慈経
「慈経」( Mettāsutta. 『スッタニパータ』(Sutta Nipāta)1.8)
「あらゆる生きとし生けるものが安楽であるように、平安であるように、心から安楽であるように。
いかなる生命も生き物も、動物であろうと植物であろうとあますところなく、細長いものも、あるいは巨大なものも、中くらいのものも、短小なものも、微細なものも、眼に見える大きさのものも、いまここに現在いるものも、あるいはいないものも、遠くに、あるいは近くに住んでいるものも、過去に存在したものも、あるいは未来に存在しようとしているものも、あらゆる生きとし生けるものが、心から安楽であるように。
かれらが、いかなる場合にも、いかなる相手に対しても、お互いに、『相手が劣っている』とおとしめたり、『自分がすぐれている』と高慢になったりしないように。
かれらがお互いに他者に対して苦悩を与えようと意図して危害を加えたり、憎悪の心をもつことのないように。」
と思惟しつつ、あたかも母親がわが子のためとあらば命を捨ててでも一人息子を守護するように、そのようにすべての生き物に対して無量無辺にひろがる慈しみの心をもつように修行するがよい。
あらゆる世間的存在に対して、無量無辺にひろがる慈しみの心をもつように修行するがよい。――上方に向かっても、下方に向かっても、四方八方に向かっても、いかなる限界もなく、いかなる障礙もなく、いかなる対立もないように。立ち止まっているときにも、歩いているときにも、坐っているときにも、横になっているときにも、睡眠に落ちているのでない限りは、このように思惟しつつ、いまここの存在をあるがままに自覚するように一つに専注していくがよい。
仏教の教えにおいては、それこそがブラフマンの真理を思惟する定であると教えられている。・・・
(荒牧典俊・本庄良文・榎本文雄『スッタニパータ[釈尊のことば]全現代語訳』(講談社学術文庫)2015年)


