大乗道次第テキスト・菩提道灯論

インドの言葉でBodhipathapradīpa、チベットの言葉でByang chub lam gyi sgron ma。

菩薩文殊師利法王子に礼拝する。

三時における一切の勝者、その法、僧に大いなる敬意を以て礼拝し、善良なる弟子のチャンチュプ・ウーの請願により『菩提道灯論』を明らかにしよう。

下位の人・中位の人・最上位の人の三種を知るべきである。それらの特徴を明らかにする各々の区別を著述しよう。

何らかの方法で輪廻の安楽のみを自己のために求める者は下位の人と知るべきである。

生存の安楽に背を向け、罪業から退くことを本性とし、自己の寂静のみを求める人は中位といわれる。

自らの相続に含まれる苦しみにより、他者のすべての苦しみを完全に尽くすことをもっぱら望む人が最上位である。

最高の菩提を望む善き衆生たちに対して師たちが説いた正しい方法を解説しよう。

仏画などや仏塔、正法に向かい、花や香や物といった持てるもの全てによって供養すべきである。『普賢行願讃』に説かれている七種の供養もなすべきである。

菩提座に至るまで不退転の心により三宝を篤く信奉し、膝を地につけ、合掌してから、最初に帰依を三度為すべきである。

そして一切の衆生に対する慈しみの心を先行させることで、三悪趣に生まれることなどや死ぬことなどによる苦しみを備えた衆生を残りなく見て、苦しみによる苦しみ、および、苦しみと苦しみの原因から衆生を解脱させたいという願望により、退くことなく誓願の菩提心を起こすべきである。

そのように誓願心を起こした功徳は、『入法界品』に弥勒が詳細に説いている。(24b2)

それに基づいて経典を読誦し、あるいは師から聴聞し、完全なる菩提心の功徳が限りないことをよく理解し、そして原因として、そのように繰り返し心を起こすべきである。(25a2)

『勤授長者会』にこの福徳がよく示されている。そのなかで、ただ三偈に要略されているものをここに記載しよう。菩提心の功徳をもし形あるものとして考えるならば、空間をすべて満たし、それ超えるものとなるだろう。ガンジス川の砂の数ほどの仏国土をある人が宝石で遍く満たして世間の守護尊に捧げるよりも、ある者が合掌して菩提に心を向けるならば、この供養はとりわけ優れたものとなり、それ(菩提心)には限りがない。(25b5)

誓願の菩提心を起こしたら多くの努力によりもっぱら増大させるべきであり、これを他の生涯でも心に止めておくために、説かれている通りの学処をもよく護る。(26b5)

発趣心を本性とする律儀なしでは正しい誓願は増大することはない。完全な菩提の誓願を増大させたいと願う者は、そのために努力によりこれ(律儀)を必ず受けるべきである。

七種の波羅提木叉といった常に別の律儀を具えているものに菩薩の律儀の福徳があるのであって、その他にはない。(27b6)

七種の波羅提木叉として如来がお説きになったなかで、梵行が最上であり、比丘の律儀とお考えになっている。

『菩薩地』「戒品」に説かれている儀軌により、正しい相を具えた善い師から律儀を受ける。

律儀の儀軌に精通し、自分自身が何らかの律儀に住し、律儀を授けることに耐え、悲を具えた善い師を知るべきである。

そのために努力してもこのような師を得られないならば、[どうすべきか。]その他の律儀を受ける儀軌を正しく説明しよう。(31a1)

そこで、過去世に文殊師利が普覆王となって菩提心を起こしたことが『文殊仏土厳浄経』に説かれているように、そのようにここでよく明らかに記す。(31a3)

守護尊たちの御前にて完全な菩提に発心し、一切衆生を導くことを希求し、彼らを輪廻から救う。

害心や怒りの心、吝嗇、嫉妬を今後菩提を得るまで起こさない。

梵行を行じるべきであり、罪過と貪欲を断じるべきである。戒律に歓喜して仏に従って学ぶべきである。(32b3)

自分自身は速やかな方法で菩提を得ることを喜びとせず、一人の衆生のために、後の際限まで住すべきである。(33a2)

無限で不可思議な仏国土を浄化すべきである。名称により把握させ、十方に止まらせる。

自分の身と口の行為をあらゆる点で清浄にすべきである。意の行為も清浄にすべきであり、不善の行為も為すべきではない。

自身の身と口と心を浄化する原因となる発趣心を本性とする律儀に住することで、戒の三学処に対して尊敬が大きくなる。(33b1)

それにより清浄で完全な菩薩の律儀である諸々の律儀[を護ることに]努力することで、完全な菩提のための資糧が成就することになる。(34a4)

福徳と智慧を自性とする資糧を成就する原因を、一切の仏は神通を起こしたものであるとお考えになる。

翼を広げられない鳥は空を飛ぶことができないように、神通力を離れた者は衆生利益することができない。

神通を具えた者による一昼夜の福徳は、神通を離れた者には百回生まれても存在しない。

速やかに完全なる菩提のための資糧を成就させようとする者は、それにより努力して神通が成就するのであって、怠惰によってではない。

止が成就していないのに神通が生じることはない。それゆえ、止を成就させるために繰り返し努力すべきである。

止の支分が失われることで、大変努力して数千年にわたって修習しても、三昧は成就しないであろう。(36b5)

それゆえ『三昧資糧論』に説かれている支分によく住し、いずれか一つの所縁に善い意識を止めるべきである。

瑜伽行者が止を成就したならば、神通も成就するだろう。智慧波羅蜜の行を離れては障害が尽きることはない。

それゆえ、煩悩障と所知障を残りなく断じるために、智慧波羅蜜と方便を伴う瑜伽行を常に修習すべきである。(38b1)

方便を離れた智慧も智慧を離れた方便も束縛であると説かれているため、両者とも放棄すべきではない。

智慧とは何か、方便とは何かという疑念を断じるため、諸々の方便と智慧の正しい分類を明らかにしよう。

智慧波羅蜜を除く布施波羅蜜をはじめとするすべての善法を勝者たちは方便であると説かれた。

方便を修習することで自身は智慧を修習する。それによって菩提を速やかに得るのであって、無我だけを修習することによって[菩提を速やかに得るの]ではない。(40a1)

「諸々の蘊・界・処が生じない」と理解していることを伴って「自性に関して空である」と知ることが智慧であると説かれた。

「存在しているものは生じる」というのは道理ではない。存在していないものも空華のようなものである。両者の過失となってしまうので、両者とも生じることはない。

事物は自身から生じない。他のものからも、両者からも[生じ]ない。無原因から[生じ]ない。それゆえ本性たる自性は存在しない。

また一切の諸法は一と多から分析すれば、本性は認識されないので、無自性なものであると確定する。

『空七十論』や『根本中頌』などからも「諸事物の自性は空なるものである」ということが成立すると説明している。

テキストが膨大になるので、ここでは広げず、論証されている学説のみを修習のために説明する。

それゆえ、すべての諸法の自性は認識されないので、無我を修習することが智慧を修習することである。

智慧によってあらゆる諸法の自性が見えないように、他ならぬその智慧を明知によって分析し、それを無分別のために修習すべきである。

分別から生じた生存は分別を本体とするものである。それゆえ、分別を残りなく断じ、涅槃によって最高となる。

また、そのように世尊は「分別は大きな無明であり、輪廻の海に落とすものである。無分別の三昧に住する者は虚空のように無分別が明らかとなる。」とお説きになった。『入無分別陀羅尼』にも「この正法を勝者の子が無分別を思惟すれば、行き難きを越えて、次第に無分別を得るだろう。」と説かれている。(47a5)

教証と論理により一切の諸法は不生という無自性を確定してから分別することなく修習すべきである。(48a6)

そのように真実を修習して次第に煖などを得てから、歓喜地などを得るようになり、仏陀の菩提は長い時間かからずに[得られる]。

真言の力で成就する息災や増益などの事業によって、また賢瓶の成就などの八大成就などの力によっても、安楽に菩提の資糧を完全に成就することを望み、所作や行などのタントラに説かれている真言の行を望むならば、その際は阿闍梨の灌頂のために、尊敬と宝などの布施や仏説の成就など、あらゆる仕方で正師を喜ばせるべきである。(49a4)

師が喜ぶことで完全な阿闍梨の灌頂によって全ての罪過が浄化され、自身は悉地を成就するための福徳が具わるようになる。

『本初仏タントラ』に努めて禁じているので、秘密灌頂と般若智灌頂は梵行者が受けてはならない。もしその灌頂を把持するならば、梵行の苦行にとどまる者が禁じられていることを行じることになるので、その苦行と律儀を失い、その禁戒を持つ者は波羅夷罪が生じることになり、彼は悪趣に必ず堕ちるので成就は決してない。(50b2)

あらゆるタントラの聴聞と解説、護摩や供養などをすることは、阿闍梨の灌頂を得て真実を理解する者にとっては過失はない。

長老ディーパンカラシュリーは経典などの法から説いているのを見たチャンチュプ・ウーの誓願により菩提への道をまとめた。

『菩提道灯論』という偉大な軌範師ディーパンカラシュリージュニャーナの著作が完成した。

インドの賢者でィーパンカラシュリージュニャーナと、チベットの翻訳官である比丘ゲウェ・ロドゥが翻訳・校正し、確定した。