矢経
「矢経」(Salla-sutta)
- 『サンユッタ・ニカーヤ』(相応部)第二受相応、第一有偈章、第6
- 和訳:片山一良訳『パーリ仏典<第3期>8 相応部(サンユッタニカーヤ)六処篇II』
このように私は聞いた―
世尊はつぎのように言われた。
「比丘たちよ、聞をそなえていない凡夫は、楽受も感受し、苦受も感受し、非苦非楽受も感受します。
比丘たちよ、聞をそなえた聖なる弟子は、楽受も感受し、苦受も感受し、非苦非楽受も感受します。
比丘たちよ、そこにおける、聞をそなえていない凡夫と、聞をそなえた聖なる弟子との相異は何でしょうか。特異は何でしょうか。差異は何でしょうか」
と。
「尊師よ、私どものもろもろの法は、世尊を根源とし、世尊を指導者とし、世尊を依拠としております。
尊師よ、どうか世尊は、この語られたことの意味をお明かしくださいますように。世尊からお聞きし、比丘どもは記憶にとどめるでありましょう」と。
「それでは、比丘たちよ、聞いて、よく考えなさい。語りましょう」と。
「かしこまりました、尊師よ」と、かれら比丘は世尊に答えた。世尊は、つぎにように言われた。
「比丘たちよ、聞をそなえていない凡夫は、苦受に触れられると、悲しみ、疲れ、悲泣し、胸を打って泣き、迷乱します。かれは二の受を感受します。身に属するものと、心に属するものです。
比丘たちよ、たとえば、男性を矢が射抜くとします。ただちに第二の矢が付随の傷を射抜きます。比丘たちよ、このようにして、その男性は二の矢によって受を感受します。
比丘たちよ、ちょうどそのように、聞をそなえていない凡夫は、苦受に触れられると、悲しみ、疲れ、悲泣し、胸を打って泣き、迷乱します。かれは二の受を感受します。身に属するものと、心に属するものです。しかもまた、その苦受に触れられると、瞋を懐く者になります。ただちに苦受によって瞋を懐くかれには、苦受による瞋の潜在煩悩が潜在します。かれは苦受に触れられると、欲楽を歓喜します。それはなぜか。
比丘たちよ、なぜなら、その聞をそなえていない凡夫は、欲楽の他に苦受の出離を知らないからです。また、その欲楽を歓喜するかれには、楽受による貪の潜在煩悩が潜在します。かれはそれらの受の生起と消滅と、楽味と危難と出離とを如実に知りません。それの受の生起と消滅と、楽味と危難と出離とを如実に知らないかれには、非苦非楽受による無明の潜在煩悩が潜在します。もしもかれが、楽受を感受するならば、束縛されてそれを感受します。もしもかれが、苦受を感受するならば、束縛されてそれを感受します。もしもかれが、非苦非楽受を感受するならば、束縛されてそれを感受します。
比丘たちよ、この聞をそなえていない凡夫は、生により、老により、死により、もろもろの愁いにより、もろもろの悲しみにより、もろもろの苦しみにより、もろもろの憂いにより、もろもろの悩みにより束縛されていると言われます。かれは苦により束縛されている、と私は言います。
しかし、比丘たちよ、聞をそなえた聖なる弟子は、身の苦受に触れられても、悲しまず、疲れず、悲泣せず、胸を打って泣かず、迷乱しません。かれは一の受を感受します。身に属するものであり、心に属するものではありません。
比丘たちよ、たとえば、男性を矢が射抜くとします。ただちに第二の矢が付随の傷を射抜きません。比丘たちよ、このようにして、その男性は一の矢によって受を感受します。
比丘たちよ、ちょうどそのように、聞をそなえた聖なる弟子は、身の苦受に触れられても、悲しまず、疲れず、悲泣せず、胸を打って泣かず、迷乱しません。かれは一の受を感受します。身に属するものであり、心に属するものではありません。しかもまた、その苦受に触れられても、瞋を懐く者になりません。ただちに苦受によって瞋を懐かないかれには、苦受による瞋の潜在煩悩が潜在しません。かれは苦受に触れられても、欲楽を歓喜しません。それはなぜか。
比丘たちよ、なぜなら、その聞をそなえた聖なる弟子は、欲楽の他に苦受の出離を知るからです。また、その欲楽を歓喜しないかれには、楽受による貪の潜在煩悩が潜在しません。かれは、それらの受の生起と消滅と、楽味と危難と出離とを如実に知ります。それらの受の生起と消滅と、楽味と危難と出離とを如実に知るかれには、非苦非楽受による無明の潜在煩悩が潜在しません。もしもかれが、楽受を感受するならば、束縛されずそれを感受します。もしもかれが、苦受を感受するならば、束縛されずそれを感受します。もしもかれが、非苦非楽受を感受するならば、束縛されずそれを感受します。
比丘たちよ、この聞をそなえた聖なる弟子は、生により、老により、死により、もろもろの愁いにより、もろもろの悲しみにより、もろもろの苦しみにより、もろもろの憂いにより、もろもろの悩みにより束縛されていないと言われます。かれは苦により束縛されていないと、私は言います。
比丘たちよ、これが聞をそなえていない凡夫と、聞をそなえている聖なる弟子との相異であり、これが特異であり、これが差異です」と。
「智慧あり、また多聞の者は
楽受も苦受も感受せず
これが凡夫と巧みな賢者の
大きな相異となっている
法を究め、多聞にして
この世とあの世をよく観る者の
心を快楽の諸法が乱さず
不快より、かれは瞋恚に至らず
かれには随順、あるいは違背が
滅び、消え失せ、存在しない
かれは離塵、無憂の句を知り
有の彼岸に到り、正しく了知す」


