ヨーガスートラ

さて、ヨーガの権威ある教えを始めよう。

ヨーガとは、心のはたらきを止滅することである。

その時、見る者は本来の姿にとどまる。

そうでない時は、心のはたらきと同じ形を帯びるように見える。

心のはたらきには5種類あり、苦しみを伴うものと伴わないものがある。

5種類の心のはたらき(心の波)とは、正しい認識、誤った認識、概念化、深い睡眠、

そして記憶である。

正しい認識とは、直接の知覚と推論と聖典の証言から成る。

誤った認識とは、対象への誤った像を投影することである。

概念化とは、言葉だけによる知識であり、対象は存在しない。

深い睡眠とは、目覚めた状態も夢を見る状態も否定された心のはたらきである。

記憶とは、過去に経験した対象が心の中に保たれることである。

これらの心のはたらきの止滅は、実践と離欲によって起こる。

実践とは、止滅の状態にとどまるための努力である。

実践は、長い間、中断することなく、心を傾けて行って初めて堅固な状態になる。

離欲とは、見たり聞いたりする対象に対して欲望を持たないことを習得することである。

最高の離欲とは意識を認識することから起こり、グナの現れに対する渇望がないことである。

対象のあるサマーディとは、熟考、考察、歓喜、私であることに関わるものである。

もう1つのサマーディは心のはたらきを静める実践をした結果起こり、潜在印象だけを残す。

肉体を持たない者、プラクリティに没入する者には出現の意図がある。

他の人は、信念、情熱、記憶、サマーディ、叡智を通じて、アサンプラジュニャータ・

サマーディを得られる。

大変熱烈に実践する者にとって、サマーディは近い。

熱烈な者はまた、穏和、中位、強烈に分けられる。

あるいは、イーシュヴァラへの祈念によって。

至高の存在とは意識の特別な形であり、煩悩、業、業報、業

遺存に影響されることのないものである。

至高の存在は、すべてを知っている点でまさるものがない。

時間の制限を受けることがない至高の存在は、他の師たちにとっても師である。

至高の存在の表現が、聖音オームである。

オームを繰り返し、その意味への念想がなされなければならない。

この実践によって内なる自己を知り、障害はなくなる。

障害とは心の迷いのことであり、病、厳格さ、疑い、不注意、怠惰、放縦、誤った視点、

ある状態を到達できないこと、その状態にとどまることができないことを指す。

障害によって、苦悩、失望、体の不安定さ、呼気と吸気の乱れが生じる。

これらの障害を排除するには、1つの原理を実践することである。

心の清澄は、他人の幸福への親しみ、不幸へのあわれみ、徳への喜び、不徳への無関心

を抱くことで生じる。

あるいは、息を吐き呼吸を止めることによって。

また、五感を超える知覚の発達も、心の集中の助けとなる。

心の安定は、悲しみを超えた輝く光を知覚することでも得られる。

欲望のない人間を瞑想することによっても、心は安定する。

夢の対象や夢を見ない睡眠の状態を瞑想することによっても、心は安定する。

適切ないかなる対象を瞑想することによっても、心は安定する。

極小の徴粒子から字宙全体に至るまで、いかなる対象にも心が集中できたときに熟達は

成し遂げられる。

心の波が少なくなれば、知覚されるもの、知覚する過程、知覚する者のいずれであろうと、まるで汚れのない水晶のように目を向けたいかなる対象も、心は正しく写しているように見える。この状態を同一性と呼ぶ。

熟考のサマーパッティとは、言葉、対象、知識が概念化を通して混ざっているサマーディ

である。

記憶が浄化されれば、心の本来の状態がなくなってしまったかのように、対象だけが光

り輝いて現れる。これが超熟考のサマーパッティである。

同様にして、微細な対象に基づく考察のサマーパッティと超考察のサマーパッティも

説明される。

微細な状態は、根本原質において完結する。

これらすべてが種子のあるサマーディである。

超考察のサマーパッティの輝きによって、内面は浄化される。

そこで叡智が真実となる。

この知識は聖典や推論を通して得た知識とは異なり、特殊なものを対象とする。

この知識から生じる潜在印象が、新たな条件づけを行う。

これらもまた止んだ時には、心全体が止滅の状態となり、対象のないサマーディとなる。

第2章実践

行為のヨーガは、サマーディに近づき煩悩を弱めるために行うものである。

行為のヨーガは、苦行、自己の探究、至高の存在への祈念から成る。

類悩とは、無知、自我意識、欲望、嫌悪、そして死への恐怖である。

無知とは体眠したり、弱まったり、中断されたり、活動したりしている他の源である。

無知とは、一般的なものを永遠なものとして、不純なものを純粋なものとして、苦しみ

を喜びとして、そして非自己を自己と見なすことである。

自我意識とは.見る者と見ることを同一のものとして認識することである。

欲望とは快楽に執着することである。

記憶した苦しみから起こる煩悩を、嫌悪と呼ぶ。

死への恐怖は賢者ですら感じるものであり、存在の持続を願望するために生まれる。

微細な状態の煩悩は、心の消滅によって打ち壊される。

煩悩から生じる心のプロセスは、瞑想によって打ち消すことができる。

行為が煩悩に基づくものであれば、カルマは現在と未来において経験される。

この煩悩の根源であるカルマの貯蔵所が存在する限り、出生、寿命、鴃楽と苦悩の)経

験という形で成果がもたらされる。

見られるものは光、活動、不活発という質で作られ、元素と感覚器官で構成される。

これは、経験と解脱を目的に存在する。

グナには、粗雑、微細、現れる、現れていないという4段階がある。

見る者は純粋な意識である。それは観照する現象の形を帯びているように見えるが、実

は何の影響も受けていない。

見られるものは、まさしくその本質からして見る者の目的のためだけに存在する。

解脱したプルシャに関する限り、見られるものは消滅する。しかし、他のまだ東縛され

ている人にとっては現れたままの状態である。

(見る者と見られるものの)結合は、所有者と所有されるものという2つの能力の本性

を理解する根拠となる。

この結合の原因は、無知である。

無知がなくなることで、見る者と見られるものとの混合は止む。この状態は独存、見ら

れるものからの独立と呼ばれる。

解脱のための手段は、永続的な識別知である。

識別知を得ている者には、7段階にわたってこの究極の洞察力が生じる。

ヨーガの諸部門(八支則)を実践することで不純なものが取り除かれ、知識と識別の光

が現れる。

2四禁戒、勧戒、アーサナ、調息、制感、集中、瞑想、サマーディが、ヨーガの八支則である。

230非暴力、正直、不盗、禁欲、不貪が禁戒である。

出生、場所、時期、状況の種類に妥協することなく、5つの禁戒を普遍的に実践するの

が大誓戒である。

清浄、知足、苦行、自己の探究、至高の存在への祈念が勧戒である。

対立する思考がこれらの禁戒と勧成の妨げとなるなら、対極にあることを熟考するべき

である。

欲、怒り、または愚かさから生じ、すでに引き起こされ、あるいは容認されてしまった、

暴力性などのような障害となる思考は、穏やかなものであれ中庸のものであれ激しいも

のであれ、一層の苦痛と無知をもたらす。なぜなら、この認識が対極にあるものを高め

ることだからである。

非暴力を確立した人がいるところでは、すべての敵意はやむ。

正直を確立したならば、行為とその成果は言葉と一致する。

不盗を確立したならば、すべては宝石となる。

禁欲を確立したならば、活力が得られる。

不貪を確立した人は、過去と未来の出生に関する知識を得る。

清浄であれば、自分の体は守られ他人に汚されることはない。

心の清澄さから喜び、1点集中の状態、感覚の制御、自己を知る準備が生じる。

知足から、この上ない喜びが生じる。

苦行は不純物を破壊し、それによって体と感覚器官に超能力がもたらされる。

自己の探究を確立することで、自らの選んだ神との交わりが生まれる。

至高の存在への祈念によって、サマーディは成就する。

アーサナは安定していて、なおかつゆったりしたものでなければならない。

アーサナの確立は、努力がやみ、無限への瞑想によって得られる。

ァーサナにおいて、相反して対となるものに攻撃を受けることがなくなる。

ァーサナが成し遂げられたならば、プラーナーヤーマを実践する。プラーナーヤーマと

吸気と呼気を通して動揺を取り除くものである。

外的保持、内的保持、そして中間の保気がある。空間、時間、数を観察することで、呼

吸は長く微細になる。

内的領域および外的領域が超越すれば、第4(のプラーナーヤーマ)である。

こうして、輝きの覆いが取り除かれる。

その時、心は集中に適したものとなる。

心が外側から引き寄せられれば、その時感覚はそれに追随し、感覚の対象となるものから

離れる。これがプラティャーハーラである。

そこから感覚に対する最高の統御が起こる。

第3章起自然力

集中は、心をある場所に固定することである。

そのダーラナーで対象への気づきが途切れることなく流れれば、これが瞑想である。

その瞑想において、心の修正をまったく受けることなく対象だけが輝き出れば、それがサマーディである。

もしこれら3つを同時に行えば、それはサンヤマと呼ばれる。

サンヤマに熟達すれば、知識の光が輝く。

サンヤマは、いくつかの段階を追って行う。

これら3つの支則は、(第2章で説明のあった)これより前の支則に比べて内的なもので

サマーディである。

しかし、ダーラナー、ディャーナ、サマーディも、種子のないサマーディに比べれば外

的支則である。

心のゆらぎによる満在印象が(心の活動の)止滅の印象に置き換えられれば、心のはたらきが停止する瞬間が起こる。これは、止滅への転変として知られている。

心の活動の止滅という印象を繰り返し適用することで、心は静かに保たれる。

散乱した状態の心が1点集中に変われば、これを心のサマーディへの転変という。

過去に弱まっていた想念と次に起こっている想念が類似していれば、これが心の1点

集中への転変である。

これによ。て、元素や感覚器官に関する特性、出現、状態の転変もまた説明されたのである。

過去、未来、現在において常に存在する本質は、対象そのものと呼ばれるものである。

転変の違いは、連続性における相違が原因で起こる。

種の転変に対してサンヤマを行うことで、過去と未来の知識が生じる。

言葉、言葉の説明する対象、および言葉の背後にある概念は、常に混同されている。

これら3つに連続してサンヤマを行えば、すべての生き物の意思伝達を理解することが

可能となる。

潜在印象を直接認識することで、過去世の知識が得られる。

他人の考えや思考に対してサンヤマを行うことで、その人の心の状態すべてを知ること

ができる。

思考の基盤となる対象は、このサンヤマでは明らかにならない。

自ら肉体の形態に対するサンヤマを行うことで、外から見られる能力が抑えられる。

これは、体から観察者の目へと伝わる光を中断することで生じる。

カルマの成果には、すぐ起こるものと引き伸ばされるものがある。カルマに対してサン

ヤマを行う、あるいは前兆を観察することで、死期を知ることができる。

親しみ、あわれみ、喜びに対してサンヤマを行うことで、人はそうした力を得る。

ゾウの強さに対してなど、どんな形であろうと強さに対してサンヤマを行えば、この強

さを得ることができる。

対象が徴細であろうが、隠されたものであろうが、あるいは遠くにあろうが、より高度

な認識の輝く光を対象に向けることで、それらを知ることができる。

太陽に対してサンヤマを行えば、全宇宙に関する知識が生じる。

月に対してサンヤマを行えば、星の配置に関する知識が生じる。

北極星に対してサンヤマを行うことで、星の運行を知ることができる。

へそのチャクラに対してサンヤマを行えば、医学的知識が得られる。

のどの穴に対してサンヤマを行えば、空腹と渇きがやむ。

クールマ・ナーディーに対してサンヤマを行えば、完全な堅実性が得られる。

頭の中の光彩に対してサンヤマを行うことで、シッダを見ることができる。

そうでなければ、光の上昇する輝きからすべてを知ることができる。

心臟に対するサンヤマを通して、心の理解は得られる。

他の目的を果たすための経験は、本来はまったく異なる知性と意識を誤。て1つにして

しまうことと定義されている。それ自体のために存在しているものに対してサンヤマを

行うことで、プルシャに関わる知識が得られる。

そこから、照明智や超自然的な聴覚、触覚、視覚、嗅覚、そして味覚が生じる。

これらすべては心のはたらきのためのカであるが、サマーディには障害となる。

東縛の原因を緩和し、心がどのように動いているのかを知ることで、心は他人の肉体~

入ることができる。

ウダーナの流れを支配すれば、水、泥、とげに煩わされなくなり、死の際には上方に昇る。

サマーナの流れを支配すれば、光彩が得られる。

引空間と聴覚の関係に対してサンヤマを行えは、神聖な聴覚が得られる。

空間と体の関係に対するサンヤマを行うか、あるいは綿の繊維のように軽さという質を

持つ対象に対してサマーパッティを行えば、空間を移動することが可能になる。

「大脱身」とは粗雑な肉体を離れ、想像を超えたところで機能する技法である。大脱身

を遂行することで、輝きを覆っていたものは壊される。

要素は、粗雑、本質、微細さ、内在、目的という5つの特性から説明することができる。

5つの特性に関して連続してサンヤマを行えば、要素を支配することができる。

こうしてサンヤマを行うことで、8つのシッディが得られる。これらは、要素の特質に

よって妨げられるものではない。

肉体の完成とは、美しさ、力強さ、優雅さ、そしてダイヤモンドの堅固さである。

知る過程、本質的な性質、自我、内在、目的に対してサンヤマを行うことで、感覚の支

配を得る。

そこ(感覚の支配)から、心が動くように速く体を動かす能力、肉体からの独立、そして

出現の原因の支配が生じる。

知性と意識の違いを知ることで、すべての存在の状態を統治し、全知を得る。

統治と全知に対してさえも最高の離欲を行うことによって、未来のカルマの様子は破壊

され、その結果独存が得られる。

天人からの招待を受けても、高慢さや執着を生み出してはならない。再び望ましくない

結果をもたらすことになってしまうからである。

瞬間とその連続に対してサンヤマを行うことで、識別から生まれる知識が生じる。

これにより、種類、特質、空間での位置が同一である2つの対象を識別できるようになる。

識別知があれば、人を超越させることができる。識別知とはすべてに対する理解力があり、

時間を超えたものである。

知性が意識と同様に清浄になれば、解脱へと導かれる。

第4章独存

超自然力は前世の行い、薬草、マントラ、苦行、サマーディから生じうるものである。

根本原質を通して、新たな生へと転変する。

私たちの行為は、新たな肉体の動力因ではない。たた、農夫のように障害を取り除く

ものである。

生成された心は、1つの私であることからのみ生じる。

一つの心が、生成された心による異なる活動を導く。

シッディを蓄積する5つの方法のうち、瞑想から生じるものにはカルマの残余がない。

ヨーギのカルマは白くも黒くもなく、その他の人のカルマには3種類ある。

3種類のカルマの結果、条件づけが生じ、それがまた付随した行為を生み出す。

記憶と潜在印象は、たとえ誕生、時間、空間によって引き離されていようとも

つながっている。

これらの潜在印象と記憶には、始まりがない。欲望とは、始まりのないものだからである。

潜在印象は原因、結果、基盤、裏づけとなる対象によって保たれている。これらがやめ

ば、潜在印象もなくなる。

過去と未来という概念は、単に特性の進路の違いのために存在するものである。

3つの時間の状態は出現している状態、あるいは微細な状態であり、グナによって形成

されている。

対象の本質は、転変の統一性によって生み出される。

同一の対象が、さまざまな心によってまったく違った形で表される。これで、心と対象

は2つのまったく異なるものであることが証明される。

対象は、1つの心に依存しているとは言えない。依存しているのなら、その心に認識さ

れない時には対象はどうなると言うのか。

心は、対象が心を色づけしているかどうかによって、対象のことを知っていることもあれば

知らないこともある。

不変の意識は、意識を支えるもの、すなわち揺れる心について常に知っている。

心は、気づきの光を持ってはいない。それが見られるものの本質だからである。

そして、心と外にある対象の両方を同時に確かめることはできないのである。

心への気づきが第2の心から来るものであれば、無限の後退と記憶の混乱へとつながる

はずである。

気づきを知性に対して発する過程において、意識は知性の形を帯びるように見える。

見る者と見られるものによって色づけされることが、心の目的である。

心は無数の潜在意識の条件づけに色づけされているが、他のために存在するものである。

なぜなら、心は集合して働くからである。

区別を理解する人は、自分の本質について疑問を抱くことがなくなる。

その時、心は識別知に傾き、解脱はもはや遠くはない。

潜在印象によって、隙間には他の思考が起こる。

潜在印象は、煩悩と同じプロセスで除去することができる。

永続的な識別知の中において、瞑想から得たどんなものからも自分自身を切り離せば、

雲という特質を散り散りにするサマーディに入る。

このサマーディから、煩悩の形態とカルマがやむ。

その時、覆いとなる不純物が知識の無限性から取り除かれ、知りうる事柄は取るに足ら

ないものになる。

このようにしてグナは目的を達成し、一連の転変は終結する。

転変の終結を通して、瞬間が構成する連続は終わる。

グナが目的を失って根源へと戻れば、その時独存が起こり、純粋な意識が本来の姿の

うちに安住する。

(グレゴール・メーレ著、伊藤雅之監訳『現代人のためのヨーガ・スートラ』ガイアブックス、2009年6月、ⅳ-ⅹⅴ)