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ダンマパダ

真理の言葉

Dhammapada

発行情報および著作権表示

この翻訳テキストは、『ダンマパダ ブッダ 真理の言葉』(光文社古典新訳文庫)の訳者である今枝由郎氏から無償提供された原稿をもとに、東洋瞑想アーカイブ編纂委員会が校閲・編集を行ったものです。
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目次

タイトル

発行情報および著作権表示

目次

サマリー

謝辞

イントロダクション

翻訳本文

  • 第一章 対句
  • 第二章 いそしみ
  • 第三章 心
  • 第四章 花にちなんで
  • 第五章 愚者
  • 第六章 賢者
  • 第七章 供養に値する人
  • 第八章 千という数にちなんで
  • 第九章 悪
  • 第十章 暴力
  • 第十一章 老い
  • 第十二章 自己
  • 第十三章 世の中
  • 第十四章 ブッダ
  • 第十五章 幸せ
  • 第十六章 愛しきもの
  • 第十七章 怒り
  • 第十八章 汚れ
  • 第十九章 ことわりに従う人
  • 第二十章 道
  • 第二十一章 さまざまなこと
  • 第二十二章 地獄
  • 第二十三章 象にちなんで
  • 第二十四章 渇望
  • 第二十五章 出家修行者
  • 第二十六章 行い清き人

書誌情報

  • 日本語訳
  • 英訳
  • パーリ語本文
  • 関連文献

サマリー

法句経(ほっくぎょう)、ダンマパダ(巴: Dhammapada)は、仏典の一つで、仏教の教えを短い詩節の形(アフォリズム)で伝えた、韻文のみからなる経典です。「ダンマパダ」とは、パーリ語で「真理・法(巴: dhamma)の言葉(巴: pada)」という意味であり、伝統的漢訳である「法句」とも意味的に符合しています。
漢訳『法句経』の名称は、元々は上座部仏教圏の『ダンマパダ』と同一系統の経典が北伝し、中国仏教にて漢訳された際の伝統的名称ですが、近代以降の『ダンマパダ』の日本語訳(漢訳)名としても(『ダンマパダ』『真理のことば』等と並んで)用いられています。
パーリ語仏典の中では最もポピュラーな経典の一つです。スッタニパータとならび現存経典のうち最古の経典といわれています。かなり古いテクストであるが、釈迦の時代からはかなり隔たった後代に編纂されたものと考えられている。
類似のテキストとしては、『ダンマパダ(法句経)』系統と『ウダーナ(自説経)』系統を掛け合わせ、『相応部』有偈篇、『スッタニパータ』『テーラガーター』に見られる若干の詩句を付け加える形で説一切有部によって編集され、北伝仏教に伝えられた、サンスクリットの経典『ウダーナヴァルガ』(Udānavarga)があります。サンスクリット原典が現存している他、漢訳経典『出曜経』(しゅつようぎょう)等や、チベット語訳もあります。「ウダーナヴァルガ」の意味は、「ウダーナ(無問自説・感興語)ヴァルガ(集まり)」であり、「自説集」といった程度の意味です。

謝辞

この翻訳テキストは、『ダンマパダ ブッダ 真理の言葉』(光文社古典新訳文庫)の訳者である今枝由郎氏からご厚意により無償で提供いただきました。この貴重な原稿をご提供いただきました今枝由郎氏には、心より感謝申し上げます。また、東洋瞑想アーカイブへの収録に際し、許可をいただきました光文社様に対しても、深く感謝の意を表します。

イントロダクション

テキストについて

パーリ語版『ダンマパダ』はパーリ語経典の「小部」に第2経として収録されている。26章に分かれており、423の詩節を収録しています。漢訳としては以下があるが、パーリ語版とは配列や内容にかなりの違いがあります[1]

維祇難等訳『法句経』(大正蔵210)
法炬・法立訳『法句譬喩経』(大正蔵211)[2] - 詩句に因縁譬喩譚を加えたもの。

ガンダーラ語版の断簡の一部分は19世紀末にホータン近辺でデュトルイユ・ド・ランが入手し、別の一部分をロシアのペトロフスキーが入手しました[3][3]。全体の2⁄3にあたる350詩節ほどが残っています[4]。パーリ語本と順序は異なるが、本来はパーリ語本と同様に26章からなっていたらしい[5]。1990年代以降に新たな断簡が発見されました[6]。ほかに、サンスクリットの強い影響を受けたプラークリットで書かれた『Patna Dharmapada』と呼ばれる版があります[7]。また、『マハーヴァストゥ』には『法句経』の「千」と「比丘」の章を引用しています[8]

パーリ語版『ダンマパダ』は、以下の全26章から構成されています。

第1章 - 双(Yamaka-vaggo)
第2章 - 不放逸(Appamāda-vaggo)
第3章 - 心(Citta-vaggo)
第4章 - 花(Puppha-vaggo)
第5章 - 愚者(Bāla-vaggo)
第6章 - 賢者(Paṇḍita-vaggo)
第7章 - 尊者(Arahanta-vaggo)
第8章 - 千(Sahassa-vaggo)
第9章 - 悪(Pāpa-vaggo)
第10章 - 罰(Daṇḍa-vaggo)
第11章 - 老い(Jarā-vaggo)
第12章 - 自己(Atta-vaggo)
第13章 - 世界(Loka-vaggo)
第14章 - ブッダ(Buddha-vaggo)
第15章 - 楽(Sukha-vaggo)
第16章 - 愛(Piya-vaggo)
第17章 - 怒り(Kodha-vaggo)
第18章 - 汚れ(Mala-vaggo))
第19章 - 法行者(Dhammaṭṭha-vaggo)
第20章 - 道(Magga-vaggo)
第21章 - 雑多(Pakiṇṇaka-vaggo)
第22章 - 地獄(Niraya-vaggo)
第23章 - 象(Nāga-vaggo)
第24章 - 渇愛(Taṇhā-vaggo)
第25章 - 比丘(Bhikkhu-vaggo)
第26章 - バラモン(Brāhmaṇa-vaggo)

翻訳について

翻訳にあたって漢訳仏教用語は極力用いず、現代の日常的なことばにすることを第一に心がけました。これは、ブッダが当時の民衆に語りかけるときに、けっして難解なことばを用いずに誰にでもわかるやさしいことばで説いた態度に倣うものです。

凡例

〔〕
バラモン〔司祭者〕:〔〕内の「司祭者」はカタカナ表記した原語パーリ語「バラモン」の訳語。
目覚めた人〔ブッダ〕:〔〕内の「ブッダ」は訳語「目覚めた人」の原語パーリ語。

()
セイロン(現在のスリランカ):()内の「現在のスリランカ」は補注、説明。
とどまることなく(進め):()内の「進め」は訳文をわかりやすくするために補ったもの。

翻訳本文

第一章 対句[9]

1

心はすべてのものごとに先立ち、すべてをつくり出し、すべてを左右する。
よこしまな心から話し、行動する人には、苦しみ[10]が付き従う。
あたかも、荷車をく牛の足跡の上を車輪が付き従うように。

2

心はすべてのものごとに先立ち、すべてをつくり出し、すべてを左右する。
清らかな心から話し、行動する人には、幸せが付き従う。
あたかも、影が身体からだを離れることがないように。

「あの人は私をののしった。あの人は私を傷つけた」、
「あの人は私をうち負かした。あの人は私から奪った」、
そういう思いを抱く人から、うらみはついに消えることがない。

「あの人は私を罵った。あの人は私を傷つけた」、
「あの人は私をうち負かした。あの人は私から奪った」、
そういう思いを抱かない人から、怨みは完全に消える。

怨みは、怨みによって消えることは、けっしてなく、
怨みは、怨みを捨てることによってこそ消える。これは普遍的真理である[11]

人は死すべきものである、と自覚しない人がいる。
しかし人がそう自覚すれば、争いは鎮まる。

感覚器官[12]を制御せず、食事を節制せず、官能的快楽を追い求め、
放逸に流れる人は、悪魔[13]にうちのめされる。
あたかも、根の腐った樹木が風に倒されるように。

感覚器官をよく制御し、食事を節制し、官能的快楽を追い求めず、
信仰[14]を持ち、いそしみ励む人は、悪魔にうちのめされない。
あたかも、岩山が風にゆるがないように。

心の汚れを除かずに、僧衣をまとう人は、
自制心も、真摯さもなく、僧衣をまとう資格がない。

10

心の汚れを除きさり、戒めを守る人は、
自制心も、真摯しんしさもあり、僧衣をまとう資格がある。

11

真実ではないものを、真実と見なし、真実を、真実ではないと見なす人は、
誤った思いに囚われて、真理に達しない。

12

真実を、真実と知り、真実ではないものを、真実ではないと知る人は、
正しい思いに従って、真理に達する。

13

粗雑にいてある屋根からは雨がれ入るように、
修養されていない心には情欲が入り込む。

14

しっかり葺いてある屋根からは雨が漏れ入らないように、
よく修養された心には情欲が入り込まない。

15

行いの悪い人は、この世でも、あの世でもうれう。
自分の汚れた行いを見て、彼は憂い、悩む。

16

行いの善い人は、この世でも、あの世でも幸せである。
自分の清らかな行いを見て、彼は喜び、幸せである。

17

行いの悪い人は、この世でも、あの世でもいる。
「私は悪いことをした」と思って悔い、悪い境遇[15]に生まれ落ち、さらに苦しむ。

18

行いの善い人は、この世でも、あの世でも喜ぶ。
「私は善いことをした」と思って喜び、善い境遇[16]に生まれ、さらに喜ぶ。

19

たとえ教えを数多くそらんじていても、それを心がけ、実践しない人は、
他人ひとの牛を数えるだけの牛飼いと同じで、修養に励む人[17]の部類には入らない。

20

たとえ教えは少ししか諳んじていなくても、ことわりに従って実践し、
貪欲とんよくと怒りと迷妄めいもう[18]を捨て、理を正しく理解し、
心が解放されていて、執着しない人は、修養に励む人の部類に入る。


 

[1] 中村(1978) pp.384-385

[2] 「法句譬喩経」『SAT大正新脩大藏經テキストデータベース』第04巻、東京大学大学院人文社会系研究科、No.0211, 0575b16、2018年。

[3] Brough (1962) p.2

[4] Brough (1962) xiv

[5] Brough (1962) p.13

[6] Timothy Lenz, ed (2003). A New Version of the Gāndhārī Dharmapada and a Collection of Previous-birth Stories: British Library Kharoṣṭhī Fragments 16 + 25. Univeristy of Washington Press. ISBN 0295983086

[7] Norman (1997) xx

[8] Norman (1997) xxi

[9] 5偈と6偈の二偈を除いては、連続する二偈ずつが「よこしまな心・清らかな心」(1偈・2偈),「抱く人・抱かない人」(3偈・4偈)、「行いの悪い人・行いの善い人」(15偈・16偈、17偈・18偈)のように「対」をなしているので、「対句」が章名となっている。

[10] パーリ語「ドゥッカ」、漢訳仏典では「苦」と訳される。痛みといった肉体的なものと、悲しみ、悩みといった心的、精神的なものの両方を含むが、原語の意味は「他の要因によって条件付けられていて、思い通りにならないこと」である。255偈の注参照。

[11] 第二次世界大戦を終結したサンフランシスコ対日講和会議(一九五一年)で、仏教国セイロン(現在のスリランカ)は、日本に対する損害賠償請求権を自発的に放棄した。セイロンを代表したJ・R・ジャヤワルダナ蔵相(後に大統領。一九〇六−一九九六)は、その理由として、ブッダのこの言葉を引用している。223偈も同趣意。

[12] 仏教では人間には、目、耳、鼻、舌、身体の五つの感覚器官(仏教用語では「五根」)があり、各々が色と形、音、匂い、味、感触を対象とする視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚という五感を司ると考えられている。加えて、概念などの抽象的事柄を対象とする精神的領域の作用を司る心がある。この六種の感覚・知覚器官(「六根」)で、人間活動の総体を包括する。

[13] パーリ語「マーラ」は、漢訳仏典では「魔羅まら」、「摩羅まら」と音写される。心を迷わせ、正しい判断を妨げる作用の象徴。

[14] パーリ語「サッダー」。仏教でいう信仰とは、一般的な意味での信仰ではなく、ブッダの教えを理解した上での、その正しさへの信頼、確信と言った方がふさわしい。

[15] 仏教では生きものの境遇を善趣ぜんしゅ悪趣あくしゅの二種類に分類する。悪趣には畜生、餓鬼がき、地獄の三趣がある。

[16] 善趣のことで、人間と天の二趣、あるいは阿修羅あしゅらを加えて三趣とする。善趣・悪趣を総じて五(・六)趣、あるいは五(・六)道とする。

[17] パーリ語「サマナ」または「サーマンニャ」(サンスクリット語「シュラマナ」)。漢訳では「沙門しゃもん」と音写される。主にバラモン階級出身者以外の修行者を指す。本書では原則として「修養に励む人」と訳した。

[18] 人間の苦しみの原因である三つの心的要素。貪欲とんよく(パーリ語「ラーガ」。漢訳仏教用語では「どんよく」ではなく、「とんよく」と読む)は、好きなものを入手し所有しようとする欲望で、怒り(パーリ語「ドーサ」。漢訳仏教用語では「瞋恚しんい」)は、嫌なものを憎み排斥しようとする、正反対の欲望である。その両者を引き起こすのが、生存欲とも言える根源的な欲望、すなわち迷妄めいもう(パーリ語「モーハ」。ほぼ同義語として、、無明むみょう(パーリ語「アヴィッジャー」)で、漢訳仏教用語では「愚癡ぐち」)と訳される。この根源と、そこから生じる反対方向に作用する二つの欲望、この三者を総称して、貪瞋癡とんじんちの三毒という。