坐禅三昧経
『坐禅三昧経』上巻 現代語訳
ギャナ・ラトナ・テーラー及び蓑輪顕量 共訳
【凡例】
- 本翻訳の底本には大正蔵所収本を使用した。
- 文字は正字ではなく一般に使用される通用字体を使うよう心がけた。
- 意味が通じることを最優先させ、大正蔵に語句の異同がある場合でも、どの語句を取ったのか、一々断っていない。通読できる訳を目指したので、ご了解頂きたい。
* 語句に対する注釈が必要であるが、これも作成していない。試訳であり、まだ完成には至っていないが、途中段階でも意味があると考えたので、これもご了解頂きたい。
以上
姚秦時代の三蔵法師 鳩摩羅什が訳す
導師には遭いがたいと説き 聞く者が喜ぶこともまた難しい
大人にとっては願って聞くところ 小人にとっては憎んで聞くところ
生きとし生きるものを哀れむがよい 老いや死の険しい道に落ちるのだから
野人は恩愛の奴 畏れるべき所にいるのに愚かにして懼れない
世界は大きくも小さくもあるが 法には常なるものがない
一切は久しく留まることがない 電気の光のように僅かに現れるのみ
この身体は老いや死に属しており 多くの病気が帰するところ
薄皮が不浄を覆い 愚かな惑いに欺かれる
あなたは常に老賊となり 盛壮の色を飲んでは滅ぼす
例えば花の首飾りが枯れ朽ちるように 毀れ腐敗して真っ直ぐなところがない
頂生王の功徳は 帝釈天王とともに座り
利福に報いて多くに弘め 今日みな安楽に住している
この王は天や人の中において 欲や楽しみが備わることを最善とするが
死ぬ時にはきわめて苦痛になる このことから悟るのがよい
さまざまな欲は初めはやさしく楽しいが 後に皆大いなる苦しみになると
例えば怨みのように初めは善であっても 族を滅ぼして禍は後にやってくる
この身体は穢れた器であり 九の孔よりいつもいやなものが流れ出す
それはまた地獄の傷のようなもの 医薬によって治ることは絶対にない
骨車の力はとても少なく 筋肉や脈は識が動くのを纏っている
あなたは素晴らしい乗り物とするが 忍んで羞恥の心は無い
死人は集めて置かれるもの 遺棄して塚の間に満ちる
生きている時は保たれ惜しまれるもの 死ねばみな捨てられる
いつもこのように念じるのがよい 一心に観じて乱してはならない
痴かさを破り黒き瞑を倒し 炬火を執りて明らかに観察せよ
もし四念の止むことを捨てれば 心にあらゆる悪が造られる
あたかも象が逃げ出し鉤が無ければ ついに道には従わないようなもの
今日はこの業をいとなみ 明日は別の事をなす
楽しみに執着して苦を観察しなければ 死という賊が至るのを覚えない
ただに自分の務めをなし 他のことにはまた暇がない
死という賊は時を待たないし 至れば縁を脱することもない
鹿がのどを渇かし泉に赴き 飲もうとして水に向かう
猟師に慈悲はなく 飲み終わってから殺すのを許さないようなもの
愚かな人もまた同じようなもの さまざまな事務を務め修めるも
死が至れば時は待たない いったい誰があなたを護ろうか
人の心は富貴を期待する 五欲の情はいまだ満たない
多くの大国の王様たちも またこの患いを免れない
仙人は呪いの矢を持つも 彼もまた死生を免れることができない
無常の大きな像が踏めば 蟻や蛭は大地と同じ
しばらくあらゆる人は置いておこう 仏たちはまさしく覚り
生死の流れを越え またいつも存在するものではない
このようなわけで当然知るのがよい おまえさんの愛しく願うところは
ことごとく早く捨て 一心に涅槃を求めるのがよい
後になって身を捨てて死ぬときに 誰が証知しようか 私が
また法宝に遇うことができ 遇わない者に及ぶということを
長い間仏日は出でて 大いなる無明の闇を破る
さまざまな光明を放ち 人に道と道でないものとを示す
私はどこからやって来たのか 私はどこから生まれたのか
どこにおいて解脱を得るのか この疑いを誰が明かしてくれようか
仏は聖人であり一切智をそなえ 長らく違ったがやがては世に生まれる
心を集中して放逸になるな おまえの疑いと煩悩を破ることができる
彼は実利を願わず 悪い心を好んでしまっている
おまえさんは衆生のために長じたら まさに真実の法の姿を求めるのがよい
誰が一体死ぬ時を知ろうか 赴くところはいずれの道よりだろうか
たとえば風の中の灯火のごとく 滅びる時節を知らず
至道の法は難しくなく 大聖の事を指さし説く
智と智処と この二つは外を借りないと説き
おまえさんがもし放逸でないのなら 一心にいつも道を行じることにつとめよ
ひさしからずして涅槃 第一の常に楽なるところを得るだろう
利智で善に親しむ人は 心を尽くして仏法を敬い
不浄の身体を厭い 苦を離れて解脱を得る
静かに修行しようとの志をもち 林の中に足を組んで坐る
心を見回り放逸ではなく 意を悟ってさまざまな縁を覚える
もし中に有ることを厭わなければ 睡りに安住して自ら悟らない
世が常ではないことを考えず 畏れるべきものを懼れない
煩悩は深く底はなく 生死の海は果てしない
苦を渡る船はいまだ分からず どうして楽しき睡眠がえられようか
このようなわけで覚悟するのがよい 睡眠でもって心を覆ってはいけない
四つの供養の中に 量を知り止の足りることを知り
大いに怖れるも共にいまだに免れることはできない つとめて精進するが良い
あらゆる苦が至るとき 後悔や恨みの及ぶところはない
衲衣を身につけ樹の下に坐り まさに食事を得るべきところのように
貪ることなかれ 味わうがゆえに 自ら毀敗を致す
食が過ぎれば味処を知る 美と悪とに全く異なりはない
愛好すれば憂いや苦しみを生ずる このようなわけで愛を造ってはいけない
行と業の世界の中では 美と悪とが改まることはない
一切はすでに細かに受け まさにここをもって自ら抑制するが良い
もし家畜の生き物に生まれれば 草をかんで味が具わるとし
地獄では鉄のかたまりを飲み 燃えるような熱が激しく鐵からほとばしる
餓鬼の中にあっては 膿や吐かれた火や糞尿
涙、唾などさまざまな不浄 これらを素晴らしい味だとする
もし天の宮殿にあれば 七宝は宮や観の中に満ち
天の食事は蘇陀の味 天女は人を楽しませる心持ち
人間の中で貴い処を務めれば 七の饌は多くの味を備える
一切はかつて改めたところ 今またどうして愛そうか
世界の中に行きつ戻りつし 苦楽の事を厭い改める
いまだ涅槃を得ていないけれども まさに勤めてこの利益を求めるのが良い
禅を学ぶ人は最初に師のところに至ったら、師につぎのように質問するのがよい、「あなたは戒を保って浄らかですか。重罪、悪邪ではありませんか」と。もし五衆の戒は清らかで、重罪悪邪は無いと言うのならば、次に道法を教えさしなさい。もし戒を破ったと言うならば、重ねて質問するがよい、「あなたは何の戒を破ったのですか」と。もし重戒と言うならば、師は言う、「人の耳や鼻を切られたようなものである、明らかな鏡を用いることはできない。あなたはしばらく立ち去りなさい。誦経に勤め作福に勧めれば、後世に道法の因縁を植えることができよう。此の生存は永久に捨てなさい。たとえば枯れた木は、灌漑を加えたとしても、花葉やその果実を生じさせることはないようなもの。」もしその他の戒を破ったのなら、この時には、まさに如法に懺悔させなさい。もし清浄であるなら、師がもし天眼(智)や他心智を得ているのなら、すぐさま病に応じて、道に赴く法を説きなさい。もしいまだに通を得ていないのなら、まさに相を観察させなさい。
あるいは、またこれを質問する。「三毒の中では何が一番重いですか。淫欲が多いですか。瞋恚が多いですか。愚痴が多いですか。相を観察するとはどういうことですか。もし淫相が多く、人に軽んじられ、妻妾を蓄えることが多く、言葉が多く何でも信じてしまい、顔色は喜びに満ち、言葉は平易で角張らず、瞋恨は少なく、また憂愁は少なく、すばらしい技術が多く、聞くのが好きで知識が多く、文章や詩文に愛着し、巧みに談論することができ、人情を察知することができ、さまざまな恐れが多く、心は寝室にあり、薄着を好み、女色をこの上なく欲し、臥具や服飾、香華に愛着し、心は柔らかくしなやかさが多く、人の不幸に細かい思いやりを示し、言葉に巧みであり、好んで福のある行いをし、心は天に生まれることを願い、人々の中にあって難なく、人の美しや醜さを区別し、婦女子を信用して任せる。欲の炎が盛んであり、心には悔い改めることが多く、自分で着飾ることをうれしく思い、きれいな彩りの絵を見ることを好み、自分のものは物惜しみし、他人の財産を何処までも求め、親しい友達と交わることを好み、一人で居ることを喜ばず、止まる所を楽しみ、俗世間の悪い習わしを追い求め、急に驚いたかと思うと急に怖れ、志はあたかも獼猴のよう、見るところは浅く近く、なす事には配慮がなく、軽々しい志でものをなし、趣は意に適うことができ、うれしく思って啼きうれしく思って大泣きし、身体はか細く柔らかで、寒さに耐えず、頼みやすく喜びやすく、ことを忍ぶことができず、少し得ては大いに喜び少し失っては大いに憂い、自分から潜んで隠れることをして、身体は暖かく汗は臭く、皮膚は薄く髪は細く、しわが多く色白で、爪を揃えて切り顎髭を調え、白い歯を見せて歩き、清潔な浄衣をうれしく思い、学ぶことはもっぱらにせず、林中や苑に遊ぶことを好み、多情で求めることが多く、心は常見に執着する。付近の有徳は、先の心でもって尋ねる。他人の言葉を用いることをうれしく思い 厚かましい顔をして辱めに耐え、物事を聞いてはすぐになした事業を理解し、好きものと醜いものとを分別し、苦厄に思いやりを示し心を痛め、自ら大いに勝つことを好み、侵されることを受け入れない。喜んで施し恵むことを行い、善人をおさめとり、おいしい飲食を得ては人と共にする。近細にはなく志は遠大にある。眼が色欲に執着すれば、事を究めることはない。遠慮あることなく、世間のやり方や習俗を知り、顔色を観察し、逆に人の心を探る。甘い言葉や分別のある智で、結ばれた友人は堅固ではない。頭髪はまれで少なく、睡眠も少ない。坐ったり臥したり歩いたり立ったりにも、容儀を失わない。持っている財物はすみやかに急を救うことができるが、後に悔やみ惜しみ、受け取ることは素早く得る。ついで忘れることを喜び、挙動を惜しみ、自分から改めることが難しく、欲を離れることが難しく、罪を作っても軽微である。このような種々が淫欲の相である。
瞋恚の相とは、憂い悩むことが多く、卒暴であり怒りを抱き、体や口は荒く広く、多くの苦しみに堪えるけれども触れることはだめ、愁いが多く喜ぶことは少なく、大悪を平気で犯し、憐憫の心がなく、喜んで闘争や訴訟を行い、顔つきは毀れて憔悴し、皺のよった眉に眼は流し目、語りがたく悦びがたく仕えがたく良しとすることが難しい。その心は瘡蓋のようで述べる人を欠き、義を論ずれば強梁であって折伏することができない。傾け動かすことも難しく、親しみにくくまた阻みにくい。含んだ毒を吐きにくく、誦を受けては失わない。能力にめぐまれ巧みさは多く、心は怠けものではない。事をなしては速やかであり、望みがあっても語らない、意は深く知りがたく、恩を受けては報いることができ、人々を集めては自らへりくだり人に仕え、邪魔することができず事を突き詰める。乱すことは難しく、怖れる難は少なく、例えば獅子が屈服しないようなもの、ひたすら真っ直ぐに造り真っ直ぐに進む。心に思ったことは忘れず、あれこれと慮って思惟し、諳んじて習い記憶に保つ。施しが多く、僅かな利益もめぐらさず、先生のためには利根であり、欲を離れて一人でおり、淫欲は少なく、心はいつも優れているとの思いを抱き、断見に愛着し、眼は常に悪いものを見、真実の言葉を語り、説くことは明確に分かり、親しい友人は少なく、何かをしてはかたくなであり、堅く記憶して忘れず、筋力が多く、肩や胸はあでやかで大きく、広い額に整った髪、心は堅く屈服させにくく、すぐに覚えて忘れがたく、自ら欲を離れて悦んで重罪を犯す。このような種々の相が瞋恚の相である。
愚痴の人の相は、疑いが多く後悔が多く、ものぐさで見ることがない。自ら満足し曲げがたく、驕慢にして受けがたく、信ずべきを信ぜず信ずべきでないものを信じ、敬うことを知らず、至る所を信用し、先生が多く軽はずみで、羞恥心が無く唐突であり、ことをなすのに遠慮がなく、教えに背いて濁っており、親友を選ばず、自ら修飾せず、師を好んでは道に異なり、善悪を分かたず、受けがたく忘れやすく、鈍根にして怠けもの、謗って施しを行い、心に憐憫の情なく、法橋を破壊し、事に触れても了解せず、眼を怒らせて見ないが、智の巧みさはなく、多く求めることを希望するけれども、疑い多く信じることは少なく、良い人を憎悪し、罪福の報いを破り、善言を分かたず、過ちを理解することができず、教えさとしを受けいれず、直接に憎怨を離れ、礼節を知らず悦んで悪口をなし、顎髭、髪の毛、爪は長く、歯や衣は垢にまみれ、人のために苦役され、畏れるべきところを畏れず、楽しみの所を憂い、憂うる所を悦び、悲しむべき所をかえって笑い、笑うべき所をかえって悲しみ、引いて後に従い、苦しいことを堪えることができ、さまざまな味を分けず、欲を離れることは難しく、罪は深く重いとする、このような種々の相が愚痴の相である。
もし淫欲が多い人であるなら不浄法門をもって治し、もし瞋恚の多い人であるなら慈心法門で治し、もし等分の多い人であれば、念仏法門で治す。さまざまなこのような種々の病は、種々の法門で治す。
第一 貪欲を治める法門
淫欲の多い人は、不浄観を習う。足より髪に至るまで、不浄が充満している。髪、毛、爪、歯、薄皮、厚皮、血、肉、筋、脈、骨、髄、肝、肺、心、脾、腎、胃、大腸、小腸、屎、尿、洟、唾、汗、涙、垢、坋、膿、脳、胞、膽水、微膚、脂肪、脳膜、身中にはこのような種々の不浄がある。また、次に、不浄漸とは、青瘀、膨張、破爛、血流、塗漫、臭膿、噉食不尽、骨散焼焦、これを不浄観と言う。
また、淫が多い人には七種の愛がある。或る者は好色に執着し、或る者は端正であることに執着し、或る者は礼に適った態度に執着し、或る者は音声に執着し、或る者は細くなめらかであることに執着し、或る者は衆生に執着し、或る者はすべてに執着する。もし好きな色に執着するのであれば、青瘀観法(体に青色に変わっていく)を習うのがよい。黄色、赤、不浄の色など場合もまた同じようなものである。もし端正であることに執着するのであれば、膖脹身散(体が膨れ身が散らばる)観を習うのがよい。もし礼に適った態度に執着するのであれば、新たに死に血が流れて骨が染まる観法を観じるのがよい。もし音声に執着するのであれば、喉が塞がり命が絶たれるという観法を習うのがよい。もし細かくなめらかなことに執着するのであれば、骨観および乾き枯れる病の観法を習うのがよい。もし衆生に愛着するのであれば、いつも六種の観法を習うのがよい。もし、すべてに執着するのであれば、一切が遍くと観じなさい。ある時には種々になし、さらに異なった観法をする、これを不浄観と名付ける。
質問して言う、もし身体が不浄であり臭い腐った屍のようであれば、どうして執着が生じるのか。もし、浄身に執着するならば、同じように臭く腐った焼けただれた身体にも執着するのがよい。もし臭い身体に執着しないのならば、浄身にもまた執着しないのがよい。なぜなら二つの身は等しいからである。
答える。二つが真実に浄であることを求めれば、倶に得ることはできない。人の心は、狂い惑っており、顛倒に覆われている。浄でないものを浄であると思っている。もし顛倒した心を破るのなら、実相の法を観ることを得て、そして、不浄は空ろで欺くもので真実ではないと知る。また、死体には、火なく命無く識なく諸根もない、人は明らかにこれを知って、心に執着を生じさせない。身に暖あり命あり識あり、諸根が完全に具わっているので、心が顛倒しあるいは執着が生じる。あるいは心が色に執着するとき、それを浄であるとする。愛着する心がやめば、すぐさま不浄であることを知る。もしこれが真実に浄であるならば、常に浄であるべきである。ところが今、そうではない。たとえば、犬は糞を食べてこれを浄であるとする。人はこれを観察して、とても不浄であるとする。この身体の内も外も、一つとして浄なるところは無い。もし身体の外に執着しても、身体の外は薄い皮である。体中の薄皮を取り去ってしまえば、僅かに木の棒のようなものを得るだけで、これもまた不浄である。ましてや身体の三十六物についてはなおさらである。
次に身体の因縁が種々に不浄であることを推測しよう。父母の精子や血という不浄が合わさってできている。そして身体であることを得ているのだから、いつも不浄を出している。衣服や寝床もまたいつも臭くて不浄である。どうして死がそうでないであろうか。このようなわけで次のように知るのがよい。生死は内も外もすべてが不浄であると。(これより以下は、経本は、二門の始めに至る。)
次に観にまた三品がある。或いは初めて習う者、すでに習っている者、あるいは習って久しい者である。もし始めて習う者であるなら、次のように教えて言うが良い。「皮を破る思いを為しなさい。不浄を取り除き、赤骨の人を観察するのがよいでしょう。しきりに観察を行い、他を思わないようにしなさい。ほかにさまざまな縁を思うのならば、思いを摂めとってもとに戻らせなさい。」もし、既に習っている者ならば、次のように教えて言うが良い。「皮や肉の思いを思い去って、ことごとく頭骨を観察して、ほかを思わないようにしなさい。ほかにさまざまな縁を思うのならば、思いを摂めとってもとに戻らせなさい。」もし習って久しい者であるなら、次のように教えて言うが良い。「身体の中、一寸ばかり、皮や肉を心で取り去り、心を五処につなぎとめなさい。頂き・額・眉間・鼻端・心所というこのような五処に、意を住せしめて、骨を観察しなさい。他を思わないようにさせなさい。ほかにさまざまな縁を思うならば、思いを摂めとってもとに戻らせなさい。いつも心を観察することを思い、心が動いたならばそれを抑えて保ちなさい。もし、心が疲れたのならば、縁ずるところに思いを住せしめて、ほかを捨てて住することを守りなさい。例えば猴が柱に繋がれ、きわめてつまりは落ち着いてしまうようなもの。所縁は柱のようなものであり、念は縄鎖のようなものである。心は猿を譬える。また乳母のようなものであり、いつも乳飲み子を観て落とさないようにする。
行者が心を観察するのも、またこのようなものである。次第次第に心を制御し、縁ずる所に住せしめる。もし心が久しく住するのであれば、禅に対応した法である。もし禅定を得るのであれば、すぐさま三つの相がある。身体が和らぎ悦び、柔軟で軽やか、白骨は光を放つこと白き宝石のよう。心は静かに止まることを得る。これを観察が清らかであるという。この時、色界の中心を得るのであり、これを初めて禅法を学ぶ人が色界の心を得ると名付ける。心が禅法に対応することは色界の法である。心がこの法を得ても身体は欲界に在る。四大はきわめて大きく、柔軟で快楽、色は艶やかで清潔であり、光は潤い柔らかで喜ばしい。これを悦楽という。
二には、先には骨観であり、白骨相の中の光明が遍く照らし清らかな白色である。三には、心が一処に住する。これを浄観と名付ける。肉を除き骨を観察するので、浄観と名付けるのである。以上の三相は、皆、自ずから知り、他の所には見えない。上の三品は、初めて習う者は先に未発意であり、習いつつある者は三四身に修め、久しく習っている者は百年間、身体に学ぶのである。
第二 瞋恚を治める法門
もし瞋恚がひとえに多いのであれば、三種類の慈心法門を学ぶのがよい。或いは初めて習う者、或いは習いつつある者、或いは久しく習っている者である。もし初めて習う者であるなら、教えて次のように言いなさい。
慈を親愛なる人々に及ぼしなさい。親しい人に及ぼすとはどのようなことか。親しい人に楽を与えようと願いなさい。行者がもし種々の身心の快楽を得るのならば、寒いときには衣を得て、熱いときには涼しさを得て、飢えているときには飲食を得て、貧しく卑しい時には富み貴きことを得て、行が極まるときには止むことを得る。このように種々の楽を、親愛なる者が得るように願いなさい。心を慈しみに繋げて、異なった念を生じさせない。異なってさまざまな縁を思うのであれば、これを収めとって元に戻らせなさい。
もし習いつつある者の者であれば、教えて次のように言いなさい。慈を中人(利害関係の無い人)に及ぼしなさい。どのようにして中人に及ぼして楽を与えるのか。行者はもしさまざまな身心の快楽を得るのであれば、中人がそれを得るよう願いなさい。心を慈しみに繋げて、異なった念を生じさせない。異なってさまざまな縁を思うのであれば、これを治めとってもとに戻らせなさい。
もし久しく習っている者の者であれば、教えて次のように言いなさい。慈しみを恨み憎む者に及ぼしなさい。どのようにして彼に及ぼし楽を与えるのか。行者は、もし種々の信心の快楽を得るのであれば、恨み憎む者が得るように願いなさい。親しい人と同じく得て、同じく一心を得れば、心は大いに清浄である。親しい人、中人、憎む人など広く世界に及ぼし、無量の生きとし生きる者が皆、楽を得ることができるように。十方にあまねき、同等でないものがなくなれば、大いに心は清浄である。十方の生きとし生きる者を見て、皆自分を見るがごとくであり、心の目前に在って、はっきりとそれを見る。快楽を得る。この時、すぐさま慈心三昧を得る。
質問して言うことには、親愛なる人や中人に対しては、楽を得られるように願うが、恨み憎む人にたいして、どうして憐憫し、また楽を与えることを願うのか。
答えて言うことには、彼に楽を与えるのがよい。それは何故か。その人は、さらに種々の好き清浄の法印を持っているからである。私は、今どうしようか。どうして一つの恨みをもってその善を没することができようか。また、次のように思惟する。この人は過去世の時に、あるいは私の親しい善人であったかもしれない。どうして今、瞋りをもってさらに恨み悪みを生じさせてよいものであろうか。私は、まさに彼は私にとって善なる利益であると忍ぶべきである。
又、行法を念じるのに、仁徳は表に出ないが広く、慈悲の力は無量であること、これを失ってはいけない。又、思惟して言う、「もし憎怨がなければどうして忍が生じようか。忍を生じさせるのは怨に由る。怨は私の親しい善である。」と。
また次に、瞋りの報いは、もっとも重い。多くの悪の中で最上のものである。これに過ぎるものはない。瞋りをもって人に加えることは、その毒は制しがたい。他を焼こうとしているけれども、実は自分を害しているのである。また自ら念じて言う、「外には法服を着て、内には忍辱の行をならう。これを沙門という。悪い噂によってこの変色をほしいままにして、どうして心をだめにしようか。
次に五受陰とは、多くの苦が林のように在り、悪を受ける的となる。苦悩の悪がやってきたときに、一体どうやって免れることができようか。それは、針に刺された身体のようなものであり、苦しみに満ちた刺しは、無量である。多くの怨がはなはだ多く、除くことができない。まさに自ら守護し、忍辱の革履を身につけるが良い。例えば「仏の言葉」に次のように言う。
瞋りをもって瞋りに報いるのならば 瞋りはかえってこれに執着する
瞋恚に報いなければ 大軍を破ることができ 瞋恚しないことができる
これを大人の法という 小人は瞋恚し 動きがたいこと山のようなもの
瞋は重い毒となり、 多くは傷つけ殺される 相手を害することができなければ
自分を害しそして滅びる 瞋りは大いなる目くらまし 眼があっても見ることはできない
瞋りは塵垢であり 清らかな心を汚染する このような瞋恚は すぐに除き滅するがよい
毒蛇が家の中にいれば 除かなければ人を害す このように種々に
瞋りの毒は無量である 常に慈悲の心を学び 瞋恚を除き滅せよ
これが慈三昧門である。
第三 愚痴を治める法門
もし愚痴がひとえに多いのであれば、三種類の思惟法門を学ぶのがよい。或いは初めて習う者、あるいは習いつつある者、あるいは久しく習っている者である。もし初めて習う者であるならば、次のように教えて言うのがよい。生は老死のきっかけとなり、無明は行のきっかけとなる。このように思惟して他のことを考えさせない。他にさまざまな対象を思ったのなら、それを摂めとってもとに戻らせなさい。
もし習いつつある者ならば、次のように教えて言うのがよい。行は識のきっかけとなり、識は名色のきっかけとなり、名色は六入のきっかけとなり、六入は触のきっかけとなり、受は愛のきっかけとなり、愛は取のきっかけとなり、取は有のきっかけとなる。このように思惟して他のことを考えさせない。他にさまざまな対象を思ったのなら、それを摂めとってもとに戻らせなさい。
もし久しく習った者であるなら、次のように教えて言うのがよい。無明は行のきっかけとなり、行は識のきっかけとなり、識は名色のきっかけとなり、名色は六入のきっかけとなり、六入は触のきっかけとなり、触は受のきっかけとなり、受は愛のきっかけとなり、愛は取のきっかけとなり、取は有のきっかけとなり、有は生のきっかけとなり、生は老死のきっかけとなる。このように思惟して、他のことを考えさせない。他にさまざまな対象を思ったのなら、それを摂めとってもとに戻らせなさい。
質問して言うことには、あらゆる智慧を持った人には、明があるが、あらゆる愚かな人には、明がない。このうち、明がないとはどのようなことか。答えて言うことには、明が無いというのは、あらゆるものを知らない、ということである。この中では明が無いということは、後の世の有を造ることになる。有るとは無いことであり、無いとは有ることであり、さまざまな善を捨てて、さまざまな悪を取る。実相を破って虚妄に執着する。たとえば、無明相品の中に次のように説いている。
白益の法を明らかにせず 道徳の業を知らず
結使の因を作ること あたかも火が鑽と燧とから生じるようなもの
悪法に心を染め 遠くに善法を棄て
生きとし生きる者の明を奪う賊 行ってしまった明もまた脅かされる
常・楽・我・浄の想いを 五陰の中に推し量り
苦・集・尽・道の法も また知ることができない
種々の悩ましく険しい道を 目の見えない人が中に入って行く
煩悩のゆえに業が集まり 業の故に苦しみが流れめぐる
取るべきでないものを取り 取るべきものをかえって棄てる
闇を馳しり非道を追いかける 株につまづき地に倒れる
眼があっても智慧が無い その譬えはまたこのようである
この因縁が滅するが故に 智の明らかであること 日の出るようなもの
このように要約して説いている。無明から老死に至るまでもまたこのようなものである。質問して言うことには、仏法の中の因縁は、とても深い。どうして痴の多い人が、因縁を観察することができようか。答えて言うことには、二種類の痴人がある。牛や羊のようなもの。二にはさまざまな邪見と痴と惑とに闇蔽された邪見の痴人である。仏はこの人のために「因縁を観察し、もって三昧を習うのがよい」と説いたのである。
第四 思覚を治す法門
もし思覚がひとえに多ければ、阿那般那三昧法門を学習するのがよい。三種類の学ぶ人がある。初めて学ぶ人、或いはすでに学び始めた人、あるいは久しく学んでいる人である。もし初めて学ぶ人であれば、次のように教えて言うのがよい。「一心に念じて入る息出る息を数えなさい。長いのや短いのや、一から十に至るまでを数えなさい。」と。もし既に学び始めた人ならば、次のように教えて言うのがよい。「一から十まで数えて息の出入りに随いなさい。念と息とをともに心の一処に止めなさい。」と。もし久しく学んでいる人ならば、次のように教えて言うのがよい。「数・随・止によって変化するのを観察し、清浄なることを観察しなさい。」と。
阿那般那三昧は六種類の法門であり、十六に分かれる。何を「数」と名付けるのか。一心に入る息を念じ、入る息が至り終わったならば一と数える。出る息が至り終わったならば、二と数える。もしまだ終わらない内に数えたら、「数」ではないとする。もし二から九に至るのを数えて間違ったならば、さらに一から数え起こしなさい。例えば数を数える人が一と一とで二とし、二と二とで四とし、三と三とで九とするようなものである。
質問する。どうして「数」であるのか。答える。無常観は得やすいからである。またさまざまな思覚を断じるからである。一心を得るからである。身心の生滅は無常であるけれど、相似相続して観察しがたいが、入る息出る息の生滅は無常であり知りやすく見やすいからである。
また心を数に繋げて、さまざまな思覚を断じる。思覚とは、欲しいという思覚、いかりの思覚、悩みの思覚、親しいという思覚、国土の思覚、死なないという思覚である。清らかな心で正しい道に入りたいと欲求する者は、まず三種類の麁の思いを取り除き、次に三種類の微細な思覚を取り除くのがよい。六つの覚を取り除き終わったら、一切の清浄の法を得るであろう。たとえば金を探し求める人が最初に麁い石や砂を取り除き、その後に微細な石や砂を取り除き、しだいに微細な金の砂を得るようなものである。
質問する。どのようなものを麁病とするのか。答える。欲と瞋りと悩みの覚であり、この三つを麁病と名付ける。親しい、国土と死なないという覚は、この三つを細病と名付ける。この覚を除き終えればあらゆる清浄なる法を得る。
質問する。まだ道を得ていない人は煩悩(結使)をまだ断じてはいない。六つの思覚が強く、心より乱れが生じる。どうして除くことができるのか。答える。心に世間を厭い、正しく観察すれば、遮ることができてもまだ抜くことはできない。後に無漏道を獲得して、
煩悩(結使)の根本を抜くことができる。何を正しい観察というのか。
欲の多い人を見れば求め欲するのは苦 これを得て守護するのもまた苦
それを失って愁い悩むのもまた大いなる苦 心に欲しいと思う時、満たされることのないのも苦
欲は無常であり空しく憂い悩みの原因 衆生には皆共に此がある、目覚めて棄てるのがよい
たとえば毒蛇が人の部屋に入るようなもの 急いで除かなければ害は必ず至ろう
定まらず実ならず貴重ならず 種々の欲求はひっくり返った楽
六神通をもった阿羅漢が 欲の思いを持った弟子を教誨して言うようなもの
汝は戒を破らなければ戒は清浄である 女性と一緒に同じ部屋に宿してはいけない
欲望という煩悩の毒蛇が心の部屋の中に満ち まといついて愛や喜びが互いに離れない
体に関する戒を壊してはいけない 心は常に欲望の火と共にあることを知ったからには 汝は出家であり道を求める人 どうして欲を恣にしてつまりは欲に身を任そうか
父母は汝を生み養い育てたのであり 親の恩愛はともに成就したのである
皆ことごとく涙を流し汝を恋慕し惜しむが 汝は棄て離れることができ顧みることもしない
しかし心はいつも欲望という思いの中にあり 欲とともに嬉び戯れ厭う心はない
常楽に対する欲の火は一箇所に共にあり 歓喜愛楽は暫くとても離れない
このようにさまざまに欲覚を叱り、このようにさまざまに正しく観察し欲覚を除くのである。
質問する。瞋恚の覚を除くとはどのようなことか。答える。
母の体内より生まれるのは常に苦しみ この中の衆生に瞋恚の悩みはない
もし瞋恚の悩みを思えば慈悲は滅びる 慈悲と瞋恚の悩みは互いに両立しない
汝が慈悲を思えば瞋恚の悩みは滅びる たとえば明るさと暗さとが同じ処を占めないようなもの
もし清らかな戒を保って瞋恚を思うのであれば この人は自らを壊し法の利益を破る
たとえば何頭かの象が水に入って水浴びをし 泥土を身に塗りつけるようなもの
あらゆるものには常に老いや病や死 さまざまな鞭や笞などの百千の苦しみがあり
どうして善人は衆生を思って また利益を加えるのに瞋恚の悩みをもってしよう
瞋恚を起こして彼を害せんと望めば その人に及ぶ前にまず自らが焼かれよう
このようなわけで常に慈悲を行じようと思えば 瞋恚という悪念は内には生まれない
人がいつも善法を行おうと思えば その心はいつも仏の念じたことを習うこと
このようなわけで不善を心に思ってはならない 常に善法や歓楽の法を心がけるのがよい
今の世に楽を得ればのちもまた同じ 道を得ることは常に楽であり涅槃
もし心に不善の覚が積もり集まれば、自然と自分の利を失いならびに他を害す
これを不善あれこれの失と謂い 他者が浄心を持っていてもまた滅ぼしてしまう
たとえば林中の道を行く人が 手を挙げて大声で叫べば盗賊が私を脅かすようなもの
ある人が質問していった。誰があなたを脅かすのか、と。答えて言う。財賊(財産に対する盗賊)は私は畏れない。私は財産を集めたり世間の利益を求めたりしない。誰に財賊があって私を犯すことができようか。私は善根やさまざまな法の宝を集めているが、覚観の賊がやって来たら、私の利を破るであろう。財賊は避けることができる。しまっておくところが多(ければ良)い。善をかすめる賊がやって来たら、避ける処はない。このようにさまざまに瞋恚を呵責する。このようにさまざまに正しい観察によって瞋恚の覚を除くのである。
質問する。悩みの覚を除くとはどういうことか、と。答える。
世間の衆生は百千種類 いろいろな病が交互につねにやって来ては悩ます
死賊(死という盗賊)は心のあれこれとうかがう働き(伺)を捕らえてはいつも殺そうとつとめ、無量の多くの苦しみは自然としずんでしまう
どうして善人はふたたび悩みを加えるのか 讒言や誹謗や謀害に慈しみや親しみはない
まだ彼を傷つけるに及んでいないのに身は損なわしめられる 俗人が悩みをおこすことは許されるべきこと
このことは世間の法であり悪業の原因 またみずから私は善を修すとは言わないもの
清浄なる道を求める出家の人が 瞋恚を生じて嫉みの心を懐き
清冷な雲の中に毒の火を放す この悪の罪はきわめて深いことを知るがよい
林間に住する人が嫉妬の心を興せば 阿羅漢あれば他心智あり
教え諭して激しく責めん汝はなんと愚か者 嫉妬でみずから功徳のもとを壊せりと
もし供養を求めるならば 自らさまざまな功徳のもとを集め身を荘厳するがよい
もし戒をたもたず禅をし多く聞くのであれば 虚仮の染衣が法身を壊すであろう
まことに乞食弊悪の人 どうして供養利身を求めてよいものか
飢えや渇きや寒さ暑さなど百千の苦しみ 衆生はつねにこのさまざまな悩みに苦しむのだ
心身の苦しみや災厄は窮まることがない どうして善人がいろいろな悩みを加えてよいものか
たとえば病気や瘡が有ったとき針で刺すようなもの また獄囚への罰がまだ決まっていないようなもの 苦しみや災厄が身にまとわりつき多くの悩みが集まる どうして慈悲がさらにそれらを甚だしくして良いものか
このように種々に悩みの覚を呵責し、このように種々に正しく観察して悩みの覚を除くのである。
質問する。親里の覚を除くとはどのようなことか、と。
答える。このように考えるのがよい。世界の生死の中には、自分の行いの縁が牽くのである。親とは何か。親ではないとは何か。ただ愚痴のためにほしいままに執着の心を生じ、あれこれと考えて私の親であるとする。過去世には親で無かったものを親であるとし、未来世には親でないものを親であるとする。今世には親であっても過去世には親ではない。たとえば鳥が住んでいて暮れには一本の樹木に集まり、朝には飛んでそれぞれが縁に随って行ってしまうようなもの。家族、親里もまたこのようなものである。世界の中に生じ、各々が心を異にし、縁が会するので親となり、縁が散ずるので疎となるのであって、定まった実の因・縁・果報があってともに親近するのではない。それは、たとえば乾いた砂が手でまるく握られるようなものであり、ぎゅっと掴むことによって合わさり、放つことによって散じる。父母は子を養い、年老いて果報を得ようとする。子は抱きしめられ養育されるので報いに応じる。もしその意に順えば親であり、その意に逆らえば賊である。親が利益を与えることが無くかえって害を与えることがあったり、また親でなくても損なうことなく大いに利益を与えることがある。人は因縁のために愛を生じ、因縁を愛するがためにさらに断じたりする。たとえば絵師が婦女子の像を描き、かえってみずからそれに愛着するようなものである。これもまた同じようなもの。自ら染着を生じさせ、そして外に染着する。過去世において汝には親里があったが、今世、汝においては何をなすというのか。汝もまた過去の親を益することはできない。過去の親も汝を益することはできない。両方ともに互いに益さない。むなしくこれを考えて、親である親でないとしている。世界中、定まらず無辺なのだ。阿羅漢が、出家したばかりの親が恋しい弟子に言うようなもの。たとえば悪人が食を吐き、さらにまた食べようとする。汝もまた同様である。汝はすでに出家したのであり、どうしてまた愛着しようとするのか。剃髪して墨染めの衣を着ているのであり、解脱の相なのである。汝が親里に執着すれば、解脱を得ることはなく、かえって愛に繋がれる。三界は無常であり、流転して定まらない。もし親とか親ではないとか、今は親里であっても久しい時間が経てば滅する。このように十方の衆生は回転しており、親里に定まりは無く、私の親ではないこともあるのだ。人がまさに死ぬ時には、心もなく識もなく、まっすぐに見るのみで目は動かず、気を閉じ命が絶えるのであり、それは暗い穴に落ちるようなもの。この時、親里や家族は一体どこに在るというのか。もし初めて生まれる時には、前の世には親ではなかったが、今、しいて和合して親となったのだ。もし今まさに死ぬ時には、また親ではない。このように思惟して、親に執着してはならない。もし人の子が死ねば、一時に三処であり、父母は一緒に激しく泣きじゃくり、天上の父母や妻子を迷わせる。人中もまた迷い、龍の中の父母もまた迷うのである。このように種々に正しく観察し、親里の覚を除くのがよい。
質問する。国土の覚とはどのようなものか、と。答える。行者がもしこの国土は豊かで安穏であり、良い人が多いと思うのであれば、常に国の思覚という縄に牽かれるところとなる。罪処を去ろうとすれば、覚心とはこのようなものである。もし智恵が有る人ならば、念著すべきではない。どうしてか。国土は種々の過罪に焼かれるところである。時節が転じるからである。また飢饉がある。身体がとても疲れるからである。あらゆる国土は、常に安心があるというわけではない。次に、老病死の苦は国として無いところはない。この世間の身苦から去って、彼の場所の身苦を得る。あらゆる国土は、去っても苦でないものはない。たとい国土の安穏豊楽があっても、煩悩の悩みがあり、心には苦しみや憂いが生じる。これは良い国土ではない。雑悪の国土を除くことができ、結使を薄くすることができ、心を悩ませない。これを良い国土という。あらゆる衆生には二種類の苦しみがある。身苦と心苦である。いつも苦悩があり、国土としてこの二つの悩みのないところはない。また国土の大いなる寒さがあり、国土の大いなる暑さがあり、国土の飢餓があり、国土の多病があり、国土の多賊があり、国土の王法が筋道だっていないことがある。このような種々な国土の悪は、心に執着してはいけない。このように正しく観察し、国土の覚を除くがよい。
質問する、不死の覚を除くというのはどういうことか、と。答える。行者に教えるがよい。良い家に生まれても、もしくは種族の子や才能、技術や力勢の勝れた人であっても、一切、考えてはいけない。何故か。あらゆるものは、死ぬとき、老少貴賤、才技力勢を見ない。この身体は、あらゆる憂いや悩みの諸因縁の本である。自ら少ない寿命や多い寿命を見て、もし安穏をえるのならば、これは痴人である。何故か。これが憂いや悩みだからである。もとはこの四大に依る。四大は形有るものを作る。四匹の毒蛇のようなものである。共には相応しない。誰が安穏を得ようか。出る息は入るのを期待するが、信じてはいけない。
また、人が寝ているときに、目当てをつければ必ず目が覚める。この事は信じがたい。受胎から老死に至ることは恒にやってくるのであり、死を求める時節には、恒に不死を言う。どうして信じることができようか。たとえば殺戮を事とする盗賊が、刀を抜いて弓矢を注ぎ、いつも人を殺そうと求めて憐れみの心がないのと同じようなもの。人の生きる世間には、死の力が最大であり、あらゆるものは死の力の強いのに勝るものはない。たとえば過去世の第一の素敵な人も、この死を脱することのできる人はなく、現在もまた大智の人で死に勝る者は無い。また優しい言葉を求めるのでもなければ、巧みな言葉で欺くのでもなければ、避け脱することができようか。また持戒精進でなければ、この死を斥けることができようか。このようなわけで、次のように知るのがよい。人は常に危うく脆く、頼みになるものとして頼ってはいけない。いつものことと考えて私の命は久しく生きると信じてはいけない。このさまざまな死賊たちは、いつも人を連れて行くのである。老が終わるのを待ちそれから殺すのではない。たとえば、阿羅漢がさまざまな覚に悩んでいる弟子に言う、「汝はどうして世を厭いて道に入ることを知らないのか、どうようなわけでこの覚をなすのか。」と。人にはまだ生まれないときに死んでしまう者が有る。生まれる時に死んでしまう者が有る。乳を飲む時もある。乳を断つ時がある。小さな子供の時がある。盛壮の時がある。老いる時がある。あらゆる時の中間に、死という法界がある。たとえば樹木の花のようなもの。花の時に落ちるものもある。果実になった時に落ちるものもある。まだ熟していない時に落ちるものもある。このようなわけで、次のように知るのがよい。
「勤めはげんで精進し、安穏の道を求めれば、大力の賊が共に住しても信じることができない。この賊は虎のようなもので巧みに身体に覆い隠れている。このように死賊は、いつも人を殺そうとしているのだ。」と。世界の所有は空しく水に生じる泡のようなもの。どうして時を待って道に入るなどと言うことができようか。いったい誰が「汝は年老いて道を行うことができるだろう」と証言することができようか。たとえば、それは険しい岸の大きな樹木の、上は大風が吹き下は大水があって、その根土を崩しているようなもの。誰がこの樹木が久しく長らえることができると信じようか。人の命も同様である。(しかし)若いときには信じることができない。父は穀物の種のようなもの、母は良い田のようなもの。先の世の因縁や罪福は雨のうるおいのようなもの。衆生は穀物のようなもの。生死は収め刈り取るようなもの。種々の天子たちや人間の王の知徳は、天王が天を助けて阿修倫の軍を打ち破るようなもの。種々の受楽は、きわめて高大にして明らかであっても、かえって黒闇に沈むもの。このようなわけで、命が活きるとの言葉を信じてはいけない。私は今日、このことをなそう、明日にはこれをしよう。このように正しく観察し、さまざまに不死の思いを除却する。このようにまず粗い思覚を取り除き、その後にこまかい思覚を取り除く。心は清浄であり、正しい道を生まれながらに獲得している。あらゆる煩悩が尽きれば、これより安穏の場所を獲得する。これを出家の果報という。心は自在を獲得する。三業の第一は清浄であり、ふたたびは胎を受けることはない。さまざまな経典を読み、多く聞く。この時、果報を得る。このように得る時には空しくはない。魔王の軍を破り、そして第一の勇猛という名称を得る。世界中の煩悩はまさに去ろうとするが、これを健とは名付けない。煩悩の賊を破り、三毒の火を滅ぼし、涼しく楽しく清浄であり、涅槃の林の中に安穏として高枕し、さまざまな禅定の根力、七覚支の清らかな風が四方より起こり、生きとし生きるものが三毒の海に沈んでいるのを心にかけて思念する。不思議な力はこのようである。つまりは健と名付ける。このような散心は、阿那般那を念じて六種類の法を学んでさまざまな思覚を断じるのがよい。このようなわけで数息を念じるのである。
質問して言うことには、もしそれ以外の不浄や念仏などの四つの観でもまた思覚を断じることができるのならば、どうして独り数息というのか、と。答えて言うことには、それ以外の観法は、ゆるやかであり失いがたいからである。数息の法は、急であり移りやすいからである。それはあたかも牛を放つようなもの。牛は失い難いので、これを守ることに少事である。もし獼猴を放てば、失いやすいのでこれを守ることに多事である。これもまた同様である。数息や心数は、僅かな時間と他を思うことがない。僅かな時間と他を思うのであれば、数えることを失う。このようなわけで始めに思覚を断じるのに、数息をするのがよい。数息の法を得終わったならば、随法を行って、さまざまな思覚を断じるのがよい。入る息がいたり終わったならば、くれるに随って一と数えるのがよい。出る息がいたり終わったならば、くれるに随って二と数えるのがよい。それはあたかも負債人と債権主のようなもので、後を追いかけるに随って、最初は捨離しない。
このように思惟しなさい。この入る息はまた出てきて、さらに異なりがあるのだ。出る息はまた入ってきてさらに異なりがあるのだ、と。この時、入る息は異なり、出る息も異なると知るのである。どうしてか。出る息は暖かく、入る息は冷たいからである。
質問して言う。「入る息出る息は、一息である。どうしてか。出る息がかえってさらに入るからである。たとえば口に含んだ水が温かく、吐いた水が冷たいようなものである。冷たいのはかえって暖かく、暖かいのはかえって冷たいからである」と。
答えて言う。「そうではない。内心が動くので息の出ることがあり、出終わったらすぐに滅する。鼻や口が外を引けば、息の入ることがある。入るので息が滅するのである。
まさに出ようとすることもなく、まさに入ろうとすることもない。
また若い者と壮年の者と老人がいる。若い者は入る息が長く、壮年の者は入る息と出る息とが等しく、老人は出る息が長い。このようなわけで一息ではない。またへその辺りに風が発して、互いに似て互いに継続する。息が出て口や鼻の辺りに至る。出終わってそこで滅する。たとえばふいご袋の中の風が、開く時にはすぐさま滅するようなものである。もし口や鼻の因縁によってこれを引くのであれば、風が入る。これは新しい因縁から生じたものである。たとえば、扇のさまざまな因縁が合わされば、そこで風が有るようなものである。この時に、入ったり出たりする息の因縁を知って虚誑や真実でないこと、生滅や無常があるのだ。このように思惟するのがよい、出る息は口や鼻の因縁によって引くのであり、入る息の因縁があって心が動いて生ぜしめるのである。ところが迷う者は、知らないで自分の息とするのである。
息とは風である。外の風と異なることはない。地、水、火、空もまた同様である。これは五大の因縁が合するので識が生じるのである。識もまた同じようなものである。私が有するものではない。五陰、十二入、十八界も同様である。このようにこれを知り、息の入るのや息の出るのを追いかける。このようなことで随と名づけるのである。随の法を得終わったなら、まさに止の法を行うのがよい。止の法は、数や随の心が極まり、意を風門に住せしめ、入る出るの息を思うことである。
質問して言う。どのようなわけで止なのか、と。答えて言う。さまざまな思覚を断じるからである。心が散乱しないからである。数、随をもって息をする時は、心は定まらない。心にめまぐるしいことが多いからである。止であれば、心は閑かである。ことが少ないからである。心が一所に住するからである。息の出入りを思うことは、たとえば門を守る人が門の周辺に居住し、人の出入りを観るようなものである。止の心もまたそのようである。息が出る時には臍の中心、胸、咽から口、鼻に至り、息が入るときには、口、鼻、咽、胸の中心より臍に至ることを知る。このように、心を一箇所につなぎ止めること、これを止と言うのである。
また心の止の法のうちに観に住する。入る息の時に五陰の生滅は異なり、出る息の時に五陰の生滅は異なる。このように心が乱れるときには取り除き、一心に思惟し、観を増長させなさい。これを名づけて観の法とする。風門を捨てて、麁を離れた観の法に住する。麁を離れた観の法によって息の無常を知る、これを転観と名づける。五陰の無常を観察し、また入る息出る息の生滅や無常を思い、最初の始まりの息がよって来るところが無いことを見て、次に後の息もまた跡づける処がないと観察する。因縁が合するので有り、因縁が散ずるので無い。これを転観の法と名づけ、五蓋やさまざまな煩悩を除き滅ぼすのである。先に止や観を得るといっても、煩悩や不浄の心が入り交じっている。今、此の浄法によって、心はひとり清浄を得るのである。
また、前の観は、行道に相い似ているものを学び、息の入ることや出ることを思うことに異なるが、今の無漏道は、善を行う有漏の道に相い似ている。これを清浄という。また始めの観は、身体に関する念の止の分である。次第に一切の身体に関する念が止み、次に痛みの心の念が止む。このなかでは清浄ではない。無漏の道が遠いからである。今の法は、止の念の中に、一六行を観じ、入る出るの息を念じて、煖法、頂法、忍法、世間第一法、苦法忍、乃至無学の尽智を獲得する。これを清浄と名づける。この十六分のうち、初めの入る息の分は、六種類の阿那般那行である。出る息の分も同様である。一心に息の入ったり出たりするのが長かったり短かったりするのを念じる。たとえば人が怖れて山を走り上がるのが、重荷を背負ったり上気しているようなものである。このようなものを息が短いのであるとする。
もし人が時を極めれば、安息を得て歓喜する。またそれは、利を得て獄中より出るようなものである。このようなものを息が長いとする。あらゆる息は二つの場所に随う。長い処、短い処である。このようなわけで息が長い、息が短いというのである。この中でまた阿那般那の六事を行う。息が身体に遍満すると念じ、また息の出入りを念じ、ことごとく身体のなかの、この出る息や入る息を観察する。身体の中から足の指に至るまでにあまねく至るのを観察する。さまざまな毛穴にあまねくのは、あたかも水が砂に入るようなものである。息が出るのも、足より髪に至るまでさまざまな毛穴にあまねくのを覚知するのは、あたかも水が砂に入るようなものである。たとえば、袋の出入りが皆、満ちるようなものである。口や鼻の風の出たり入ったりもまた同様である。身体にあまねく行き渡るのを観察し、風のいく所を見るのは、あたかも蓮根の穴のようなものであり、また魚の網のようなものである。また心は、ひとり口や鼻のみで息の出入りを観察するのではなく、あらゆる毛穴や九孔の中にまた息の入るのや息の出るのを見るのである。このようなわけで、息がこの身体にあまねくことを知り、この身体の行いを除き、また入る出るの息を念じるのである。
初めて息を学ぶときに、もし身体が懈怠であり眠気があり身体が重いのであれば、ことごとくそれを除去しなさい。身体が軽く柔軟であり、禅定に随うならば、心は喜びを受け、また息の入る出るを観察しなさい。懈怠や眠気や心の重いのを除き、心が軽く柔軟を得て、禅定に随うのであれば、心は喜びを受ける。
また、身念の止の中に入り終わったならば、次に痛念を行い、止み終わったならば、身念の止が得られる。まことに今、さらに通念の止むことが得られれば、まことに喜びを受ける。また、身体の真実の姿を知ったならば、今は、心と心数法の真実の姿を知ろうとする。このゆえに喜びを受ける。また息の入る出るを念じて楽を受ける。また息の出る入るを念じることは喜が増長することであり、楽と名づける。また、初心の中に心の解放が生じることを喜びという。後に身体にあまねいた喜びを楽と名づける。また、初禅、二禅中の楽と痛とを喜びと名づける。三禅中の楽と痛とを楽を受けると名づけ、さまざまな心行を受け、また息の入る出るを念じる。さまざまな心の生滅する法、心染の法、心不染の法、心散の法、心摂の法、心の正法、心の邪法、これらのさまざまな心の相を心行と名づける。心が喜びを作るとき、また息の入る出るを念じ、まず喜びを受ける。自然と生じることがないので、心を念じることをなすので、喜びをなすのである。またもし心が解放されないのであれば、勧めてがんばらせて喜ばしめなさい。心が収め取ることをするときには、また息の入る出るを念ずる。たとえ心が定まっていなくても、無理矢理にねじ伏せて定まらせる。たとえば経典の中には次のように述べている、「心が定まることが道であり、心が散乱することは道ではない」と。心が解脱をなすときには、また息の入る出るを念じる。もしも意が解きほぐされないのならば、無理矢理にねじ伏せて解きほぐしなさい。たとえば羊が蒼耳(植物の名)の草むらの中に入り、蒼耳が体に付くようなものである。人は次第次第にこれを脱出する。心は解脱をなし、さまざまな煩悩の結もまた同様である。これを心念が止まり、解脱がなされると名づける。無常を観じ、また息の入る出るを念じる。さまざまな法が無常であり生滅し空であり吾我がないことを観ずる。生じる時にはさまざまな法は空にして生じ、滅する時にはさまざまな法は空にして滅する。この中には男もなく女もなく、人もなく作すこともなく受けることもない。これを無常に随う観と名づける。
有為法の出散を観察し、また息の入る出るの無常を念じる。これを出散と名づける。さまざまな有為法は現世中にでる。過去からの因縁が和合するので集まり、因縁が壊れるので散じる。このように、なるがままに任せて観察すること(随観)を出散観と名づける。
欲望や煩悩を離れることを観じ、また息の入る出るを念じる。心は煩悩を離れる。この法が第一である。これを欲を離れるに任せた観(随離欲観)と名づける。
尽きることを観じ、また息の入る出るを念じる。さまざまな煩悩の苦しみは、あらゆる所において尽きる。この場所は安穏であり、これを尽きることに任せた観(随尽観)と名づける。
棄捨することを観じ、また息の入る出るを念じる。さまざまな染愛や煩悩、身心の五陰、さまざまな有為法を棄捨する。これは第一の安穏である。このように観察することを法に任せた意の止まる観察(随法意止観)と名づける。これが十六分である。
第五 等分を治す法門
第五の法門は等分を治める行である。重罪に及んだ人は仏を探し求める。このような人などには、教えて一心にを仏を念じる三昧を教えるのがよい。念仏三昧には三種類の人がある。あるいは初めて習う者、あるいは習いつつある者、あるいは久しく習っている者である。
もし初めて習う者の人ならば、仏像のところに率いて至らしめなさい。あるいは自ら行って、仏像の相好をつまびらかに観察するようにさせなさい。それらの相が明らかになったのならば、一心に取り持って静かな所に戻って至り、心の目をもって仏像を見させなさい。心を次々に移らないようにさせ、念を像につなぎ止め、他を思わせない。他念によってこれを合わせ取るのであれば、常に像に(念を)あらしめなさい。もし心がじっと止まらないのであれば、師は教えて言うがよい、「汝は心を責めるのがよい。汝の受ける罪をはかり数えることができないことに由る。際限の無い生死や種々の苦悩を更に受けないということはない。もし地獄にあれば薄く広げられた銅を飲み込み、焼けた鐵のかたまりを食べ、もし畜生に在れば糞を食べ草をはみ、餓鬼に在れば飢餓の苦しみを受け、もし人間の中に在れば貧窮困厄し、もし天上に在れば欲を失い憂い悩む。いつも汝に随うのであるから、私にこの種々の身体の悩み、心の悩み、無量の苦悩を受けさせる。今、汝を制するのがよい。汝は私に随うのがよい。私は、今、汝を一所に繋ぎとめよう。私は、決して二度と汝のために困らせられない。さらに苦という毒を受けるのである。汝は、いつも私を困らせる。私は今、必ず事をもって汝を困らせよう。」と。このように止まずして心が散乱しなければ、この時に心眼を得て、仏像の相や光明を見るのである。目の見るところのごとく、異なりがあることはないのである。このように心が住すれば、これを初めて習う者の思惟と名づける。この時、さらに念じて言うのがよい、これは誰の像の相であるか、と。すなわちこれは過去の釈迦牟尼仏の像相である。もし私が今、仏の形像を見るのならば、像もまた来ないし私もまた往かない。このような心の想いをもって過去の仏を見ると、初めて霊力が地上に降りた時に天地を震動させ、三十二の大人の相があった。
一には足の下が安平にして立つ。二には足の下に千輻輪がある。三には指が長く好い。四には足の跟が広い。五には手足の指が合わさり縵網である。六には足趺が高く平らで好い。七には伊尼延鹿[蹲-酋+(十/田/ㄙ)]のようである。八には平らに住して手が膝を過ぎる。九には陰馬藏相である。十には尼盧陀のような身である。十一には一一の孔に一一の毛が生じている。十二には毛が上向に生じ右に旋じている。十三には身色がすぐれた金色をしている。十四には身光の面が一丈ある。十五には皮が薄好である。十六には七處が満ちている。十七には兩つの腋下が平らかで好い。十八には上身が師子のようである。十九には身が大きく好く端直である。二十には肩が円好である。二十一には四十歯がある。二十二には歯は白く齊密等にして根が深い。二十三には四牙が白くて大きい。二十四には頰は四角で師子のようである。二十五には味は中でも上味を得る。二十六には舌は大きく広長にして薄い。二十七には梵音が深遠である。二十八には迦蘭頻伽の声をしている。二十九には眼は紺青色である。三十には眼睫は牛王のようである。三十一には頂髮に肉骨がある。三十二には眉間の白毛は長好で右旋する。
復次た八十種の小相がある。一には頂を見ることがない。二には鼻が直高で好く孔が現われない。三には眉が初生月のようで紺琉璃色をしている。四には耳が好い。五には身は那羅延のようである。六には骨際が鉤鎖のようである。七には身が一時に迴ること象王のようである。八には行く時に足が去ること地より四寸にして印文が現われる。九には爪は赤銅のようで色は薄く潤沢である。十には膝が円好である。十一には身は浄潔である。十二には身は柔軟である。十三には身は曲らない。十四には指が長く円かで纖細である。十五には指紋は画のようで雑色で荘厳である。十六には脈は深く現われない。十七には踝は深く現われない。十八には身は潤い光沢がある。十九には身は自ら持ちぐったりと力が抜けることがない。二十には身は満足(三月に受胎し二月に生まれる)している。二十一には容儀が備足する。二十二には住處が安らか(牛王が立ちて不動のよう)である。二十三には威を振るうこと一切にである。二十四には一切を楽に観る。二十五には面が長すぎない。二十六には正しく容貌が撓色ではない。二十七には脣は頻婆果の色のようである。二十八には面が円満である。二十九には響声は深い。三十には臍は円かにして深く出ていない。三十一には毛は處處に右旋する。三十二には手足が満ちる。三十三には手足は如意(旧には外握というのはこれである)である。三十四には手足の文様が明直である。三十五には手の文が長い。三十六には手の文が断ちきれていない。三十七には一切の悪心の衆生で見るものも皆、和悅の色を得る。三十八には面が広く姝らかである。三十九には面は月のよう。四十には衆生の見るものが怖れず懼れない。四十一には毛孔より香風が出ている。四十二には口より香氣が出ており衆生の遇う者は法を楽うこと七日である。四十三には儀容は師子のようである。四十四には進止は象王のようである。四十五には行法は鵞王のようである。四十六には頭は磨陀羅果のよう(此の果は円ならず長からず)である。四十七には声分が満足している(声には六十種の分があり仏は皆、具足する)。四十八には牙が鋭い。四十九には(漢名が無いので出すことができないのである)。五十には舌が大きく赤い。五十一には舌が薄い。五十二には毛が純紅であり色色は浄潔である。五十三には広くて長い眼である。五十四には孔門が満ちている(九孔の門は相い具足し満ちている)。五十五には手足は赤白で蓮華色のようである。五十六には腹は見えないし出てもいない。五十七には凸腹ではない。五十八には不動身である。五十九には身が重い。六十には大身である。六十一には身が長い。六十二には手足が満ちていて浄らかである。六十三には四辺に大光が遍満し光明が自ら照して行く。六十四には衆生を等しく視る。六十五には教化に執着せず弟子を貪らない。六十六には衆の声に随って満ち、減ることもなく過ぎることもない。六十七には衆の音声に随って説法をする。六十八には語言は無礙である。六十九には次第に相続して説法する。七十にはあらゆる衆生の目でつまびらかに相を見ても知り尽くすことはできない。七十一には視て厭足することがない。七十二には髮が長くて好い。七十三には髮が好い。七十四には髮が乱れない。七十五には髮が破れない。七十六には髮が柔軟である。七十七には髮が青く毘琉璃色である。七十八には髮が絞り上げられている。七十九には髮が稀ではない。八十には胸に徳の字が有り、手足には吉の字が有る。
光明が無量の世界をつらぬき照らし、初めて生れて七歩進んで口を開いて肝要な言葉を演ぜられた。出家し苦行に勤め、菩提樹の下に魔軍を降伏し、後夜に初めて等正覚を完成されたことを明かした。光の相は分明であり、遠く十方を照らして周遍しないところはない。諸天は空中に弦や歌をもって供養し、華を散らし香りを放った。あらゆる衆生は咸く敬すること無量であった。獨り三界を歩き、また身をひるがえし顧みることは、象王が迴るごとくであった。道樹を観察し初めて法輪を転ぜられた。天人は悟りを得て道をもって自ら証得し涅槃に至る。仏の身はこのように感発すること無量である。仏を念じることに専心し、ほかを念ぜしめない。ほかにさまざまな縁を念じるのであれば、また之をして戻らせなさい。このように乱れなければ、この時にはすらりと一仏、二仏、乃至十方の無量の世界の仏たちの色身をみることができよう。心の想いであるので、皆、之を見ることができる。仏に見え、又、説法の言を聞くことができたからには、あるいは自ら質問することを願う。仏は法を説かれさまざまな疑網を解かれた。仏を念じることができたからには、まさに仏の功徳、法身を念じるのがよい。無量の大慧、崖の無いような智は、数えることができない徳である。多陀阿伽度(多陀とは秦には如と言う。阿伽度は解と言いまた実語と言う。又、諸餘の聖人が安隱道より来るを言う。仏はかくのごとく来たり、復次た更に来たらず、後有の中に、である。) 阿犁(魯迷の反し。)呵(阿犁とは秦に賊と言う。呵とは殺仏を言う。忍辱を鎧とし、精進を堅牢とし、禅定を弓とし、智慧を箭とする。憍慢等の賊を殺すので殺賊と名づける。) 三藐(無灼の反し。)三仏陀(三藐とは秦には真実と言う。三仏陀は一切覚と言う。苦の原因を覚り、涅槃の因を習い、正しい理解を導き、四つの真実を見ても、移り終わったとすることはできない。無餘を尽くすので、真実覚一切と言う。) 鞞伽(除夜の反し)遮羅那(鞞伽とは秦には明と言う。遮羅那は善行明と言う。三明である。清浄の行を行う。これによって獨り無師の大覚を完成させるので明善行と言うのである。) 三般那(秦には満成と言う。)宿伽陀(秦には善解と言う。亦、善自得と名づける。又、善みに説いて患い無しと言う。) 路伽憊(皮拜の反し。路加とは秦には智と言う。智とは世の因を知る。道を尽くすことを知るので世智と名づける。世智とは世を知ることである。) 阿耨多羅(秦には無上と言う。善法聖智によって示導する一切の大徳や、無量の梵魔、衆聖でも及ぶ者はない。ましてや仏の尊徳の大いなることに過ぎる者があろうか。だから無上と言う。) 富樓沙曇藐(富樓沙は秦には大丈夫と言う。曇藐は可と言う。可と言うのは、丈夫、調御師を教化することである。仏は、大慈大悲大智をもっているので、時には軟美の語が有ったり、時には苦切の語が有ったり、或いは直接に教えたりする。此の調御によって、道を失わせない。だから、仏を可化丈夫調御師と名づけるのである。) 舍(賒音)多(都餓の反し)。提婆魔[少/兔]舍喃(奴甘の反し。秦には天人と言う。師はことごとく一切の人の煩悩を解脫させることができ、常に不退の上法に住する。) 仏婆伽婆(過去未来現在の行不行によって、行の盡不盡を知り、一切の諸法を菩提樹下にすべて了了として知る。だから仏婆伽婆と名づける。言に大いなる名声が有る。復次た、婆は女根を名づける。婆は吐を名づける。永久に女根を棄てるので、女根を吐くのである。)
爾の時に復た二仏の神徳、三、四、五仏、乃至無量の虚空を尽くした世界を念じる。皆ことごとくこのようである。復たもどって一仏を見れば、一仏が十方の仏に作ることを見ることができるし、十方の仏が一仏になることを見ることができる。一つの色を金、銀、水精、毘琉璃の色にさせることができる。人の願いに随って、ことごとくこれを見させる。
爾の時に惟だ二つの事を観ずる。虚空の仏の身も仏の功徳も、さらに念を異にすることがない。心は自在を得て意は馳散しない。是の時に念仏三昧を完成させることができる。もし心が馳散して、念が五塵に在れば、もし六覚に在れば、まさに自らその心を勗勉剋勵し、むりにでも之を制し表に出ないようにする。このように思惟する人は、身に仏法を得ることも難しく遇いがたい。だから多くの明には日が最も良いとし、さまざまな智には仏が最も良いというのである。それは何故か。仏は大悲を興し、いつも一切となるからである。頭目髄脳によって衆生を救済する。どうして放心し念仏に専念せず、一人重恩を負うことが出来ようか。もし仏が世に出ないのであれば、すなわち人道、天道、涅槃の道は無かった。もし人が香りや華で供養するならば、骨肉や血髄によって塔を起て供養するならば、上述のようではない行人が法によって供養するならば、涅槃に至ることができる。そうであるといっても、やはり仏恩に負っている。たとい仏を念じて空で獲るところがなくても、やはり心に勤めて専念して忘れず、仏恩に報いるのがよい。ましてや仏を念じてさまざまな三昧や智慧を得て仏を完成させて、しかも専念しないことがあろうか。このようなわけで、行者は、常に専心して意を散らさないのがよい。仏に見えることができた以上は、疑うところを質してほしい。これを念仏三昧によって等分およびその他の重罪を除滅すると名づけるのである。
坐禅三昧経巻上


