない境地[240]に達したならば、彼には個人存在は消滅する。なぜなら、さまざまな個人存在は認識作用から生起するからである」
(質問)
875
「あなたは、私たちの質問にお答えくださいました。
今度は別のことに関して質問します。ある賢者たちは『これこそが人間としての最上の清浄である』と説きますが、他の賢者たちが『そうではない』と説くこともありますか」
(ブッダ)
876
「ある賢者たちは『これこそが人間としての最上の清浄である』と説くが、その中でも長【た】けた者であると自負する人たちは、『すべてのものが消滅して、死後はじめて、人間としての最上の清浄が得られる』と説く。[241]
877
解脱した聖者ブッダは、もろもろの意見には偏りがあると理解し、論争には加わらない。思慮ある賢者は、今世を限りに生を繰り返すことがない」
一二 論争 — 小編[242]
878
「こう理解する人は、真理を知っている」とか、「これを認めない人は、完全な人ではない」とか人は自分の意見に固執してさまざまなことを主張する。
879
彼らはお互いの意見を主張し合い、「論敵は愚か者であり、真理に達していない」と論じる。彼らは全員、自分が真理に達していると主張するが、こうした主張の中で、何が真実であろうか。
880
論敵の主張を認めない者は、愚かで、智慧の劣った者であならば、彼らは自分の意見に固執する者なので、全員愚かで、智慧の劣った者である。
881
自分の見解によって清浄となり[243]、明晰で、聡明で、思慮深い人になるのならば、彼らの見解は等しく完全であるから、智慧の劣った人はいないことになる。
882
愚者たちは、「これが真実である」と主張し合うが、私はそうは主張しない。彼らは自分の見解が正しいと固執し、それを認めない人を愚者と決めつける。
883
ある人が「これが正しく、真実である」と言うものを、他の人は「それは誤っていて、虚妄である」と言う。どうして修行者たちは、同一のことを語り、同意できないのだろう。
884
真理は一つであり、第二のものはない。こう理解した人たちは論争しない。修行者たちは各人が自分の意見を主張するので、異なったことを言い合い、同意できない。
885
賢者と自称する人たちは、どうして異なった真理を説くのだろう。さまざまな異なった真理があるのだろうか。それとも各論者は、自分の考えたことを主張しているだけなのだろうか。
886
世の中にはさまざまな異なった恒久的な真理はないが、人々が誤ってそう思っているだけである。論者たちは、各々の考えを主張して、真実と虚偽という二つのことを語っている。
887
人々は自らの見聞、さまざまな規約や戒律、思索に依拠して、他人を蔑視する。自らの見解に固執し、自己満足している人は、「私の論敵は愚か者で、真理に達していない」と主張する。
888
自分の論敵は愚か者であると考え、自分は真理に達した者であると思う。自らを真理に達した人と考えるから、他人を軽蔑し、そう主張する。
889
偏見に満ち、誤った考えに酔いしれ、自分は優れていて、完璧だと自認する。彼は、人からも自分の意見が受け入れられている、と自分自身で思い込み、自悦している。
890
論敵を劣った者であると主張する人は、彼自身劣った者である。もし自分自身で知識があり賢明であると言えるのなら、修行者の中には愚か者は一人としていないことになる。
891
偏見を持った人たちは、自分の意見に固執するあまり、「私の見解とは異なる意見を説く者は、不浄で不完全である」と主張する。
892
偏見を持った人たちは、自分の見解に頑【かたく】なにこだわり、「私の見解のみが清浄で、他の人たちの見解は不浄である」と主張する。
893
自らの道を堅固に実践している人が、論敵を愚か者と断定できるだろうか。論敵を愚か者であるとか不浄であると見なす人と、人々との間には確執が生じる。
894
自分を基準に判断する人は、他の人たちと敵対し、論争する。すべての判断を捨てた人と、世の人たちの間には確執が生じることがない。
一三 論争 — 長編
(質問)
895
「もし誰かが、自分の見解に固執して、『これのみが真実である』と主張したならば、彼は全員から非難されるでしょうか、それとも称賛されるのでしょうか」
(ブッダの答え)
896
「称賛を受けても、それは些細なものであり、心の安らぎを得られるほどのものではない。論争の結果には非難と称賛の二つしかない。論争をしないことが安らぎの境地である。
897
賢者は、いかなる世間的常識にも与【くみ】することはない。世俗の見聞にこだわらない人が、どうして世の中の見解に関わりあうことがあろうか。
898
戒律こそが最高であり、自制によって人としての清浄が得られると考える者は、戒を受け、それを守る。『この戒を守れば、清浄が得られる』と考え、自らを聖者であると主張する者は、輪廻を繰り返す。
899
戒律を破った者は、勤めを怠ったと思い、恐れ慄【おのの】き、(悔い改めて)清浄を求める。あたかも本隊から外れた隊商が本隊を、道に迷った旅人が家を探し求めるように。
900
戒律や誓願、(宗教的観点からの)善行や悪行を捨てよ。浄・不浄を気にかけなければ、人は心寛【くつろ】ぎ、安らかに生きられる。
901
苦行、見解、思索によって清浄を求める者たちは、生から生へと輪廻を続けるだけである。
902
何かを望む者には欲望があり、あれこれ計画する者には恐れがある。しかしこの世での生も死も超えた者には、欲するものも怯えるものも何もない。
903
ある人たちが最高の教義と主張するものを、他の人たちは最低と見下す。どちらの人たちも、自分らこそが賢者であると主張するが、どちらが真理なのだろうか。
904
人々は、自分らの教義こそが優れており、他者の教義は劣っていると主張する。彼らは自らの見解こそが正しいと主張して、論戦をする。
905
もしある教義が論敵から非難された時、それは劣っている、というのなら、優れた教義は一つとしてない。人は、自分の教義が優れていると頑【かたく】なに固執し、他人の教義を劣っていると見下す。
906
自らの教義を尊崇するのは、自らの道を褒め称えるのと全く同じである。清浄は彼らだけのものだと確信しているので、彼らの言説はすべて真実ということになるが、そうではない。
907
真のバラモン〔行い清らかな人〕は、他人に影響されたり、他人の教義を剽窃【ひょうせつ】したり、固執したりすることない。他の教えを最高だとも思わないので、論争を超越している。
908
ある人たちは、真理を知り、見ることだけで清浄が得られると考える。しかし知ること、見ることが何に役立つだろうか。正しい道を歩まずに、自分は他の道によって清浄が得られると主張する。
909
『見る』といっても、人は個人存在を見るだけである。見るものが多かろうが少なかろうが、それによっては清浄は得られない、と賢者は説いている。
910
固定概念に固執する人を説得するのは容易ではない。自分の見解だけに依拠し、『清浄はここにしかない』と言い張るからである。
911
真のバラモンは思慮深く、妄想せず、他人の見解も知識もそのままには信じない。一般の人の常識を知り、『そう考えるのなら、そう考えるがいい』と、無関心でいる。
912
聖者は、この世での束縛を知り、論争が起きてもどちら側にも与【くみ】しない。安らぎのない人たちの中にあって、自らは安らぎ、いかなる見解にも無関心である。
913
古いしがらみを断ち、新たなしがらみとなるものを作らず、欲望に駆られず、見解に執着しない。彼はいかなる見解にも属さず、世の中に執着することなく、自責の念に駆られることがない。
914
賢者は、事物、見聞、思索ということに囚われることがなく、
重荷を下ろし、完全に解き放たれ、計らいもなく、自分を制約することもなく、何かを欲することもない」
一四 バラモン・トゥヴァタカ[244]
(トゥヴァタカの質問)
915
「太陽の末裔[245]であるブッダよ、執着を離れることと、平安の境地についてお尋ねします。出家修行者は、ものごとをどのように理解して、この世のものに執着することなく、平安の境地に到るのですか」
(ブッダの答え)
916
「すべての迷いの根源である『私』という概念を捨てよ。内なるすべての欲望をなくすため、たえず心して、自制せよ。
917
内面的なことであれ、外面的なことであれ、理解した教義にも固執するな。賢者はそれを平安の境地とは認めない。
918
それによって、自分は優れている、劣っている、あるいは同等であると思うな。もろもろのことに影響され、自分自身を妄想するなかれ。
919
出家修行者は、自分の内でのみ安らかであれ。自分の外に安らかさを求めてはならない。自分の内に安らかさを見出した者には、得るものはなく、ましてや捨てるものはない。
920
海中深くには波が立たず、静まっているように、心静かに、不動であれ。出家修行者はどこにあっても、心を動揺させてはならない」
(トゥヴァタカの質問)
921
「目を開き、自ら経験されたことをお説きになり、(目覚めへの)妨げを除かれるお方よ、修行、戒律、瞑想についてお教えください」
(ブッダの答え)
922
「目にするものを貪ってはならない。世間話には耳を閉じよ。美味に耽溺してはならない。いかなるものも自分のものと見なして、執着してはならない。
923
不愉快なことがあっても嘆いてはならない。生存を貪り求めてはならない。恐怖の中でもたじろいてはならない。
924
食べ物、飲み物、食料品、衣類を得ても、蓄えてはならない。またそれらが得られなくても、動揺してはならない。
925
出家修行者は瞑想者であり、出歩き回らず、後悔するような行いを避けよ。気を緩めることなく、雑音がなく静かなところに坐し、就眠せよ。
926
寝過ぎることなく、努めて目覚めているべきである。怠惰、偽善、談笑、遊戯、性交、着飾りは、これをなしてはならない。
927
『アタルヴァ・ヴェーダ』[246]の呪法、夢占い、動物の鳴き声占い、懐妊術、医術を行なってはならない。
928
非難されて気落ちしたり、称賛されて驕ったりすることがあってはならない。貪欲、物惜しみ、怒り、中傷を謹むべきである。
929
売買に従事したり、何事に対しても誹謗してはならない。村人と慣れ親しんだり、利益を得るために話しかけたりしてはならない。
930
自慢話や下心がある話をしてはならない。傲慢であってはならず、言い争ってはならない。
931
虚言を吐いたり、意図的な裏切り行為をしてはならない。生活様式、知識、行動、戒律の遵守に関して、他人を軽蔑してはならない。
932
他の修行者や村人たちから挑発されても、粗野な言葉で答えてはならない。賢者は仕返しをしない。
933
出家修行者はこの理を理解し、つねに注意を払って自らを修養すべきである。欲望の消滅が『平安の境地』であると知り、ゴータマ・ブッダの教えを忘れてはならない。
934
打ち負かされずに打ち勝った者は、伝聞によってではなく、自ら実践してダンマの正しさを証明した。それゆえに、『目覚めた人』の教えを絶えず念頭におき、尊崇し、実践すべきである」
一五 暴力[247]
935
争う者たちを見よ。武器を手にすれば恐怖が生じる。私の経験した衝撃を語ろう。
936
水が少なくなった池で飛び跳ねる魚のように、人々が怯【おび】え慄【おのの】き、争うのを見て、私は戦慄【せんりつ】を覚えた。
937
世界はどこも不確かで、いずこも揺れ動いている。私は自分の依るべき住まいを求めたが、どこにも見つからなかった。
938
人々が論争し対立するのを見て、私は嫌気がさした。私は人の心が、目には見えない煩悩の矢に射貫かれているのを見た。
939
この矢に射貫かれた者は、四方八方にのたうちまわる。この矢を抜き取れば、のたうちまわることもなく、輪廻の中に沈まない。
940
世間におけるもろもろの束縛の絆に囚われてはならない。もろもろの官能的快楽の本質を見極め、自らの平安の境地を目指して修養せよ。
941
誠実で、傲慢にならず、偽らず、中傷せず、怒ることなく、邪【よこしま】な貪欲と、物惜しみとを超えよ。
942
平安の境地を目指す者は、眠気、ものぐさ、塞ぎ込みに打ち勝ち、怠たらず、物惜しみせず、高慢な態度をとってはいけない。
943
嘘をつかず、姿形【すがたかたち】にこだわらず、慢心をなくし、粗暴にふるまってはいけない。
944
古いものを愛でず、新しいものに魅惑されず、滅びゆくものを悲しまず、欲望の対象に囚われてはならない。
945
私は貪欲さを、洪水、激流と呼ぶ。官能的快楽は、渡りがたい欲望の泥沼である。
946
理に従い、行い清き聖者は、堅固な陸地に立っている。すべてを捨てさった人は、静謐の人と呼ばれる。
947
彼は理を知り、他に依りすがることがない。彼は世間において正しくふるまい、誰をも羨むとがない。
948
世間におけるもろもろの官能的快楽を超え、克服しがたい執着を超えた人は、流れを渡り切り、束縛されず、悲しむことなく、憂うこともない。
949
過去のものを捨て、未来には何もないようにし、中間〔現在〕においても、何ものにも執着しなければ、あなたは静謐の人となるだろう。
950
何かを「自分のもの」と思うことがない人、何かがないからと嘆くことがない人、彼は世の中にあって、悲しむことがない。
951
「自分のもの」、「他人【ひと】のもの」という区別がない人、彼には「自分のもの」という概念がないので、何かがないからと悲しむことがない。
952
「動じない人の美点は何か」と問われれば、「荒々しさなく、貪欲さがなく、渇望もなく、すべてに平等であること」と私は答える。
953
渇望なく、叡智ある人は(善悪の相対的次元の)いかなる行いもなさない。彼は、あくせくすることなく、いかなる場合も平穏である。
954
聖者は、自分と等しい、 自分より優れている、あるいは劣っている者たちの中にいるとは言わない。彼は、平穏で、物惜しみせず、ものごとを取捨しない。
一六 長老サーリプッタ
(サーリプッタの問い)
955
「私はいまだかつて見たことも、聞いたこともない、言説麗しく、人類の導き手たる師がトゥシタ天[248]からこの世に降下された。
956
『眼ある人』は、神々や我々の世界の(無知の)暗闇を取り除き、独りで平安を楽しんでおられる。
957
私は、束縛されたこの世の多くの者たちのために、執着なく、尊崇に値し、偽ることのない『目覚めた人』にお尋ねにまいりました。
958
出家修行者は、この世を厭い、人里離れた樹の下、墓場、山中の洞窟や、
959
さまざまな場所に独居しますが、そこにあるさまざまな実に恐ろしいことで、恐怖に震い上がることはないのでしょうか。
960
人が寄り付かないところに独居する出家修行者は、どんな苦難を克服しないとならないのでしょうか。
961
出家修行者は、どのような言葉使いをし、どのように行動すべきでしょうか。どんな徳行をし、どんな戒律を守るのでしょうか。
962
いかなる修行においても、落ち着いて、注意深く、励み努めたら、鍛冶工が銀の不純物を取り除くように、自らの汚れをなくすことができますか」
(ブッダの答え)
963
「サーリプッタよ、私自身が体験して知り得た[249]、俗世を厭う者にとっての喜びを説こう。それは、人里離れたところに独居し、目覚めを求めて、教えを実践することである。
964
注意深く、弁【わきまえ】のある賢明な出家修行者は、次の五つの危険を恐れてはならない。虻【あぶ】、蚊【か】、蛇、盗賊などの人間、そして四足獣の襲撃。
965
他の異なった教義を修行する者たちからのいかなる危害をも恐れてはならない。善を追求し、他のもろもろの危険にも打ち勝て。
966
出家して住まいを持ない者は、病、飢え、寒さ、暑さに苦しんでも、堅固な意志を持ち、目的のために励み努めよ。
967
盗みを働かず、嘘をつかず、強いものでも弱いものでも、すべての生きものを慈愛せよ。心に錯乱が生じた時には、『これは悪魔の一党だ』と思って追い払え。
968
怒りと傲慢に支配されることなく、それらの根源を断て。快・不快に心乱されることなく、それらを超越せよ。
969
叡智を優先し、善を喜び、障害を乗り越えよ。人里離れたところでの生活の不便さに耐え、つぎの四つの事柄を気にかけてはならない。
970
『何を食べようか』、『どこで食べようか』、『昨夜は寝心地が悪かった』とか『今夜はどこで寝ようか』。出家修行者は、こうしたことで想い悩んではいけない。
971
托鉢で得た食べ物と衣類で十分に満足せよ。衣食に関してこだわらず、村でつつましく生活し、挑発されても、粗野な言葉を発してはならない。
972
歩く時は眼差しを下に向け[250]、ふらふらうろつき回らず、瞑想に励み、目覚めの状態を保て。平静を保ち、瞑想しながら、後悔と願望を断ち切れ。
973
口頭で詰問されても、意識の覚めた状態を保って、感謝せよ。修行仲間に対する邪念を断ち切れ。時宜【じぎ】にふさわしい言葉を発し、人々から非難されるような言葉を使ってはならない。
974
世間には五種類の塵垢【ちりあか】がある。すなわち、五つの感覚器官の対象である色と形、音、匂い、味、感触に対する執着である。それらを取り除くために、意識の覚めた状態を保って修行せよ。
975
意識の覚めた状態を保ち、心が解放された出家修行者は、これらに対する執着を捨てよ。理を注意深く、正しく考察し、無知の暗闇を消滅させよ。
まとめの句
「八詩頌の章」は、欲望、洞窟についての八詩頌、悪意についての八詩頌、清浄についての八詩頌、最上についての八詩頌、老い、メッテーヤ族のティッサ、遍歴論者パスーラ、バラモン・マーガンディヤ、生きているあいだに、闘争、論争—小編、論争—長編、バラモン・トゥヴァタカ、暴力、長老サーリプッタの十六の経で構成される。
「第四 八詩頌の章」了
第五 彼岸に到る道の章[251]
一 序
976
無所有の境地を目指し、ヴェーダ聖典に通暁したバラモン・バーヴァリが、コーサラ国の美しい街から南方に旅立った。
977
バーヴァリはアラカの近郊のアッサカというところで、ゴーダーヴァリー川[252]の岸辺に住まい、落穂と木の実で生活していた。
978
近くに大きな村落があり、そこから得た巨大な財で大きな祭祀を行った。
979
大きな祭祀を終えた後、彼は庵に戻った。そこに一人のバラモンが訪れてきた。
980
足は傷つき、喉は渇き、歯は汚れ、頭は埃だらけで、バーヴァリに硬貨五〇〇枚を乞うた。
981
バーヴァリは訪問者を招き入れ、坐るように勧めた。「ご機嫌いかがですか、健勝でいらっしゃいますか」と尋ねた後、こう言った。
982
「私は布施するものは、すべて布施してしまいました。バラモンよ、お許しください。私には五百枚もの硬貨はありません」
983
「私が乞うているものをくれないのなら、七日後お前の頭は七つに裂けてしまうだろう」
984
似非【えせ】バラモンは、大袈裟な演技をして、このような恐ろしい呪詛【じゅそ】の言葉を発した。
それを聞いて、バーヴァリは悩み苦しんだ。
985
彼は憂いの矢に刺され、食べ物も口を通らず、憔悴【しょうすい】した。こうした心境では瞑想も楽しめなかった。
986
彼が恐れ、悩み苦しむのを見て、彼のためを思って女神が近寄り、こう述べた。
987
「あのバラモンは頭のことは知らず、財が欲しいだけの似非者【えせもの】です。頭のことも、頭が裂けることも、何も知りません」
988
「ではあなたは、頭のことや頭が裂けることに関してご存知ですか。ご存知なら教えてください」
989
「私も知りません。頭のことや頭が裂けることは『勝者』[253]たちが理解されています」
990
「では、この地上で、誰が頭のことや頭が裂けることを知っているのですか。教えてください」
991
「シャーキャ族の先祖オッカーカ王[254]の末裔で、カピラヴァスツ[255]出身のお方がいらっしゃいます。彼は世界を照らすお方です。
992
バラモンよ、彼はあらゆるものを超越した『目覚めた人』です。超自然的知識と力を具え、すべてを見通す神通眼を具えたお方です。あらゆるものの消滅を知り、煩悩をなくし、完全に解脱したお方です。
993
かの『目覚めた人』、『眼ある人』は世に法をお説きになっています。彼のもとに赴いて、問いなさい。彼なら説明してくださるでしょう」
994
バーヴァリは「目覚めた人」という言葉を聞き、興奮し、憂いは消え、歓喜した。
バーヴァリは喜び、興奮して女神に尋ねた。
995
「世界の守護者はどの国のどの街のどの村におられますか。人類の主たる完全に『目覚めた人』のもとに行き、礼拝しましょう」
996
「叡智があり、賢明で、比類なき『目覚めた人』はコーサラ国の首都サーヴァッティーにおられます。シャーキャ族出身の彼は、修行のさまたげとなるものを払い除いた、人の中の最高のお方であり、頭が裂けるこをご存知です」
997
そこで彼は、ヴェーダ聖典に通暁した門弟たちに言った。
「来【きた】れ、門弟どもよ。私がこれから言うことを聴け。
998
この世に出現することが稀な、完全に『目覚めた人』として令名高きお方が、今この世に出現された。すぐさまサーヴァッティーに赴き、人間の中で最上のお方にお目にかかろう」
(門弟たちの質問)
999
「師バラモンよ、私たちが彼を見た時に、彼が『目覚めた人』であるとどうしてわかるのですか。私たちにはわかりませんので、お教えください」
(バーヴァリの答え)
1000
「ヴェーダ聖典には、偉大な人の身体の三十二の特徴が、順に説明してある。
1001
身体に三十二の特徴を具えた偉大な人には、二種類しかなく、三種はない。
1002
彼が俗世に留まるなら、世界を征服し、力や刀によってではなく、正義で統治するであろう。
1003
彼が俗世を捨て、出家するならば、煩悩の覆いを取りさり、無比の『供養に値する人』、『目覚めた人』となるだろう。
1004
私の出自、姓、(身体的)特徴、聖典、弟子、加えて頭と頭の裂けることについて、口に出さず心の中で問え。
1005
彼が障礙【しょうげ】なく見通す『目覚めた人』であるのなら、心の中で問われたことに、口頭で答えるであろう」
1006
バーヴァリの言葉を聞いたのは、十六名の門弟たち、すなわちアジタ、ティッサ・メッテーヤ、プンナカ、メッタグー、
1007
ドータカ、ウパシーヴァ、ナンダ、へーマカ、トーディヤおよびカッパの両人、賢いジャトゥカンニン、
1008
バドラーヴダ、ウダヤ、ポーサーラ、賢明なモーガラージャ、大仙人ピンギヤであった。
1009
彼ら自身、全員が弟子を統率しており、世間に名が知られていた。過去世に善業を積み、賢明で、瞑想に喜びを見出す瞑想者たちであった。
1010
バーヴァリを敬って右遶【うにょう】して別れを告げ、髪を結い、羚羊【かもしか】の皮を纏って北方に出発した。
1011
まずはアラカ国のパティッターナ、次いで古都マーヒサッティー、ウッジェーニー[256]、ゴーナッダー、ヴェーディサー、そしてヴァナサ、
1012
さらにコーサンビー[257]、サーケータを経て、都市の中の都市サーヴァッティー[258]に、そこからセータヴィヤ、カピラヴァスツ、クシナガラ[259]を過ぎ、
1013
バーヴァ、ボーガ、ヴェーサーリー[260]を経て、マガダ国の首都ラージャガハに到着し、壮麗なパーサーナカ塔廟に到った。
1014
喉が渇いた人が冷たい水を、商人が利益を、暑さに苦しむ人が木陰を求めるように、彼らは急いでブッダがおられる山に登った。
1015
その時ブッダは、出家修行者たちに囲まれ、あたかも獅子が森の中で吼【ほ】えるように、弟子たちに説法されていた。
1016
アジタには、完全に「目覚めた人」が、光を放つ太陽、輝く十五夜の満月のように見えた。
1017
「目覚めた人」の身体に、偉大な人の特徴が具わっているのを見て喜び、彼の傍らに立って心の中で質【ただ】した。
1018
「バーヴァリの生年、姓と身体的特徴、通暁している聖典、弟子の数を述べてください」
(ブッダの答え)
1019
「彼は百二十歳で、姓はバーヴァリ、身体には三つの特徴があり、三ヴェーダ聖典に通暁している。
1020
身体の特徴、伝承、語彙と儀軌について、五百人の弟子を教え、自らの教義を極めている」
(声に出されない質問)
1021
「渇愛を断った、人の中で最高のお方よ、私たちに疑惑が残らないように、バーヴァリの身体的特徴を詳しく述べてください」
(ブッダの答え)
1022
「彼は舌で顔を覆い尽くすことができ、眉毛の間に一本の毛[261]が生えており、陰茎は身体の中に埋もれている。門弟たちよ、彼にはこうした三つの身体的特徴があると知れ」
1023
質されることなく、ブッダがこうしてお答えになったことに、誰もが感激し、合掌し、次のように思った。
1024
「いかなる神が、心の中で質問されたのだろうか。ブラフマー神かそれともスジャー妃の夫インドラ神か。ブッダは誰に答えられたのだろうか」
(アジタの質問)
1025
「師バーヴァリは、頭のことと、頭が裂けることに関してもお質しになりました。ブッダよ、私たちの疑念を晴らしてください」
(ブッダの答え)
1026
「頭とは無明のことである。頭を割り裂くとは、確信、意識の集中、意識の覚めた状態、決意、努力によって、真理に目覚めることである」
1027
そこで門弟は大いに感激し、喜んで、被っていた羚羊の皮を左肩に掛け[262]、ブッダの足元に跪【ひざまず】いて、頭をつけて礼拝した。
(アジタの言葉)
1028
「師よ、バラモン・バーヴァリは、門弟とともに、歓喜し、悦楽し、あなたの足元に礼拝します。『眼ある方』よ」
(ブッダの言葉)
1029
「バラモン・バーヴァリも、門弟たちも、ともに楽しくあれ。青年バラモンたちよ、長生きであれ。
1030
バーヴァリも、そなたらも、誰でも質問しても構わない。何であれ構わないから、心にあることを質問するがよい[263]」
1031
「目覚めた人」に許されたので、アジタは合掌して坐って、最初の質問者となった。
二 バラモンの門弟アジタの質問
(アジタの質問)
1032
「何が世界を覆っているのですか。世界はなぜ輝かないのですか。何が人をして世界にしがみ付かせるのですか。何が世界の大きな恐怖ですか」
(ブッダの答え)
1033
「アジタよ、世界は無明【むみょう】によって覆われている。世界は欲望と放逸のために輝きを失う。執着が人をして世界にしがみ付かせる。苦悩が世界の大きな恐怖である」
(アジタの質問)
1034
「煩悩の流れはいたるところに流れています。煩悩の流れを防ぐのは何ですか。煩悩の流れから身を守るものは何ですか。煩悩の流れを堰【せ】き止めるものは何ですか。
(ブッダの答え)
1035
「世界のいたるところに流れている煩悩の流れを防ぐのは意識の覚めた状態である。意識の覚めた状態が我々の身を煩悩の流れから守ってくれる。煩悩の流れを堰き止めるものは叡智である。
(アジタの質問)
1036
「叡智と意識の覚めた状態とおっしゃいました。では個人存在は、どうしたら消滅しますか。師よ、私の質問にお答えください」
(ブッダの答え)
1037
「アジタよ、あなたの質問に答えよう。あなたは、個人存在はどうしたら消滅か、と質問した。個人存在の消滅するのは、認識作用の消滅によってである」[264]
(アジタの質問)
1038
「世界には、完璧に真理を理解した人たちもいれば、熱心に修行中の者たちも大勢いますが、彼らはどのように行動すべきですか、ブッダよ、私の質問にお答えください」
(ブッダの答え)
1039
「出家修行者は、官能的快楽に耽ることなく、心が乱れていてはならない。心のあらゆる状態を知り尽くし、よく気をつけて修行すべきである」
三 バラモンの門弟メッテーヤ族のティッサの質問
(ティッサの質問)
1040
「この世で満足している人は誰ですか。動揺しない人は誰ですか。両極端[265]を知りつつも、中間に執着しない人は誰ですか。あなたが『偉大なる人』と呼ぶのは誰ですか。この世で縫い子[266]を超えた人は誰ですか」
(ブッダの答え)
1041
「官能的快楽の世界の中にあって、欲望なく清らかに行動し、いつも注意し、考察して、平安の境地を見出した出家修行者は動揺することがない。
1042
両極端を知った上で、中間にも執着しない人、私は、彼を『偉大なる人』と呼ぶ。彼は縫い子を超越している」
四 バラモンの門弟プンナカの質問
(プンナカの質問)
1043
「私は、欲望を消滅させ、その根源を見極められたお方にお尋ねに参りました。この世で、多くの仙人、人々、クシャトリヤ、バラモンたちは、何のために多くの生贄を神々に捧げるのですか。ブッダよ、私の質問にお答えください」[267]
(ブッダの答え)
1044
「プンナカよ、この世の多くの仙人、人々、クシャトリヤ、バラモンたちが、多くの生贄を神々に捧げるのは、老いゆく身でありながらも、今の生存状態の持続[268]を願ってである。
(プンナカの質問)
1045
「この世で怠ることなく熱心に、多くの生贄を神々に捧げる多くの仙人、人々、クシャトリヤ、バラモンたちは、生と老いを超越したのでしょうか。ブッダよ、私の質問にお答えください」
(ブッダの答え)
1046
「プンナカよ、彼らは神々を称賛し、生贄を捧げた。彼らは官能的快楽を渇望し、祭祀への報酬[269]という利益のために行っただけだ。彼らは生贄に専念し、快適な生存を貪り、生と老いを超越していない。
(プンナカの質問)
1047
「生贄に専念した彼らが、それによって生と老いを超越していないのなら、神々と人間の中で誰が生と老いを超越しているのですか。ブッダよ、私の質問にお答えください」
(ブッダの答え)
1048
「プンナカよ、この世の有様をあるがままに洞察し、この世の何ものにも動揺することがなく、安らいで、情欲の煙[270]なく、苦悩なく、欲望のない人、彼は生と老いを超越している」
五 バラモンの門弟メッタグーの質問
(メッタグーの質問)
1049
「知識が豊富で、心を修養されたブッダよ、お教えください。世の中のさまざまな苦しみはどこから生起するのですか」
(ブッダの答え)
1050
「メッタグーよ、そなたは私に苦しみの生起についてら質問した。私が理解したままに答えよう。世の中にはさまざまな苦しみがあるが、すべては所有に対する執着から生起する。
(ブッダの答え)
1051
「無知で愚鈍な者は所有に執着するがゆえに、繰り返し苦悩する。苦しみは所有に対する執着から生起することを知り、執着してはならない」
(メッタグーの質問)
1052
「ブッダは、私の質問にお答えくださいました。もう一つ質問させてください。どのようにして賢者は激流を渡り、生と老いを超え、悲しみと悩みに打ち勝つのでしょうか。あなたは、その理をありのままにご存知なのですから、私に説明してください」
(ブッダの答え)
1053
「メッタグーよ、伝聞によってではなく、自ら体得したことに基づいた理を説こう。[271]その理を理解し、よく気をつけて生活すれば、世間への執着を超えられる」
(メッタグーの言葉)
1054
「偉大なる仙人[272]よ、偉大なる師よ、私はあなたが説いてくださる思考の理を喜んでお受けします。私は、その理を理解し、よく気をつけて遍歴し、世間への執着を超えましょう」
(ブッダの言葉)
1055
「メッタグーよ、世界の上方下方、周辺、真ん中のどこであれ、あなたが知っていることに対する喜び、執着、意識を捨てさり、この生起と消滅の世界に留まるな。
1056
よく気をつけて、怠ることのない出家修行者は、所有に固執することなく、生と老いを超え、悲しみと悩みに打ち勝ち、この世での苦しみを消滅させるがよい」
(メッタグーの言葉)
1057
「偉大なるブッダがお説きになった、所有に固執するなという教えに、私は歓喜します。あなたはこの理を理解され、この世での苦しみを消滅させたお方です。
1058
ブッダよ、あなたがお導きになる人々も、苦しみを消滅させることができるでしょう。龍よ、お目にかかることができて、私はあなたを礼拝します。師よ、どうか私をお導きください」
(ブッダの言葉)
1059
「所有物なく、生にも官能的快楽にも固執しない、ヴェーダ聖典に通暁したバラモン〔行い清き人〕たちは煩悩の激流を渡り、彼岸に達し、解放され、心に疑惑もない。
1060
識者は、さまざまな生存形態に囚われず、情欲を離れ、苦悩なく、願望もなく、生と老いを超えた人である、と私は言う」[273]
六 バラモンの門弟ドータカの質問
(ドータカの言葉)
1061
「師よ、偉大なる仙人よ、次のことを説明してください。私はあなたのお言葉を聴きたいのです。教えを受けたら、私は平安の境地に達すべく修行します」
(ブッダの言葉)
1062
「ドータカよ、それではよく気をつけて、熱心に励み努めよ。私の教えを聴いて、平安の境地に達せよ」
(ドータカの言葉)
1063
「私は神々や人間の世の中で、無一物【むいちもつ】で修行するバラモン〔行い清き人〕を見ます。シャーキャ族出身のあまねく見通すお方よ、私はあなたを礼拝します。私を疑念から解放してください」
(ブッダの言葉)
1064
「ドータカよ、私は世間で疑念を持っている人を誰一人として救えない。私が説く最上の教えを理解すれば、そなたは煩悩の激流を渡るだろう」[274]
(ドータカの言葉)
1065
「バラモン[275]よ、私に慈悲を垂れて、執着から解放される理を教えてください。私はそれが知りたいのです。そして虚空のように動じることなく、この世において心安らぎ、何ものにも頼ることなく修行したいのです」
(ブッダの言葉)
1066
「ドータカよ、伝聞によってではなく、自ら体得した安らぎを説こう。[276]それを理解して、よく気をつけながら生活し、世間に対する執着の激流を渡れ」
(ドータカの言葉)
1067
「偉大なる仙人よ、私はこの最上の安らぎに歓喜します。それをよく理解して、よく気をつけながら生活し、世間に対する執着の激流を渡ります」
(ブッダの言葉)
1068
「ドータカよ、世界の上方下方、周辺、真ん中のどこであれ[277]、あなたが知っているものはすべて、この世間に対する執着であると理解し、いかなる生存にも執着するな」
七 バラモンの門弟ウパシーヴァの質問
(ウパシーヴァの質問)
1069
「シャーキャ族のお方よ、私は、頼るものがなければ、一人で激流を渡ることはできません。あまねく見通されるお方よ、私がこの激流を渡るのに、何が頼りとなるのかをお説きください」
(ブッダの答え)
1070
「ウパシーヴァよ、何も所有せぬよう心がけ、意識の覚めた状態を保ち、『何も存在しない』と思いながら、激流を渡れ。官能的快楽を捨て、疑惑を持つことなく、昼夜渇望の消滅を観想せよ」
(ウパシーヴァの質問)
1071
「あらゆる官能的快楽を捨て、無一物で、すべてを捨てさり、感覚から究極的に解放された人、彼はこの境地に安住し、輪廻に赴くことはないのでしょうか」
(ブッダの答え)
1072
「ウパシーヴァよ、あらゆる官能的快楽を捨て、無一物で、すべてを捨てさり、感覚作用から完全に解放された人、彼はこの境地に安住し、(輪廻に)赴くことはない」
(ウパシーヴァの質問)
1073
「あまねく見通されるお方よ、もし彼が、輪廻に赴くことなく長いあいだこの境地に安住したら、彼は冷たくなって、感覚作用はなくなってしまうのでしょうか」
(ブッダの答え)
1074
「ウパシーヴァよ、炎が風でふき消されてしまったら、もう炎とは見なされない。同じように、そのような聖者は個人存在から解き放されたのであるから、存在するとは見なされない」
(ウパシーヴァの質問)
1075
「亡くなった人は、もはや存在しないのでしょうか、それともそのまま永遠に存在するのでしょうか。あなたは、その理をありのままにご存じなのですから、私にお説きください」
(ブッダの答え)
1076
「ウパシーヴァよ、亡くなった人のことを語る術【すべ】はない。すべての現象は消滅してしまえば、それを語る術も消滅する」[278]
八 バラモンの門弟ナンダの質問
(ナンダの質問)
1077
「世の人々は、この世には聖者が何人もいる、と言いますが、それはどうしてですか。世の人々は、知識ある人を聖者と呼ぶのですか、それとも何か特殊な生活様式を持つ人をそう呼ぶのですか」
(ブッダの答え)
1078
「ナンダよ、賢者は見解、学問、知識のある人を聖者とは呼ばない。私は、人里離れて人と交わることなく、苦悩なく、欲望のない人を聖者と呼ぶ」
(ナンダの質問)
1079
「修行者やバラモンたちは、見解によって、あるいは善行や戒律の厳守、その他もろもろの方法で、清浄が得られると主張します。そうした自制によって、彼らは生と老いを超越したのでしょうか。親愛なる師よ、どうか私の質問にお答えください」
(ブッダの答え)
1080
「修行者やバラモンたちは、見解によって、あるいは善行や戒律の厳守、その他もろもろの方法で、清浄が得られると主張する。しかし私は、そう主張する彼らはそうした方法によっては、生と老いを超越できなない、と言う」[279]
(ナンダの質問)
1081
「修行者やバラモンたちは、見解によって、あるいは善行や戒律の厳守、その他もろもろの方法で自制することで、清浄になれると主張します。もしあなたが、『彼らはいまだ激流を渡っていない』とおっしゃるのでしたら、神々と人の世界で、誰が生と老いを超越しているのですか。親愛なる師よ、どうか私の質問にお答えください」
(ブッダの答え)
1082
「ナンダよ、私は『すべての修行者とバラモンは生と老いに覆われている』と言っているのではない。この世において、見解、善行、戒律の厳守、その他もろもろの方法を捨て、渇望を知り尽くして捨てさり、心の汚れを取り除いた人、私は彼を『激流を渡った人』と呼ぶ」
(ナンダの言葉)
1083
「ゴータマよ、偉大なる仙人のお言葉を聴いて、私は歓喜します。この世での無所有の境地をよく説明してくださいました。この世において、見解、善行、戒律の厳守、その他もろもろの方法を捨て、渇望を知り尽くして捨てさり、心の汚れを取り除いた人、私も彼を『激流を渡った人』と呼びます」
九 バラモンの門弟へーマカの質問
(へーマカの質問)
1084
「かつて、ゴータマ・ブッダ以前に、人々が『過去はこうだった』、『未来はこうなるだろう』と説明していた事柄は、すべて伝承に過ぎません。すべては私の思索を混乱させただけです。
1085
聖者よ、私は満足できませんでした。私に情欲を消滅させる教えをお説きください。それを理解して、意識の覚めた状態を保ちながら、私は世間への執着を断ちます」
(ブッダの答え)
1086
「へーマカよ、この世における見解、思考、感覚にとって心地よいとされるもの、それらに対する執着と貪りを放棄することが、ゆるぎない平安の境地である。
1087
この理を理解し、意識の覚めた状態を保ちながら生活する人は、現世において完全に平安を得た人である。彼はつねに静謐であり、現世において執着を超越した人である」
一〇 バラモンの門弟トーディアの質問
(トーディアの質問)
1088
「官能的欲望がなく、渇望が消滅し、疑念を超越した人、彼にはどのような解脱があるのですか」
(ブッダの答え)
1089
「官能的欲望がなく、渇望が消滅し、疑念を超越した人、彼にはもはやそれ以上の解脱はない」
(トーディアの質問)
1090
「彼にはまだ何かを欲するということがあるのでしょうか、ないのでしょうか。彼には叡智があるのでしょうか、それともさらなる叡智を求めているのでしょうか。シャーキャ族出身の、すべてを見通すお方よ、聖者がどんな人かを認識できるように、私にお教えください」
(ブッダの答え)
1091
「彼には欲望がなく、もはや望むものはない。彼には叡智があり、さらなる叡智を求めていない。トーディアよ、このような人を聖者と認識せよ。彼は無所有で、官能的快楽への執着も、生存への執着もない」
一一 バラモンの門弟カッパの質問
(カッパの質問)
1092
『激流の中にあり、老いと死とに脅かされている我々に、恐ろしい洪水が起きた時、身を守るよすがとなる中洲を教えてください。親愛なる師よ、いままで人々が水に押し流されていったようなことが再び起こらないように、教えてください」
(ブッダの答え)
1093
「カッパよ、激流の中にあり、老いと死とに脅かされている人々に、恐ろしい洪水が起きた時、身を守るよすがとなる中洲を教えよう。
1094
無所有で、無執着であること。これが中洲に他ならない。これが平安の境地、すなわち老いと死の完全な消滅である。
1095
この理を理解し、よく気をつけながら生活する人は、現世において完全に平安を得た人であり、悪魔マーラに支配されることなく、何者にも従属することがない」
一二 バラモンの門弟ジャトゥカンニンの質問
(ジャトゥカンニンの質問)
1096
「私は、官能的快楽に対する欲望がない勇猛なお方がおられると聞き、欲望がなく、激流を渡ったお方、すべてを見通す眼を生まれつき具えたお方に、安らぎの境地に関してお尋ねに参りました。それをあるがままにお説きください。
1097
あたかも太陽がその輝きによって大地に打ち勝つように、ブッダはじつに官能的快楽に対する欲望に打ち勝っておられます。大いなる叡智あるお方よ、叡智のない私に、この世において生と老いを超越することについてお教えください。私はそれが知りたいのです」
(ブッダの答え)
1098
「ジャトゥカンニンよ、欲望からの離脱が安らぎであると知り、官能的快楽への貪りを捨てよ。手に入れるものも、捨てさるものも、何もあってはならない。
1099
過ぎ去ったことにも、これから起こることにも固執するな。今あることにも執着しなければ、心安らかである。
1100
ジャトゥカンニンよ、個人存在に対する貪りが消滅した者は、煩悩がなく、死の領域に入り込まない」
一三 バラモンの門弟バドラーヴダの質問
(バドラーヴダの質問)
1101
「家を捨て、渇望を消滅させ、衝動なく、快楽を捨て、激流を渡り終え、解脱し、計らいごとを止めた賢者、その龍〔ブッダ〕がここにおられると聞けば、大勢の人が集まってくるでしょう。
1102
勇猛なお方よ、多くの人たちが、賢者のお言葉を聴きに、四方からここに集まってきています。彼らのために、あなたが理解された理をお説きください」
(ブッダの答え)
1103
「バドラーヴダよ、世界の上方下方、周辺、真ん中のどこであれ、所有への渇望を捨てよ。世の中の何かに執着するものは、悪魔マーラに付きまとわれる。
1104
出家修行者は、所有への渇望は、人を死の領域に導くことを知らねばならぬこの理をしっかりと理解し、意識の集中状態を保って生活し、世の中の何ものにも執着してはいけない」
一四 バラモンの門弟ウダヤの質問
(ウダヤの質問)
1105
「情欲を消滅させ、なすべきことをなし終え、汚れなく、いっさいの現象の彼岸に達し、坐した瞑想者よ無明を破壊する正しい理解による解脱についてお教えください。
(ブッダの答え)
1106
「ウダヤよ、官能的快楽への執着、怠惰、後悔を止めること、
1107
冷静沈着と意識の覚めた状態による清浄、真理の思索、これらが無明を破壊する正しい理解による解脱である。
(ウダヤの質問)
1108
「世の中の人々は何に束縛されているのですか。何によってさまざまに行動するのですか。何を放棄することによって、平安の境地が得られるのですか」
(ブッダの答え)
1109
「世の中の人々は享楽によって束縛されている。人々は、思惑に駆られて行動する。束縛の消滅が、平安の境地である。
(ウダヤの質問)
1110
「どのように気をつけていたら、感覚作用がなくなりますか。それを質問するために師のもとに来ました。どうか説明してください」
(ブッダの答え)
1111
「内的、外的、いずれの官能的快楽をも求めず、よく気をつけている人、彼の感覚作用は消滅する」
一五 バラモンの門弟ボーサーラの質問
(ボーサーラの質問)
1112
「過去の事柄を知り、衝動もなく、疑念もなく、現象世界の彼方に達したお方よ、私はあなたにお尋ねしたいことがありやってきました。
1113
感覚作用がなく、身体を完全に捨て、内的にも外的にも『何も存在しない』と考察する人、私はその人の叡智を知りたくてきました。彼はどのようにして(さらに)導かれるのですか」
(ブッダの答え)
1114
「意識のすべての段階を知り尽くされた如来は、誰がこの世の中にまだ残る人か、誰が解脱の約束された人か、誰がすでに解脱に達した人かをご存じである。
1115
『何も存在しない』と知る境地にある人は、享楽が束縛であると知り、それを洞察している。修行を完成したバラモン〔行い清き人〕は、それを正しく理解している」
一六 バラモンの門弟モーガラージャの質問
(モーガラージャの質問)
1116
「私はかつてシャーキャ族のお方に二度お尋ねしましたが、『眼ある人』はお答えくださいませんでした。しかし、偉大なる仙人は、三度目にはお答えくださると聞いております。
1117
この世、あの世、神々とブラフマー神の世界に関する著名なゴータマ・ブッダの見解を、私は知りません。
1118
卓越した見解をお持ちのお方に質問するためにやってきました。どのように世界を理解したら、死王の目に止まらない[280]のでしょうか。
(ブッダの答え)
1119
「『世界は空【くう】である』と観じ、よく気をつけながら、自我という概念を破壊せよ。世界をこのように観察する人は、死王の目に止まることなく、死を超越する」
一七 バラモンの門弟ピンギヤの質問
(ピンギヤの質問)
1120
「私は年老い、衰え、顔色も失せ、目もはっきり見えず、耳も遠くなりました。修行の途中で死ぬことがないようにしてください。どうしたらこの世において生と老いを捨てることができますか。その理をお説きください」
(ブッダの答え)
1121
「ピンギヤよ、物質的身体に生まれた者は、放逸ゆえに悩み苦しむ。それゆえにピンギヤよ、放逸であってはならない。物質的的身体を捨て、ふたたび物質的存在に戻るな。
(ピンギヤの質問)
1122
「東西南北の四方、その中間にある四方、上下の十方の世界で、あなたが見聞なさらず、感じず、理解されなかったことは一つもありません。私は、この世において生と老いを捨てることを知りたいのです」
(ブッダの答え)
1123
「ピンギヤよ、人々が情欲によって苦しみ、老いによって悩んでいるのを見て、そなたは怠ることなく、情欲を捨て、迷いの世界に再び生まれないようにせよ」
十八 バラモンの門弟十六人の結び
以上は、かつてブッダがマガダ国の首都ラージャガハのパーサーナカ塔廟に逗留されていた時にお説きになったたものである。バラモン・バーヴァリの門弟十六人の質問に対して、順次お答えになった。もし説かれた教えの一つひとつを理解し、理法に従って実践したならば、老死の彼岸に達するであろう。これらの教えは、修行者を彼岸に達せしめるものだから、この章は「彼岸に到る道の章」と名付けられている。
1124
アジタ、メッテーヤ族のティッサ、プンナカ、メッタグー、ドータカ、ウパシーヴァ、ナンダ、へーマカ、
1125
トーディヤおよびカッパの両人、賢いジャトゥカンニン、バドラーヴダ、ウダヤ、ポーサーラ、賢明なモーガラージャ、大仙人ピンギヤ、
1126
彼ら十六名は、行いの完璧な仙人であるブッダのもとに赴き、「目覚めた人」の中の最上の人に、意味ある質問をした。
1127
彼らの質問に対して、「目覚めた人」はあるがままの真理をお説きになった。聖者からの解答に、バラモン門弟たちは心が満たされた。
1128
彼らは、太陽の末裔である「眼ある人」に満足し、優れた叡智ある人のもとで清らかな修行生活を送った。
1129
「目覚めた人」の説かれた教えを実践する者は、此岸【しがん】から彼岸に渡るであろう。
1130
最上の道を修める者は、此岸から彼岸に渡る。それゆえに、この道は「彼岸に到る道」と名付けられる。
(師バラモン・バーヴァリのもとに戻ったピンギヤの言葉)
1131
「私は、『彼岸に到る道』を唱えよう。汚れなく、叡智の豊かなお方は、自ら理解されたとおりにお説きになりました。
官能的快楽を捨て、欲望のない龍〔ブッダ〕が、どうして偽りを語られることがあろうか。
1132
汚れと迷いを消滅させ、驕りと偽りを捨てさったブッダを、ふさわしい言葉で讃えましょう。
1133
闇を取り除き、すべてをお見通しになるブッダは、世界の果てに達し、いっさいの生存を超越されました。汚れなく、すべての苦しみを消滅させたお方、真にバラモン〔行い清き人〕の名に値するお方。私はその方に仕えます。
1134
あたかも鳥が小さな林を後にして、果実が豊かに実る森に移り住むように、私も,了見の狭い人たちを後にして、白鳥のように大きな湖に着きました。
1135
かつて、ゴータマ・ブッダにお会いする以前に、『過去はこうだった』、『未来はこうなるだろう』と人々が言っていた事柄は、すべて伝承に過ぎませんでした。すべては私の思索を混乱させただけです。
1136
闇を取り除く人は、独り坐し、輝いています。世界を照らす人ゴータマは、大きな叡智と知能のある人です。
1137
彼がお説きになった教え、すなわち渇愛と苦悩の消滅は、検証でき、即座に効果があります。これに並ぶ教えはありません。
(ピンギヤの師バーヴァリの言葉)
1138
「ピンギヤよ、あなたは叡智あるゴータマ、聡明なゴータマから離れて、一瞬たりとも住めるか。
1139
彼は、渇愛と苦悩の消滅という、検証でき、即座に効果があり、他に並ぶものがない教えをお説きになった」
1140
(ピンギヤの答え)
「バラモンよ、私は叡智あるゴータマ、聡明なゴータマから一瞬たりとも離れられません。
1141
彼は即座に実感できる渇望の消滅、煩悩からの解放を教示されました。これに並ぶ教えはありません。
1142
バラモンよ、私は彼を昼夜怠ることなく、眼で見るように心で見、彼を礼拝しながら、夜を過ごします。ですから、彼から離れているという思いがありません。
1143
信仰と、喜びと、心と、想いが、私をゴータマの教えから離れさせません。叡智あるゴータマが赴かれる方向に、私の心はなびきます。
1144
私は年老い、衰弱し、身体はかしこに赴くことはできません。しかしバラモンよ、私は彼に結ばれており、心はたえずかしこに赴きます。
1145
私は汚泥の中でもがきながら、中洲から中洲へと漂いました。そしてついに、激流を渡り切り、完全に『目覚めた人』に出会いました」
(そこに現れたブッダの言葉)
1146
「ヴァッカリやバドラーヴダやアーラヴィ・ゴータマが、私に信心を起こしたように、そなたも信心を起こせ。ピンギヤよ、そなたは死の領域の彼岸に着くだろう」
(ピンギヤの言葉)
1147
「私は聖者のお言葉を聞いて、さらなる信心が湧きました。完全に『目覚めた人』は、煩悩がなく、荒【すさ】んだ心がなく、叡智があり、
1148
神々のことも熟知し、あらゆることを知っておられます。疑いがあり、それを言葉で質問する人に、お答えになります。
1149
何ものにも覆われたり動揺することがない、どこにも並ぶ者がないお方、
私はその方のもとに行きます。ためらいはありません。私の決意の堅いことをお認めください」
「第五 彼岸に到る道の章」了[281]
[1] パーリ語「スッタ」(サンスクリット語では「スートラ」)は漢訳仏典では「修多羅【しゅたら】」、「修妬路【しゅとろ】」などと音写されるが、一般には「経」と意訳される。中国では、仏教が伝わる以前から儒教の典籍を「経【、】書」とよんでいたことから、仏典にも同じ言葉がなんの抵抗もなく当てられたのであろう。ちなみに中国語の「経」もパーリ語「スッタ」も、本来織物の経糸【たていと】を意味していた。パーリ語「ニパータ」は「集成」を意味する。それゆえに『スッタニパータ』は、語義通りに訳せば『経集』となる。△
[2] ブッダのこと。漢訳では「仏陀【ルビ:ぶっだ】」と音写されるが、本書ではインドの原語(パーリ語、サンスクリット語)の漢字による音写用語を用いることは原則として避けたので、「目覚めた人」と訳した。△
[3] この章には、テーマの異なる十二の経、二百二十三の偈が収録されている。(通し番号は1から221であるが、163の後に163aと163bとがあるので、実数は二百二十三となる)冒頭の「蛇の脱皮」のタイトルがそのまま、章全体のタイトルになっている。△
[4] 原文では、「蛇」だけであるが、イメージされているのは蛇そのものではなく、蛇の「脱皮」であり、この経に収録されている偈はすべて、それにことよせたものであるから、こう訳した。△
[5] パーリ語「ビック」。漢訳仏典では「比丘【びく】」と音写される。「食を乞う人」、「托鉢【たくはつ】者」の意味で、仏教では、出家した弟子(いわゆる僧侶)を指しす。本書では原則として「出家修行者」とした。△
[6] 通し番号がつけてあるブッダの言葉は、原則として八音節四句の三十二音節の偈で書かれているが、和訳ではそれを忠実に反映することはできなかった。
[7] 仏教では、煩悩を激流に譬えることが多い。
[8] 苦行主義もしくは快楽主義といった両極端を避け、中庸を保つという意味で、仏教用語としては中道【ちゅうどう】。778、801,1040〜1042偈も同じ。
[9] 後続の三偈(11〜13)は、この偈の「貪欲」が、「愛欲」,「憎悪」(怒りと同義)、「迷妄」(無明【むみょう】と同義)に置き換えられているだけで同文である。10偈の「貪欲」と11偈の「愛欲」は同義語で、この二偈は重複していると言える。それゆえにこの四偈は、人間の苦しみの原因である三つの心的要素(仏教用語では貪瞋癡【とんじんち】の三毒)を断ち切ることの必要性を説いている。74偈参照。
人間の苦しみの原因である三つの心的要素。貪欲【とんよく】(パーリ語「ラーガ」。漢訳仏教用語では「どんよく」ではなく、「とんよく」と読む)は、好きなものを入手し所有しようとする欲望で、怒り(パーリ語「ドーサ」。漢訳仏教用語では「瞋恚【しんい】」)は、嫌なものを憎み排斥しようとする、正反対の欲望である。その両者を引き起こすのが、生存欲ともいえる根源的な欲望、すなわち迷妄【めいもう】(パーリ語「モーハ」。ほぼ同義語として、激しい愛着(パーリ語「タンハー」)、無明【むみょう】(パーリ語「アヴィッジャー」)で、漢訳仏教用語では「愚癡【ぐち】」)と訳される。この根源と、そこから生じる反対方向に作用する二つの欲望、この三者を総称して、貪瞋癡【とんじんち】の三毒という。
[10] パーリ語「キレーサ」。心を錯乱し、汚すもの。「アーサヴァ(汚れ。82偈の注参照)」と同義。心の修養によって煩悩、汚れをなくすことこそが、ブッダの教えの中核である。
[11] 貪り、怒り、眠気、心のざわつき、疑いという五つの修行のさまたげ。
[12] モンスーンの季節の到来を前にした、ガンジス川の支流の一つであるマヒー川の岸辺での牛飼いとブッダの対話。牛飼いは、満ち足りた家族生活を述べ、ブッダは出家生活の精神的充足を語る。
[13] インドでは、雨は自然現象ではなく、雨を司る神が降らせるものと考えられていた。
[14] 続く21偈は、この偈にたいするブッダの答えになっていない。ノーマンは、テクストに二偈分の欠落があると指摘している。一つは、牛飼いダニヤの言葉である20偈に対するブッダの応答であり、もう一つは、ブッダの応答である21偈に先行していたはずの牛飼いダニヤの言葉、おそらく「私は、筏を用意したので、洪水になっても心配ない」といった内容であったと思われる。
[15] 仏教では、苦しみの世界を比岸【しがん】と呼び、煩悩が消滅した世界を彼岸と呼ぶ。「激流を渡る」とは、煩悩を断ち切きって、比岸から彼岸に渡ることを指し、筏はそのためのブッダの教えとその実践の譬【たと】えである。
[16] インド各地に自生するサトウキビ属の一種で、紙や衣類を作るのに用いられるが、日本にはない。学名 Sacharum Munja Roxb で、漢訳では「文若」などと音写される。
[17] 再び生まれ変わることがない、すなわち輪廻を超越した、という意味。
[18] 「(真理を見る)眼を持った人」の意味で、ブッダの尊称の一つ。82偈に続く散文部分の「目ある者」は、目があってものを見ることができる普通の人を指しており、まったく異なる。
[19] パーリ語では「ブラフマ・チャリヤ」。漢訳仏典では「ブラフマ」が「梵【ぼん】」と音写され、「チャリヤー」が「「行【ぎょう】」と意訳され、「梵行【ぼんぎょう】」と呼ばれる。戒律を守り、禁欲し、節制した生活を送ること。
[20] パーリ語「マーラ」は、漢訳仏典では「魔羅【まら】」、「摩羅【まら】と音写される。心を迷わせ、正しい判断を妨げる作用の象徴。
[21] 45偈を除く四十すべての偈が、「犀の一角のようにただ独り歩め」で終わっているので、「犀の角」がタイトルとなっている。インドサイは角が一つであることが特徴で、「犀の一角のように歩む」とは、独立独歩の譬え。小乗では、仲間と一緒に修行する者たちを「部行【ぶぎょう】」、独りで修行する者たちを「麟角喩【りんかくゆ】」の二種類に分ける。この麟角は、中国神話の伝説上の動物である麒麟【きりん】の角のことであるが、古くは麒麟は一角と考えられていたことから、この表現が生まれた。「犀 の一角」の中國版である。
[22] パーリ語「サティ」で、漢訳仏典では「念」と訳される。現在ではマインドフルネスという英語のカタカナ表記で用いられることが多い。これは、身体の活動、感覚、心の動き、思考をはっきりと意識し、気をつけ、注意することである。
[23] この経の中でこの偈だけが、「ただ独り歩め」ではなく、「ともに歩め」となっており、よき友人の重要さを物語っている。続く二偈と58偈ではよき友人が得られなければ、「ただ独りで歩め」となっている点に注意。『ダンマパダ』328偈と類似。
[24] 『ダンマパダ』329偈と類似。
[25] 『ダンマパダ』61、330偈と類似。
[26] 矢は毒矢のことで、初期の仏教テクストでは、煩悩、汚れの譬えとしてよく用いられる。
[27] 立派に成長した象の皮膚には斑点が現れる。それを紅蓮【ぐれん】に譬えて美化している。
[28] ブッダの出身氏族であるシャーキャ族は、太陽から生まれ出たとされる。
[29] 目、耳、鼻、舌、身体の五感を司る器官で、仏教用語では五根。その対象は、色と形、匂い、音、味、感触。
[30] 地上の生きものを傷つけないための遊行【ゆぎょう】者の心得。
[31] 仏教では、五感覚器官に、精神的なことがらを対象とする心を六番目の認識器官として加える。これで「六根清浄」という場合の六根となる。
[32] 黒檀の類。
[33] 修行仲間とか弟子。
[34] 17偈の注参照。
[35] ライオン、風、蓮の形容は、213偈にも用いられている。
[36] 体系化された仏教教学では慈無量心(他人に楽しみを与えること)、悲無量心(他人の苦しみを除くこと)、喜無量心(他人の喜びを妬まず、共に喜ぶこと)、捨無量心(他人に対して好き嫌いによって差別しないこと)の「四無量心」として重要視される。
[37] 10偈の注参照。
[38] バーラドヴァージャという名前は、他にも登場するが、各々別人であろう。
[39] ブッダの言葉は、その死後、さまざまな人たちが、自分が直接聞いた言葉を思い出して語り、それが口頭で読誦された。それゆえに、ほとんどのテクスト(経)は、「私は次のように聞いた」 —漢訳仏典の「如是我聞【にょぜがもん】」— という句で始まる。もっとも古い経典の一つである『スッタニパータ』全体では、この句で始まっているのは十七経だけで、他の経は状況設定などはなく、教えだけが偈の形でまとめてある。
[40] ブッダ在世当時の十六大国の一つで、ガンジス川中流域の東方に位置した最大国。
[41] インドのカースト制での最高のカーストである司祭者階級を指す。しかし、最古層の仏典では、修行を完成した理想の修行者を指す場合もある。本書では、前者は「バラモン」とカタカナ表記し、後者は「行い清き人」「聖者」と訳した場合もある。
[42] パーリ語では「サマナ」。漢訳では沙門と音写。本書では原則として「修養に励む人」と訳した。主にバラモン階級出身者以外の修行者を指す。
[43] パーリ語「サッダー」。仏教でいう信仰とは、一般的な意味での信仰ではなく、ブッダの教えを理解した上での、その正しさへの信頼と言った方がふさわしい。
[44] パーリ語で「アマタ」。「不死」の意。
[45] 81、82偈は、480,481偈と同一。
[46] 暗に当時の司祭階級バラモンが、偈を唱えることで報酬を得ていたことを非難している。
[47] パーリ語「アーサヴァ」。漢訳仏典では「漏【ろ】」と訳される。本来は「流れ出るもの」をさすが、仏教では逆に「流れいるもの」と解釈される。外部から流れ入って、心を散乱させ惑【まど】わせるもの。煩悩(パーリ語「キレーサ」)と同義に用いられる。
[48] こうした対象は、仏教用語では「福田【ふくでん】」といわれる。
[49] ブッダの氏族名。「ことに優れた牛」の意。
[50] ヴィシュヌ神、シヴァ神と並ぶバラモン教の三大神の一つ。漢訳では「梵天」。
[51] パーリ語「タターガタ」で、漢訳仏典では「如来【にょらい】」と訳される。「このように(平安の境地)達した人」「このように(『目覚め』の状態に)ある人」という意味で、ブッダの呼称の一つ。
[52] ブッダが教えを説く前に、多くの場合「耳ある者は聴け」と対で用いられる表現。普通に目があり、ものが見える人のことを指し、ブッダを指す「眼ある人」(31偈)とは異なる。
[53] サンスクリット語では「ダルマ」。漢訳仏典では「達磨」と音写され、「法」と訳される。仏教では、ブッダの教え(仏法)を指すことが多い。しかしその他にも、真理、理法、規範、事物といった意味もある。
[54]「出家修行者の集団」を意味し、漢訳仏典では「僧伽【そうぎゃ】」と音写され、日本語では「僧」一字に縮められる。注意したいのは、日本語での「僧」は一人一人の僧侶を指すが、本来は僧侶の集団を指していることである。それゆえに本来の意味からすると、現在の日本では「僧」はほとんど存在していない。ブッダ〔仏〕、ダンマ〔法〕、サンガ〔僧〕は、仏教ではもっとも尊いものと見なされ、「仏法僧【ぶっぽうそう】の三宝【さんぼう】」と呼ばれる。
[55] この一節は、ブッダの教えを聴き、喜んで仏教徒になることを願い出る時の常套的な表現である。『スッタニパータ』全体では、同様な締めくくりを持つ経が全部で七経ある。この経は、「私は次のように聞いた(如是我聞)」の冒頭からはじまり、ブッダが教えを説いた状況設定、本文であるブッダの教え、締めくくりという三部構成になっており、後世の経典形式の萌芽的・先駆的作品例である。本経冒頭の注39参照。
[56] パーリ語「ブラフマ・チャリヤー」(32偈の注参照)。元来はバラモン教の理想の生活様式であったが、仏教でも採り入れられた。
[57] ブッダ在世時には、「目覚め」は現世で得られるもので、幾人もの弟子がブッダと同じく「目覚めた人」となった。
[58] パーリ語「アラハン」で、漢訳仏典では「阿羅漢【あらかん】」と音写され、「応供【おうぐ】」(「供養・尊敬に値する聖者」の意味)と訳される。ブッダ在世当時は、「如来」などと同じくブッダの別称として同格に用いられていたが、後世ではブッダに次ぐ位に降格された。
[59] すべてブッダを指す。
[60] パーリ語では ニッバーナ(サンスクリット語ではニルヴァーナで、カタカナ表記としてはこの方が一般的である)で、漢訳では「涅槃」と音写される。仏教が目指す最高の境地であり、本書では「平安の境地」と訳した。『スッタニパータ』全体からすると、ブッダ在世の頃は、「平安の境地」は出家修行者に限らず在家者でも、生きているあいだに到達できる目標であったことが窺える。後世になると、ニルヴァーナ(涅槃)は、普通の人では生前には到達できない、まったく縁遠い境地となってしまった。
[61] ブッダ当時の十六大国の一つで、東方のマガダ国と並ぶ大国。ガンジス川の北に位置し、現在のネパールと接するあたりに位置しており、ブッダの出生国シャーキャ国はこの王国に隷属していた。
[62] 漢訳では舍衛城【しゃえいじょう】。
[63] ジェータ林は、コーサラ国のジェータ(漢訳では「祇樹【ぎじゅ】」と音写)王子が所有していた林。 アナータピンダダ(孤独な人たちに食べ物を施す長者。漢訳では給孤独【ぎっこどく】。富豪スダッタ(漢訳では須達【しゅだつ】と音写)の通称)。彼は、ジェータ王子所有の林を購入し、仏教教団に寄進し、そこに僧房(精舎)が建てられた。漢訳では、寄進された林は、元の所有者の名前とと寄進者の名前を合わせて、祇樹給孤独園【ぎじゅぎっこどくおん】(略して祇園【ぎおん】。これが京都の同名の地名の由来)と名付けられた。この僧房が祇園精舎で、ブッダ存命中の最大のもので、『スッタニパータ』にも、ここで説かれたとされる経がもっとも多く、七経ある。
[64] ここでは「バラモン」という言葉が二重の意味で使い分けられていることに留意する必要がある。一般的にはバラモンはカースト制での最上位である司祭者階級を指す。しかし、もう一つの用法では、カーストとは関係なく、「ブラフマ・チャリヤ」(32偈の注参照)すなわち戒律を守り、禁欲し、節制した生活を送る人(本書では「行い清き人」と訳した)を指す。それゆえに司祭者階級が全員「行い清き人」というわけではない。
[65] 漢訳では鎮頭迦【ちんずか】と音写される。インドガキのことで、その果実はビワの実ほど小粒。
[66] インドの四カースト(ヴァルナ)の上から二番目のカーストで、王族、武士階級。最上カーストはバラモン、第三はヴァイシャ(平民)、第四はシュードラ(隷属民)。この四カースト以下で第五のカーストとされみなされたのが、いわゆるアウトカーストで不可触民、賎民扱いされた。不可触民制の除去に努力したマハートマー・ガンディー(一八六九ー一八四八)は彼らを「神の子」と呼んだ。
[67] ブッダはこのこの語をアウトカースト出身の「賎しい者」と、行いが「賎しい者」という二重の意味で用いている。
[68] インドでは、生きものを四種に分類する。胎生、卵生、湿生【しつしょう】、化生【けしょう】。
[69] 98偈もほぼ同趣意である。
[70] パーリ語カンマ(サンスクリット語カルマ)で、漢訳仏教用語では「業【ごう】と訳される。あらゆる行為、そしてそれを動機つける意図と、その結果とを合わせた概念。ただ行為(と意図)だけではなく、結果をも含める点が仏教的概念の特徴である。
[71] バラモン教の聖典。
[72] 136偈からこの偈までの八偈は、生まれではなく、行いを重視したブッダの立場を表明している。生まれによってすべてが決まるインドのカースト制の中にあって、革命的である。650偈参照。
[73] 82偈の後の散文部分と同一。
[74] この経は、「第二 小さな章」の「一、三宝」と「四、こよなき幸せ」と並んで、テーラワーダ仏教ではもっとも重要視され、パリッタ(護呪、お守り)として、幸福を得るとともに、災難などから自分を守る目的で一般に唱えられる。
[75] 29偈参照。
[76] 「雪山に住む者」の意味。
[77] 「七つの山」の意味。
[78] パーリ語 ヤッカ(サンスクリット語「ヤクシャ」 )の漢字音写。森などに住む土着の精霊の一種。
[79] パーリ語「ウポーサタ」で、漢訳仏典では「布薩【ふさつ】」と音写される。インドの伝統的な暦では、月の満ち欠けに従って、一か月が前半の白分(満ちていく局面)と後半の黒分(欠けている局面)に分かれており、各々に一日から十五日まである。ウポーサタは元来、出家修行者が半月ごとの最後の日(十五日)、すなわち白分の最後で満月の日(普通の数え方でも、十五日)と黒分の最後で新月の日(普通の数え方で三十日)とに、戒律の遵守を確かめ合い、犯した場合には、告白し、懺悔する儀式であった。
在家信者の場合、基本的な戒は次の五つである。
(一)不殺生戒【ふせっしょうかい】 生きものを殺したり傷つけない。
(二)不偸盗戒【ふちゅうとうかい】 与えられていないものを盗らない。
(三)不邪婬戒【ふじゃいんかい】 不倫などの不道徳な性行為をしない。
(四)不妄語戒【ふもうごかい】 嘘をつかない。
(五)不飲酒戒【ふおんじゅかい】 アルコール飲料を飲まない。
以上は毎日の生活で守るべき事柄であるが、熱心な在家信者はこれに、
(六)不得過日中食戒【ふとくかじっちゅうじきかい】 昼食後は食事をしない。
(七)不得歌舞作楽塗身香油戒【ふとくかぶさらくとしんこうゆかい】 歌舞音曲を見たり聴いたりせず、装飾品、化粧・香水など身を飾るものを使用しない。
(八)不得坐高広大床戒【ふとくざこうこうだいしょうかい】 地面に敷いたベッドだけを用い、贅沢な寝具や座具でくつろがない。
という三つの戒を加えた八斎戒【はっさいかい】を守る(このとき不邪婬戒は配偶者相手の性交渉も禁じられる)。ただしこの追加の三戒は毎日ではなく、各月の八日、十四日、十五日、二八日、二九日、三十日の六斎日に限られる。400〜403偈参照。
[80] 163a と 163b は他の二偈の対と同じく、ヘーマヴァタとサーターギラとの応答とみなした。
[81] 一般には身口意の三業として並列的に扱われる。ここでは心が重視され、問題とされている。
[82] 目、耳、鼻、舌、身体、意の六種類の感覚器官、知覚作用(仏教用語では「六内処」)。人間には、目、耳、鼻、舌、身体の五つの感覚器官(仏教用語では「五根」)があり、各々が色と形、音、匂い、味、感触を対象とする視覚、
聴覚、嗅覚、味覚、触覚という五感を司る。加えて、概念などの抽象的事柄を対象とする精神的領域の作用を司る心がある。この六種で、人間活動の総体を指す。
[83] 六感覚器官(「六内処」)の対象となるをの対象となる色と形、音、匂い、味、感触、精神的ことがら(法)。仏教用語では六境(「六外処【げしょ】)。
[84] 大海は、激流(21偈)と同じ意味の譬え。
[85] ヴァーラーナシーからガンジス川を遡ったところに位置する。
[86] 77偈の注参照。
[87] 180偈と同一。
[88] 両目の穴、両耳の穴、両鼻の穴、口、排尿生殖道、肛門。
[89] 今世で死なないという意味ではなく、再び死なない、すなわちもはや輪廻しないという意味。
[90] パーリ語・サンスクリット語「ムニ」で、漢訳仏典では、牟尼(たとえば釈迦牟尼)と音写される。理想的な宗教者を指すが、「沈黙の行を修する人」という意味合いがある。
[91] ライオン、風、蓮の行は、元来前後の二行で完結していたものに、修飾のために挿入されたものであろう。71偈参照。
[92] この章には十四経、一八三偈が収録されている。「第七 バラモンにふさわしいこと」と「第十四 信者ダンミカ」を除いては、二十偈以下の比較的短い経であることから。「短い経を集めた章」という意味で、「小さな章」と名づけられているのであろう。続く「第三 大きな章」には長い経が収録されており、経の長短によって分類・集成されていることがわかる。これは、パーリ語大蔵経を構成する五部の内三部が、長い経典は「ディーガ・ニカーヤ(長部)」に、中程度の長さの経典は「マッジマ・ニカーヤ(中部)」に、そして短い経典は「クッダカ・ニカーヤ(小部)」に収録されているのに通じる。
[93] この経は、「第一 蛇の脱皮の章」の「八 慈しみ」と、本章の「四 こよなき幸せ」と並んで、テーラワーダ仏教ではもっとも重要視され、一般に知られ、唱えられる。
原文では、ただ「宝」とあるが、内容からして宝とは仏法僧の三宝のことであるから、経題も、わかりやすく「三宝」とした。ブッダが、もろもろの鬼神に、仏法僧の尊さを説き、それを崇拝するように諭【さと】したもの。
[94] インドでは、真実を述べる言葉には霊力があり、それが正しく発せられると、それを発した人の願い、望みが叶えられると信じられている。ここでは、仏法僧こそが優れた宝であるという、仏教の真実を高らかに宣言することによって、世界の幸せの成就を期している。
[95] この瞑想に入れば、「目覚め」に直結しているので、こう名付けられる。
[96] 預流【よる】、一来【いちらい】、不還【ふげん】、阿羅漢【あらかん】の四つ。
[97] 四つの各々に「向」と「果」の二種がある。
[98] パーリ語でスガタ (漢訳仏典では「善逝【ぜんぜい】」)。ブッダの呼称の一つ。
[99] 227偈の注で説明したように、八種の聖者のうち八番目で最高位の阿羅漢はすでに七回生まれて平安の境地に入っており、さらに生(八番目の生)を受けることはない。
[100] これらは、三結【さんけつ】と呼ばれ、衆生を輪廻に止める束縛。聖者の境地になると、これらはなくなる。
[101] 一般的には地獄,餓鬼、畜生が三悪趣であるが、それに阿修羅【あしゅら】を加えている。
[102] 父を殺す、母を殺す、阿羅漢を殺す、ブッダの身体から血を出す、教団を分裂させる、異教徒の説を受け入れる、の六つ。
[103] 「灯火のように消えゆく」は、平安の境地(ニルヴァーナ)の形容によく用いられる表現。これが、仏教の究極の目標が、虚無であると誤解される要因の一つである。
[104] 以下の三偈は仏法僧の三宝への帰依。
[105] 注釈書によれば、この経は、過去世にブッダ・カッサパ(迦葉仏【かしょうぶつ】)がまだ菩薩であった時に、バラモン・ティッサに教えたものとされる。仏教では、歴史上に実在したゴータマ・ブッダ以前にも六人のブッダが出現したことになっており、ゴータマ・ブッダも含め既に出現したブッダを総称して「過去七仏」と呼ぶ。ブッダ・カッサパは、ゴータマ・ブッダの直前に出現した。
[106] ブッダは一概に肉食を禁じていたわけではないことを物語っている。
[107] すべて、当時行われていた仏教以外の修行を指す。
[108] 原典では「恥」であるが、最初の三偈の内容からこうした。
[109] この経は、第一章「八 慈しみ」と第二章「一 三宝」とともに、お守りとして一般に唱えられる。岩波文庫版の訳者中村元氏によれば、この経は「ブッダの幸福論」である。
[110] 第一章「六 破滅」の冒頭と同一。
[111] 第一章「一〇 夜叉【やしゃ】アーラヴァカ」の冒頭の表現と同一。
[112] ベンガル菩提樹。バンヤン樹とも呼ばれる。イチジクの一種。
[113] この経は、過去世にブッダ・カッサパ(101頁「二 なまぐさ」の注14参照)が入滅した後、出家修行者カピラは邪だったので死後地獄に堕ちたことにちなんで、現在のゴータマ・ブッダが説いた、と伝えられている
[114] この経から、ブッダがバラモン教を熟知していたことが窺える。ブッダがもっとも強く批判したのは祭祀において動物を生贄にすることであった。
[115] 五つの感覚器官による欲望。171偈注参照。
[116] 漢訳では甘蔗【かんしょ】王。インド古代の伝説では、人類の祖とされるマヌの子でシャーキャ族の祖とされる。
[117] ブッダは、バラモン教の祭祀には、元来は人間、動物が生贄にされなかったが、この時点から始まった、と説いていて、興味深い。バラモン教には火に供物を投げ入れて焼き、神々に届けるホーマ祭祀があるが、これは仏教にも採用され、音写されて護摩【ごま】供養となった。しかし生贄に関しては、仏教は一貫して不殺生の原則を貫ぬき、バラモン教とは完全に決別している。
[118] これらはバラモンの五大祭祀。
[119] インド最古の聖典『リグ・ヴェーダ』の最高神で、戦士の姿をとる英雄神。仏教に採り入れられ帝釈天【たいしゃくてん】として護法神の一つとなった。
[120] 神々と戦う敵。
[121] 82偈に続く部分と同一。
[122] ブッダの教えを、人を此岸【しがん】から彼岸へと渡す船に譬えている。
[123] 注釈書によれば、この経は、ブッダがサーリプッタの質問に答えたもの。サーリプッタ(漢訳では「舍利弗【しゃりほつ】」と音写される)は、ブッダの弟子の筆頭格で、智慧第一と称えられた。
[124] ブッダが十六歳で結婚し二十九歳で出家するまでのあいだに、妃ヤショーダラーとの間にもうけた実子。漢訳仏典・日本語では「羅睺羅【らごら】」と音写。のちに父ブッダに帰依し、出家修行者となった。
[125] 弁舌第一といわれた仏弟子。第三 大きな章「三 みごとにとかれたこと」(163頁)にも登場する。
[126] 改まった時の作法。この出で立ちで、尊崇の対象を右側にして、時計回りに三周することを、右遶三匝【うにょうさんぞう】という。
[127] ブッダは「目覚め」に到る前に、五人の仲間と一緒に修行した。それゆえに修行者仲間は六人であり、その中でブッダがもっとも優れていた、という意味。正確には「六人の修行仲間」とあるべきである。
[128] パーリ語・サンスクリット語の「ナーマ・ルーパ」で「意識を宿す有機体」を指す。
[129] 仙人とはブッダを指す。ゴータマ・ブッダ以前に六人のブッダが出現し、ゴータマ・ブッダは第七番目のブッダとされる。歴史上実在したゴータマ・ブッダも含めて「過去七仏」とされる(101頁「二 なまぐさ」の注14も参照)。
[130] インドの伝統では、人生は四時期(学生【がくしょう】期、家住【かじゅう】期、林住【りんじゅう】期、遊行【ゆぎょう】期)に分割されているが、その内最後でもっとも重要とされる遊行・遍歴期の過ごし方に関する教え。
[131] これは、後に「八正道【はっしょうどう】」(正見【しょうけん】 、正思惟【しょうしゆ】、正語【しょうご】、正業【しょうごう】、正命【しょうみょう】、正精進【しょうしょうじん】、正念【しょうねん】、正定【しょうじょう】)として体系化される、ブッダの思想の核心の一つである。
[132] 10偈の注参照。
[133] インドラ神の乗り物。
[134] 四天王の一人で、北方の守護神。多聞天。
[135] 財宝の神で、毘沙門天と同一視された。
[136] ブッダと同時代のマッカリ・ゴーサーラが開設した宗教。
[137] ブッダと同時代のニガンダ・ナータプッタ(一般的にはマハーヴィーラの名で知られる)が開創したとされる宗教。実際にはジャイナ教はもっと古くからあり、彼は開祖ではなく、中興の祖。
[138] 「目覚めた人〔ブッダ〕たち」と複数形で語られている。ブッダは最初は普通名詞であって、固有名詞ではなかった。仏教の開祖であるブッダはこうした「目覚めた人」たちの一人であり、彼を特定するのには、ゴータマ・ブッダとする必要があった。
[139] 227偈の注参照。
[140] この偈から398偈までの五偈は、在家信者の基本的な戒め、すなわち「五戒」である。69〜71頁、注78参照。
[141] 酒に酔ったあまり、他の四戒をも犯す恐れがあるので、不飲酒はもっとも基本的な戒めとされるが、厳格な禁酒ではない。あくまで狂酔させる恐れがあるので、酒を慎むということである。
[142] 153偈の注78参照。
[143] 153偈、注74参照。
[144] 仏教の宇宙観では、世界は下から順に欲界【よくかい】、色界【しきかい】、無色界【むしきかい】の三界【さんがい】に分けられる。最下位の欲界は地獄、餓鬼、畜生、人、天の五趣(あるいは阿修羅を加えて六趣)に分けられるが、この天趣に住む神々。
[145] この章には、十二の経、三百六十一の偈が収録されている。第三経を除いて、すべて二十偈以上の比較的長い経であることから、「長い経」を集めた章という意味で、「大きな章」と名づけられたのであろう。
[146] この経は、出家直後のシッダールタ王子(将来のブッダ)と、マガダ国王ビンビサーラとの出会いを語ったものである。
[147] 63偈に既出。
[148] 出家修行者が乞食するさいに用いる容器は、パーリ語でパートラであるが、これが漢訳では「鉢多羅【はつたら】」と音写され、それが一般化して鉢【はつ】になったと言われる。乞食を托鉢ともいう。
[149] この経は、ブッダが「目覚め」の前、苦行に励んでいた時の話である。
[150] ブッダは出家してから苦行に励んだが、当時はジャイナ教徒のように、断食して死を迎えることを理想とする修行もあった。ブッダはこうした苦行の無意味さを知り、それを捨てた。悪魔ナムチは、ブッダが「目覚め」に到り、人々を教化することになるのを妨げようとした。
[151] ムンジャ草は、28偈、注15参照。古代インドで「ムンジャ草を纏う」とは、降伏しない硬い意志を指す。。
[152] 一般にはブッダは二十九歳で出家して、三十五歳で「目覚め」たとされ、六年間である。ここでは足掛け七年の意味で、両者に矛盾はないと思われる。
[153] バラモンは一般的には剃髪しない。それ故に、剃髪者はバラモンではなく、バラモンが供物を捧げるには値しない。
[154] 『リグ・ヴェーダ』に含まれる太陽神を讃える神聖な詩句で、最上のものと見なされている。
[155] パーリ語「イシ」(サンスクリット語「リシ」)。人里離れた山中などで修行し、呪術などの能力のある人。時としてブッダを「偉大なる仙人」と呼ぶこともある。356、1054、1061、1067、1083偈参照。
[156] 祭祀、生贄に関しては、第五章 「四 バラモンの門弟プンナカの質問」でも論じられている。また303,308,311,312偈も参照。
[157] ブッダは生れ〔カースト〕より行いを重んじた。690偈参照。
[158] この偈と次の偈は、497、498偈と同一である。
[159] インド神話の鬼神で、日蝕・月蝕を起こすとされる。
[160] この480、481偈は81、82偈と同一である。
[161] 82偈の注48参照。
[162] 正式に僧伽の一員となるために守るべきことがら。具足戒【ぐそくかい】と呼ばれる。
[163] 輪廻を超越すること29偈の注も参照。
[164] 82偈に続く散文と同一。
[165] 「鷲の峰」の意味で、漢訳では霊鷲山【りょうじゅせん】。
[166] 直前の491偈とほぼ同文。
[167] 464偈と同一。
[168] 465偈と同一。
[169] 布施をする前は喜び、布施しつつある時は、心を清らかにし、布施が終わったら満足することの意。
[170] 仏典では、六師外道と総称される。
[171] ブッダと同時代の人で、アージーヴィカ教の開祖。381偈参照。
[172] ブッダと同時代の人で、ジャイナ教中興の祖。ニガンダ・ナータプッタ。381偈参照。
[173] 「偉大なる人」の意。
[174] 571偈と同一。
[175] 572偈と同一。
[176] 出家を願う者に課される入門規定。
[177] これらはブッダを指す十種の呼び方。「目覚めた人」(ブッダ)と「完全に目覚めた人」(サミャク・ブッダ)が別個に挙げられているが、本質的な違いはない。仏教用語としては「仏十号」または「如来十号」として知られる。以下、202〜203、220頁にも列挙されている。
[178] 『リグ・ヴェーダ』、『ヤジュル・ヴェーダ』、『サーマ・ヴェーダ』。
[179] これはバラモン教で古来言われていたことで、それを仏教が採り入れ、ブッダの「三十二相」として知られている。
[180] 古代インドにおける、世界を制覇する王の理想像。
[181] 転輪王が所有する七宝で、四方を平定する戦車、空を飛ぶことができる象と馬、遠くまで光を発する宝石、うつくしくて貞節な王妃、財産家、懸命で勇敢な将軍。
[182] 「法輪を回す」とは仏法を説くこと。
[183] 457偈に既出。
[184] 545偈と同一。
[185] 546偈と同一。
[186] 注釈書によれば、この経は、ブッダが、子供を亡くた悲しみのあまり、七日のあいだ何も口にしないでいた在家信者を慰め、その苦しみを除くために説いたもの。
[187] 『ダンマパダ』288偈と類似。
[188] 『ダンマパダ』288偈と類似。
[189] 具体的には、ブッダが話かけている、悲しみにくれる在家信者の亡くなった子供。
[190] 死は、各人の行い(業【ごう】)の結果として訪れるものという、因果【いんが】の法則を指している。
[191] この偈のバラモンは、祭官(バラモン)として生まれているが、「行いの清き人(バラモン)」ではない、という意味。
[192] この偈から647偈までの28偈は、『ダンマパダ』396偈から423偈とほぼ同文。
[193] パーリ語「アマタ」。「灯火のように消えゆく」(235偈)とは一見正反対であるが、この形容も初期仏教では平安の境地(ニルヴァーナ)を指すのに用いられた。
[194] ブッダの呼称の一つ。
[195] 漢訳仏典では、乾闥婆【けんだつば】などと音写される。インド神話で、キンナラ(緊那羅【きんなら】と音写)などと並ぶ天上の伎楽神の一つ。
[196] 死後の転生。すなわち、もはや輪廻しないので、どこに生まれ変わるかといったことは知り得ないことを指す、と解釈した。
[197] 136偈と同趣意。
[198] パーリ語「 パティッチャ・サムッパーダ」(サンスクリット語「プラティートゥヤ・サムットゥパーダ」)「(他のものに)縁【よ】って、起る」という意味で、ものごとの因果関係、相互依存性を指す。『スッタニパータ』の中では、これが唯一の用例であるが、本章 「一二 二種の考察」では、苦しみの生起、消滅がこの理論で論じられている。
[199] 第二章「一二 弟子ヴァンギーサ」の注35(133頁)参照。
[200] ミロバラン。ミラベルの原生種の果実で薬用になり、薬師如来がその枝を手に持っている。
[201] 一カーリカは、一説によれば約二キロリットル。
[202] 天文学的数字を表すのに用いられる譬え。他には、一カルパ(劫【こう】)の長さを表すのに「天女が時折空から降りて来て泉で水浴びをする際、その泉の岩の表面が微かに擦り減っていき、その繰り返しでその岩が無くなってしまうまでの期間」などと言う例がある。
[203] 地獄はパーリ語・ッサンスクリット語で「ニラヤ」、「ナラカ」で、漢訳仏典では泥梨【ねいり】、奈落【ならく】などと音写される。インドの宇宙論では、悪業を犯した者が死後に赴き、報いを受ける苦しみの世界。ここには十列挙されているが、そのうちクムダからパドゥマの五つにはハス(蓮華)の名前が付けられている。仏教では、悪趣(231偈の注10参照)の一つで、八熱地獄・八寒地獄の十六に細分される。ここに列挙されているのは、おおむね八寒地獄に該当する。
[204] 地上界と地下界の間を流れ、この世とあの世を隔つ川。死者はこの川を渡って死者の世界に到る。後の仏教で、地獄に行く死者が渡るとされる川を「三途【さんず】の川」というが、これが起源であろう。
[205] この記述は238頁パドゥマ地獄の寿命年数とは一致しない。ここで意図されているのは、パドゥマ地獄での滞在期間の厳密な年数ではなく、それが天文学的数字でしか表せないほど長いということである。
[206] インドの数字は大きくなると、数え方が一様ではなく錯綜してくる。一つの数え方では、コーティが一千万で、それを一千万倍したのがパコーティ、それをさらに一千万倍したのがコーティ・パコーティ、同様にして次がナフタ、ニッナフタ、そしてアッブダ、ニラッブダに到る。いずれにせよ天文学的数字である。ナフタ・コーティは不明。ナフタを一万として、五万コーティとすれば、五千億となる。中村元氏は五ナフタ・コーティを五千兆年とする。
[207] 一コーティを一千万とすれば、百二十億年である。
[208] この経は、ブッダが誕生した時に、アシタ仙がその将来を予言したもの。ナーラカはアシタ仙の甥で、のちにブッダの弟子となる。
[209] この仙人は、ゴータマ・ブッダ王家の宮廷僧であった。
[210] インドの宇宙観で、宇宙の中央軸である須弥山【しゅみせん】の頂上に位置する三十三天(漢訳では「忉利天【とうりてん】」と音写)の神々のことで、その主がインドラ神である。
[211] パーリ語「ボーディサッタ」、サンスクリット語「ボーディサットゥヴァ」の漢字音写「菩提薩埵【ぼだいさった】」の短縮形。「菩提(悟り)を求める者」の意で、後年ブッダとなる人を指す。
[212] 日本語の「獅子吼【ししく】」は、インドのこの表現に由来する。
[213] 漢訳では浄飯王【じょうぼんおう】で、ゴータマ・シッダールタ王子の父。
[214] 王の象徴。
[215] 馬などの動物の毛を束ねて柄に付け、これを扇いで蚊とか蠅を追い払うもの。
[216] 原文では、「カンハシリ仙」。カンハ(サンスクリット語では「クリシュナ」)もアシタもともに「黒色」を指す。
[217] 原語は「ムニ」。本書では「聖者」と訳しているが、ここでは「沈黙の行を修する人」の意味で用いられている。
[218] 153偈の注参照。
[219] 前者の考察は、結果を生起させる原因を考察すること、後者の考察は、結果の消滅には、原因の消滅が必要なことを考察すること。ブッダはいつもこの二種の考察で、ものごとのありのままの姿を知り、問題を解決した。生起の問題に関しては、第四章 一二 論争ー小編でも論じられている。
[220] 仏教のもっとも中心的な教義である苦諦、集諦【じったい】、滅諦、道諦の四聖諦【ししょうたい】。726偈に繰り返されている。
[221] 「生と老い」というのはあまり用いられない表現であるが、より一般的な「生と死(生死)」と同じく輪廻転生のことを指す。
[222] ②以下⑬まで苦しみの生起の原因として十二項目が挙げられているが、②から⑩までの九項目は用語と順序は微妙に異なるが、十二支縁起の項目(支)にほぼ一致する。ただし、十二項目は列挙してあるだけで、ある項目から次の項目へと繋がる連鎖・連続とは考えられていない。いずれにせよ十二支柱縁起の萌芽的な形であり、興味深い。
[223] 欲望のこと。修行・実践は、その流れに打ち勝ち、下流に押し流されず、むしろ上流に進むことに譬えられる。
[224] この章には十六の経、二百十の偈が収録されている。元来は、詩頌数が八つで構成される短い経だけが集められていたので、そこからこう名付けられたと考えられる。しかし現状では、十六経のうち、八詩頌で構成されているのは経二、三、四、五の四つだけで、他の十二の経の詩頌数は六(経一)から二十一(経十六)とさまざまである。それゆえに、八詩頌の四つの経以外の十二の経は、後から追加されたものと思われ、全体としては詩頌数の少ないものから順に配列されている。パーリ語大蔵経五ニカーヤ(部)の内の「アングッタラ・ニカーヤ(増支部)」でも同様に、経が扱うテーマの項目数(一から十一まで)の順に経が配列されている。この点は、大蔵経の集成過程・方針を考える上で興味深い。また全体で十六の経から構成されているが、この数はインドでは象徴的なもので、「すべて揃った」といった意味合いがある。
[225] 洞窟は、身体の譬え。最初の偈が、この言葉で始まることから、それが章題となっている。
[226] 快楽主義と苦行主義といった偏った態度を離れることで、仏教的には中道を指す。
[227] パーリ語「スッダ」。煩悩が消え去った最上の境地の意味で、平安の境地(ニッバーナ)を指していると思われる。
[228] 八正道を指している。
[229] 見解などによって清浄が得られるかという問題に関しては、881、1080−1083偈参照。ブッダによれば、正しい道(八正道)の実践だけが清浄に到る道である。
[230] 宗教家・思想家の理想像を描いているが、暗に、自らの教義が最高であり、他は劣っているとかたくなに主張する当時支配的であったバラモン教を批判している。
[231] 「等しい、優れている、劣っている」という表現は、855、860、918、954偈にも現れる。
[232] ブッダと論争するために来たバラモン・パスーラ(「勇ましい者」の意)に対してブッダが答えたもの。
[233] かつてブッダがサーヴァッティーに逗留されていた時に、マーガンディヤというバラモンが、盛装させた自分の娘を連れてきて、ブッダの嫁にして欲しいと乞った時の話と伝えられる。
[234] 彼女らの名前は、各々「渇望」、「嫌悪」、「貪欲」を意味する。厳密な対応はないが、貪瞋癡【とんじんち】の三毒を想起させる象徴的なものである。
[235] 汚物を排泄することを指摘することで、娘たちの魅惑的な外見的美しさに興醒めさせるための表現。
[236] 518偈の注参照。
[237] 遍歴修行者ムリガシラスの質問に答えたもの。経題は、849偈の冒頭「生きているあいだに妄執を断ち切った」から採られている。
[238] 質問に対する答えの形でブッダの教えが説かれているが、これは文学的形式上のものに過ぎない。
[239] 以下874偈までは、ものごとの生起と消滅に関するもので、「第三 大きな章」の 「一二 二種の考察」に類似する。因果関係を説く縁起思想の萌芽的なものである。
[240] 体系化された仏教教学で「非想非非想【ひそうひひそう】」すなわち「意識も無意識もない」と称されるものに通じるであろう。こうした思弁的考察は、ブッダその人のものではなく、ブッダが亡くなってから、その後継者による哲学的考察が発展し、教義が体系化されていく過程の論述が反映されていると思われる。第四章は『スッタニパータ』の中でも最古層であることは確かであるが、それでもやはりブッダ没後、かなりの時間が経過してから編纂されたものであり、すべてがブッダ自身の言葉を伝えているものではない。
[241] ブッダは、人として最高の境地である平安の境地は、生きながらにして現世で到達できると主張するが、それは死後にしか到達できないという主張もある。体系化された仏教では、前者を「有余【うよ】(依【え】)涅槃」、後者を「無余【むよ】(依【え】)涅槃」という。
[242] ブッダが生きた時代は、伝統的なバラモン教の権威を認めず、様々な見解を抱く人が出現して、お互いに論争していた百家争鳴の時代であった。この経はそうした時代を反映している。ここで論じられている生起の問題に関しては、第三章 「一二 二種の考察」を参照。
[243] ブッダにとって見解とは、経験によって裏付けされていない思弁的・理論的なものであり、ブッダは、見解によって清浄になる、という主張を否定している。788〜790、1079〜1083偈参照。ブッダは正しい道(八正道)の実践によってしか清浄は得られないという立場である。893偈参照。この経と次の「一三 論争—長編」の趣意は、自ら道を実践し清浄となった人は、思弁的な論争をしない、という点に尽きる。
[244] トゥヴァタカとは「迅速な者」という意味。
[245] 54偈の注参照。
[246] ヴェーダ聖典の一つ。
[247] 暴力に関するものは最初の二偈のみで、残りはすべて経名とは何らの関係がなく、心の汚れを取り除く実践方法に関するものである。
[248] 漢訳仏典では、兜率【とそつ】などと音写されるが、欲界(404偈の注参照)六天において下から四番目である。ブッダは人間界に誕生する前の最後の生を、ここで過ごしたとされる。
[249] ブッダは経験論者で、生涯を通じてすべて自分で経験したことだけを話す人であった。
[250] 63偈の注参照。
[251] 序、十六の経、結びの三部、全百七十四偈から構成される。この章は、ヴェーダ聖典に通暁したバラモンの師バーヴァリの門弟十六名が、ブッダの名声を聞き、バラモン教で問題とされている事柄に関してブッダに質問し、その結果、全員がブッダの答えに感銘を受け、ブッダに帰依した、という筋書きである。門弟の数が十六というのは、「第四 八詩頌の章」の経の数と同じく、象徴的である。バラモン教の祭祀では、主司祭の他に十六名の助司祭が必要とされるので、この経の師バーヴァリとその門弟十六名で、バラモン教全体を指しているのであろう。おそらく、いささかの脚色はあるであろうが、何らかの歴史的事実に基づいていると思われる。当時支配的であったバラモン教の信奉者、修行者たちが、いかにして新興の仏教に改宗していったかを物語る点で興味深い。
[252] インドの西側のアラビア海の海岸から八十キロメートルあたりの地点(現在のムンバイの北東)から、デカン高原を北西から南東方面に横切ってベンガル湾へと注ぐ、インド亜大陸を南北に分かつ全長一四六五メートルの川。ブッダ在世時、この辺りにはブッダの教え広まっていなかったが、その名前だけは届いていたことを物語っており、仏教伝播史の観点から興味深い。
[253] パーリ語・サンスクリット語では「ジナ」で、ブッダの呼称の一つ。
[254] 302偈参照。
[255] シャーキャ国の首都。
[256] ウッジャイニの異綴りか。十六大国の一つで中西インドにあったアヴァンティ国の首都であろう。
[257] 十六大国の一つで中インドにあったヴァッツァ国の首都。
[258] バーヴァリから、ブッダはここに住していると教わったので、ここが彼らの出発時点での目的地であった。おそらく彼らがここに到るまでの長旅のあいだに、ブッダはマガダ国に移っていたのであろう。それゆえ彼らはマガダ国にまで旅を続けたのであろう。
[259] ブッダが亡くなった地。
[260] 十六大国の一つで東インドにあったヴリジ国の首都。
[261] ここでは毛の色は記されていないが、仏教では白い旋毛(白毫【びゃくごう】)である。
[262] 「第二 小さな章」の 「一二 弟子ヴァンギーサ」冒頭の散文部分(132頁)参照。
[263] ブッダは、修行の進歩には、正しく理解して疑いを晴らすことが重要であるから、弟子たちに質問するようにたえず促した。
[264] 個人存在は「意識を宿す有機体」を指すので、認識作用が消滅すれば、これも当然消滅する。
[265] 778偈参照。
[266] 執着を指す。人をこの世に縫い付け、留めるものの譬え。
[267] 生贄、祭祀に関しては、458偈以下でも論じられている。また303,308,311,312偈も参照。
[268] 老いないこと、究極的には、死なないことを指す。
[269] ブッダは、バラモンが報酬を目的として祭祀を行っていることを批判している。81、480偈参照。
[270] 欲望などの譬えとしては火がよく用いられるが、古代インドでは煙も同じく用いられる。
[271] ブッダは伝聞ではなく、自らが実践して体得したことだけを述べた。そして弟子たちにも、ただたんなる知識とか理解だけではなく、実践するように諭した。
[272] ブッダのこと。当時は、ブッダに対して、このほかにもバラモン(行い清き人)とかという称号も用いられていた。
[273] こうした文言からすると、当時にあってはバラモン教徒であれ、仏教徒であれ、修行が完成に達した人たちは、ほぼ共通した境地にあると見なされていたことが窺える。当然のこととして、ブッダは古くから確立されていたヴェーダの伝統で用いられた用語を知っており、バラモン教徒との対話ではそうした用語を用いざるを得なかった。しかしブッダは、それらの用語を換骨奪胎し、新しい意味を込めながら自らの独自の新しい教義を打ち立てていった。これは画期的なことであり、バラモン教から独立した、仏教の確立に到ることになった。
[274] ブッダは一般的な意味での、人を救う救済者ではない。仏教は自らの努力で目的を達成することが原則であることが、明確に表明されている。
[275] ブッダのこと。1054偈文の「仙人」という称号と同じく、この称号も用いられていた。
[276] 1053偈にも同趣意のことが述べられている。
[277] 1055偈と同じ表現。
[278] サムサーラ(輪廻転生)は仏教の中心的教義の一つであると見されており、ブッダ自身もそれに言及している。しかしそれは、当時の全てのインド人が信じていたことで、ブッダはそれを前提に話さざるを得なかったに過ぎない。『スッタニパータ』のようなブッダ自身の言葉を伝えているテクストによる限り、ブッダははサムサーラを肯定も否定もせず、ただそれに言及しているだけであることがわかる。肯定しているかのように見えても、便宜上、いわゆる方便として、話しているだけである。ブッダが問題としたのは、過去でも未来でもなく、この世【、、、】、今【、】をいかに生きるかだけであった。この態度は、「未だ生を知らず、いずくんぞ死を知らん」と述べた孔子の立場に通じるものがある。
[279] 788〜790、881偈参照。
[280] 「死なない」という意味。死王とは、死後の世界を支配する王で、仏教では「閻魔【えんま】」。
[281] この章には、先の四つの章とは異なり「まとめの句」がない。最後に「八回にわたって誦える分量のある聖典のスッタニパータ終る」(中村訳)、「聖典の八誦分の量をもつ経集 終わり」(宮坂訳)という句があるが、意味は不明。


